半島の思考様式と軌を一にし、マンネリ化して黴の生えた朝日新聞とその世界観への批判が見出しになるのは、然るべき人々の耳目を集めるお約束です(笑。朝日のいう「貧困」は彼らのお花畑から見た「貧困」なのでお話になりはしないでしょう。

 

ここでのポイントは飯山陽(いいやまあかり)氏の言説でしょうね。

 

飯山氏は、端的に言えば、イスラム教は一神教のなかでも最も身勝手で排他的、そして過激な原理主義者、例えば「イスラム国(ISIS)」は世界征服、世界のイスラム教化を望んでいる、という感じですかね。

 

「異教徒は抹殺すべき対象である。彼らを奴隷化することも間違っていない。ジハードは最高の倫理的振る舞いである」と氏の著書に対するamazonの触れ込みにありました。

 

 

この飯山氏の見方には多くのイスラム教の専門家が反論しています。次のような聖典クアルーン(かつては「コーラン」と呼びましたね)に書かれている文脈を、氏は理解していないのではないかと。

 

雌牛章第190節 「あなたがたに戦いを挑む者があれば,アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは,侵略者を愛さない。」
 

雌牛章第191節 「かれらに会えば,何処でもこれを殺しなさい。あなたがたを追放したところから,かれらを追放しなさい。本当に迫害は殺害より,もっと悪い。だが聖なるマスジドの近くでは,かれらが戦わない限り戦ってはならない。もし戦うならばこれを殺しなさい。これは不信心者ヘの応報である。 」
 

雌牛章第192節 「だがかれらが(戦いを)止めたならば,本当にアッラーは,寛容にして慈悲深くあられる。」
 

雌牛章第193節 「迫害がなくなって, この教義がアッラーのため(最も有力なもの)になるまでかれらに対して戦え。だがもしかれらが(戦いを)止めたならば,悪を行う者以外に対し,敵意を持つべきではない。」

 

いや、我々日本人の感覚を超える「対立的文化」、英語で言うadversary cultureがにじみ出ていますな。

 

そして飯山氏批判は、対立的文化であるにせよ、クアルーンの教義は上に見るような「応報思想」(「目には目を…」、が有名ですね)から、「専守防衛」的な姿勢までのいずれかの奈辺に位置するであろうこと、つまり積極的な他者征服や支配を意図しているようには読めない。…ということを考慮せずに、殊更にイスラムの敵対的性向を脅威とみなすのはいかがなものか、というものです。

 

私はというと、そもそもイスラム過激派の活動の根拠をクアルーンに求めることが本当に正しいのか、という視点で眉に唾をつけて観ています。

 

歴史を見れば、あらゆる宗教において、その教義と人々(信者)との乖離が起きるからです。


例えば、世界を覆うもう別の一神教において、その教義に馴染まない大量殺戮が何度も起きてきたのは、何故でしょうね?聖書を根拠にすればありえない話ばかりです。我が国でも戦国時代が終わるまで仏教勢力は武装し、しばしば暴徒化していました。

 

また他方で、世俗化したキリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒もいて信仰と現実の生活を区別して暮らしています。

 

過激な方向と、世俗的な方向の2つに分かれて教義から離れていきます。

 

アフガンのタリバン新政権は「イスラム法」による統治を宣言しましたが、みものです。ホメイニ師のイランは革命後厳格なイスラム法に戻りましたが、やがて緩めてゆきます。どのようになるか?、しかも支那の影響下で…

 

 

同時に、イスラムはなぜあれほどまでに世界に拡散しているのか?ということを常々不思議に観ています。

 

むろん、政治抗争や内戦により難民となって国を捨てた人々がたくさんいる、というのは報道で知ってはいます。同じイスラム教でも宗派が異なれば、互いに排他的になることも理解しています。一方が優勢になると他方が、住む場所を追われてしまう。

 

そしてそれは結果的に、各地で抗争や紛争が起きるたびに世界にイスラム教徒が拡散することを意味します。また、伝統的イスラム国の出生率は低下しながらも(あれだけ難民が出れば出生率は下がるでしょうが)、世界のイスラム教徒の数は増え続けています。イスラム教徒の人口は世界で16億人といわれ、2100年頃には22億人のキリスト教徒を抜くのではないかと言われています。

 

イスラム過激派の起こす凄惨な事件とは裏腹に。

 

 

 

武漢肺炎禍で一息ついた格好ですが、我が国でも観光客や移民労働者のインバウンドめがけてハラールに対応する飲食店が話題になり、イスラム教に対応して我が国の伝統に即した埋葬法(「墓地、埋葬などに関する法律」)を改正して、土葬を認めよという議論が起きていました。観光客向けハラールはまだしも、伝統的に火葬の国である我が国に土葬は、我が国の伝統に影響を及ぼすのではないかと心配しています。

 

そしてもちろん、イスラムの拡散は、そこに混入する過激派の拡散にも繋がるリスクも想定する必要があると考えます。

 

宗教を含む歴史文化は、その土地の気候風土の影響や、他民族、他文化圏との位置関係(地政)によって生まれる人間のリアリティ(認識、なにをどう見るか)によって醸成されるものと考えます。土地・気候風土と血と言語が渾然となって文化圏を形成し民族や国家の原型となるものと見ています。

 

ですので、昨今の科学技術と経済の論理による先鋭化したグローバリズムに起因した人々の移動は、どの文化圏にとっても、それぞれの文化圏の伝統や良いところも悪いところもスポイルしていくであろうと思います。また、文化圏同士の侵食が紛争の火種になる、というのは昔から言われてきたことでもあります。

 

だから、それぞれの宗教はそれぞれの土地と文化圏で閉じていた方が平和なのです。

 

ですが羅針盤と航海術を手にした人類は、別の文化圏の富に依存するようになりました。ユダヤ民族が欧州全域に離散し、キリスト教徒は羅針盤と航海術で世界に布教と植民地支配をもたらしました。そして今、ある種宗教とも言える共産主義を掲げた支那人は世界に拡散しています。そしてイスラムもまた世界に拡散しています。

 

キリスト教の大航海は国王と教会が資本を出しました。中共は、むろん中共が集めたグローバリストの金(残念ながら、我が国の資金も含む)を使って広がっています。イスラム原理主義者たちはどうでしょうね?もしやはり世界の混乱で富の拡大を狙う勢力がスポンサーだったら?教義とは関係のない活動が、そこかしこで起きるでしょう。テロです。

 

太古より戦争は人の移動と生活圏・経済圏の奪い合いで始まります。

 

飯山陽氏の見方は、教義と人々の行動の乖離、そして一神教や共産主義特有の他者支配の視点から、大いにリスクとして評価されるべきだと思うのです。決して、貧困の問題ではありませんし、貧困の問題であれば、本来はまずその民族、その国で解決すべきなのです。でなければ、隣の半島のような国が増えてしまう。

 

私は、おおむね共通の文化的価値観を有する日本人の土地(生活圏、ないしはクニ、ないしは国)は、来客は致し方ないとして、生活圏としては日本人のために閉じておいた方が良いと考える者です。その方が無用の争いを避け、平和に資する。

 

「日本は日本人のためだけのものじゃない」と宣ったお花畑の元総理大臣がいましたが、言語道断です。

 

それではこれまで我が国を守ってきた先祖に申し訳が立たず、将来の日本人にとっても不幸の種を蒔くことになります。

 

 

 

幸魂奇魂守給幸給クローバー