いや、だれも私の意見など求めてはいないと思いますが書いておきます。

 

…まだ様子見です。

 

以上終了。

 

 

 

だとつまらないので少し書き足します。

 

小政党への投票は、昔書きましたが大政党や既存政党に「否」を突きつけるためにあります。

 

棄権や白票は選挙制度上、無価値です。

ですからなにがしか候補者に票を投じなければなりません。なので小政党なのです。

 

小政党や泡沫候補の得票数は、ひとつのバロメーターであり圧になります。勝てないまでにしろ小政党の躍進は、大政党や既存政党に対する「否」のメッセージとして存在感を増します。場合によっては当確すれすれの大政党や既存政党の候補者たちを脅かすようになる。大政党や既存政党の比例代表の得票を減らすことにもつながります。

 

それでも小政党が国会を席巻するほどの力を瞬く間につけることはありません。だから有権者の不満を伝えるには、小政党が小政党であるうちは、選挙民は小政党を最大限活用させてもらった方が良い、というのが私の基本スタンスです。

 

ただ維新の会や都民ファーストの会(希望の党)のように目立つタレントがいて、さらにランチェスター戦略IIよろしく、地域を限定して主要資源を集中投下するような戦略を持つ政党は、始まりが小政党でも要注意ではあります。まあ、小池百合子氏や橋下徹氏+維新の面々、山本太郎氏の話を聞けばわかりますがね。保守を望む人の眼中にあってはいけません。

 

さて、このところ我が国にも「保守」を標榜する小さな政党がたくさん現れてきました。

 

喜ばしいことであり、その憂国の志、誠に天晴と感じる次第です。

(足の引っ張り合いは見苦しいですが)

 

ただ絶えずつきまとうのはそれらの政党が「本物」か否か。皆さんそこをひどく気にする。

もうこれ以上がっかりしたくない、と言うのは日本に覚醒した人の共通の情念だと思います。

 

でも、いや、偽物でも良いのです。彼らが一気呵成に勢力を伸ばすことはありません。ハナからがっかりしていればどうと言うことはない。

 

また、簡単には本物は出てきません。一方で、本物には本物がわかる人が必要です。

 

小規模保守政党が無視できなくなるくらいに存在感が高まって、主流メディアが無視できなくなって、やっと世の中にすこしは本物が分かる保守層が増えるのです。候補者だって力のある本物に支えられなければ、たちどころに砂上の楼閣と化すでしょう。

 

そして、目立ちたがりの偽装保守なのか、敗戦利得者右派や親米ポチなのか、戦前の左傾化した軍人とアタマが同じなのか、明治の御一新で開国利権にやられたクチなのか、そんなことが見分けられるような人々が増えてはじめて本物の流れができるのです。

 

しかしそれでも例えば明治の御一新にしても、賀茂真淵、本居宣長ほか国学の四大人が国学を建て宣長の没後70年弱かかって大政奉還となりました。国学はそのひと世代前の契沖がいなければ開眼しません。契沖は藤原定家(1241年没)の書いたものがなければ本居にバトンを渡すことはできませんでした。天壌無窮、我が国肇国にいたる道筋ですら細々と続いてきて、天皇ご親政に戻るまで八百年弱の時が流れるのです(ご親政そのもの良し悪しは置いておいて)。

 

そして地域、文化圏としてのクニに立ち戻って保守しようとするならば縄文を起点しなければなりません。縄文人から八百万の神々が生まれ、天皇が生まれ、大和をつくってきたのですから。

 

この長い歴史の中で、我が国を保守してきた人々というのは、実にか細い糸のようなつながりで成り立ってきている。そうした人々と、本朝の民に脈々と培われDNAレベルにまで染み込んだ美徳、そして皇統のたゆまぬ努力との三位一体によって保たれてきた、と言えましょう。

 

私はいまのところ保守の真髄を本居宣長に置いていますが、彼もまた求道者であり道を極める途上にあったと思います。だから時として言うことが変わる。しかし変わらなかったのは、宣長はその当時にも本朝に蔓延っていた、「からごころ」に侵された日本人への批判。偽日本人とでもいいましょうか。

 

その当時から偽日本人がいたのです。今の状況は言わずもがな。

 

我が国の政治に必要なのは改革ではなく回復、再生であり、肇国の志に立ち戻ってそれを現代に再度根付かせることが大切だと思っております。

 

 

 

 

 

 

幸魂奇魂守給幸給クローバー