小堀桂一郎氏講演『福田恆存と國語問題』をシェアします。

 

動画も長いし、拙文も長い。秋の夜長むけです。暇な人のみお付き合いください(笑

 

福田恆存と國語問題 講演、小堀桂一郞先生~字幕修正版

(動画の所有者により本ページでの埋め込み再生ができません。ご覧いただくには上のタイトルをポチッと。53分53秒の長尺ものです。)

 

小堀氏はこのビデオでこう言います。

 

正しいことと正しからざる事との區別がはつきりと見えて、さういふ文化を許す社會は、之は正しからざる事に便乘して生きてゆかうとする人にとつては慥かに棲みにくいですね。

 

其處で絶えず正しさへの不滿を述べる。多數者たる大衆がこの正しさの狀況に堪へられないんだ、と云ふ風に抗議する譯であります。で結局、「正」と「不正」との位置を相對化して了つて、その結果正しからざる事に權利を與えようとする。

 

このビデオで小堀郎氏が難じているのは、いわゆる「歴史的仮名遣い」を廃して「新仮名遣い」に改めた勢力のこと。

 

大雑把に云って、それらは西洋礼賛派、左翼、進歩主義者、功利功名心に駆られた改革主義者、レントシーカー…あるいはオルテガの言う「大衆」化して堕落したエリートの面々なのでしょうな。

 

引用した言葉は、現代の、国の内外を含めた世間のあらゆる現象に通じるものとして受け止めています。

 

「正しからざる事に便乘して生きてゆかうとする人」のなんと多いことか。白を黒と、正しからざることを正しいと言いくるめようとし、正しからざることを「権利」と詐称する者共のなんと多いことか。政治の世界にも、学者の世界にも、商売の世界にもいて、なげかわしいことです。

 

が、どの時代もそうしたいかがわしく邪で浅ましい人々がいて、それなりの勢力を持っているのは歴史の常ですね。光あるところ必ず陰あり、ですかね。

 

おっと、早々に話が終わりそうですが、此処からが長い(汗

 

小堀桂一郎氏と、小堀氏がこの講演で取り上げた福田恆存氏が戦った国語国字改革論者は、こんなことを主張する人々でした。

 

(一)日本の近代化が遲れたのは漢字が難しく、知的特權階級を除いて、一般大衆が讀み書きに習熟し得なかつたためである。

 

(二)漢字は封建時代に支配階級が自分の權威を誇示し、大衆を政治から遠ざけるために利用されてきた。

 

(三)言葉も文字も、人閒の意思を傳達理解するための道具であるがゆゑに、專ら傳達と理解といふことを目やすに改良されなければならない

 

(四)まづ考へなければならないのは能率である。「素晴らしい働きをする」事務機械、すなはちタイプライター、テレタイプ、電子計算機、穴あけカードによる事務のオートメイション的處理によらねば、「國際的な競爭」に勝てるものではない。それには表音文字の採用が必要である。

 

(五)しかし、それは古典の破壞を意味しない。專門家や智識階級は文化の「頂點」に位するものであり、その「底邊」には一般大衆がゐる。目的はこの「底邊」を擴大することによつて、「頂點」を安定させることにある。古典の言葉および文字はそのまま「頂點」において保存し、新聞や日常語は「底邊」を這はせて簡易化するのが理想である。

 

福田恆存、『私の國語教室』、昭和三十五年

 

これらの主張、考え方の誤りは福田氏が見事に抉っていますから興味ある方は本をお読みいただくとしますが、誰がどう見たって「日本の近代化が遅れた」という認識からしてアウトです。文明とは何か、文化とは何かについてなんら深みのない決めつけしかありません。これが、現在の「当用漢字・現代かな」に変えられて十五年後、昭和三十五年当時の「国語審議会」界隈、つまり官学産連携が我らが国語に対して晒していた正体です。心ある人々にとっては、唯物論、共産主義、選民思想の強い匂いにやや吐き気を覚える既視感しかないでしょう。いまでも出羽守が「日本は…遅れている」と、同じ芸風で世の中をかき乱していますがね。

 

蛇足ですが、電子計算機の発達は、私のような「頂點」には属さない「底邊」の奈辺にいる者でも容易に現代漢字のみならず旧字旧仮名遣いを簡単にタイプできるようになってしまいました。しかも「能率」良く。計算機は漢字の画数や文字の新旧を無意味にしました。役所の決めた当用漢字常用漢字の意味の大半が失われました。あの邪な人々にとっては大きな誤算だったことでしょう(笑

 

さて、国語国字、仮名遣いの簡易化運動は、明治大正にもあって、戦前の昭和にもぶり返します。そしてついに戦後、日本国憲法と時を同じくして、我が邦は、占領政策の一環か、はたまた戦前から我が国に巣食う共産主義社会主義者の運動か、あるいはそれらが結託してのことか、まんまと国字を簡易なものに改められ、いまの現代仮名遣いとよばれる中途半端な仮名遣いが普及するようになりました。

 

中途半端というのは、表面的には、歴史的仮名遣いが「語に従う」仮名遣いであってそれなりに一貫していたのに対して、現代のそれは仮名は発音に従う表音主義を掲げながら結局は一貫性を持たせきれなかったこと。国語改革急進派は仮名をすべてローマ字にしようと主張していましたが、これは容れられなかったこと(「ヘボン式」を「ヘップバーン式」に改められなかった人々が何を言うかw)。占領政策として戦前の歴史を破壊しようとして、完全な表音化の失敗を見ても、十分に仕切れなかったことなどを指してよかろうと思います。これを踏みとどまったと見るか、さらなる破壊への地歩固めが進んだと見るか。私は後者と見ていて気をつけている方が良いと思いますが。

 

ちなみに戦前の国語簡易化運動は、主に官界と学会による欧化政策と役所の公文書や学校教育における簡素化を企図(あるいは明治政府の権力の誇示と正当性の強化を底意にふくんでいたやも)したものでした。天下を取った為政者やエスタブリッシュメントが権威的な存在として後世に名を残す、ないしは利権のために過去を変える、という匂いもいますし、同時に欧化と共に流入した唯物論、功利主義の匂いもするように感じます。

 

國語に深刻な深傷を負わせたのは、占領軍施策や過去を否定しようと躍起になった革命勢力の尻馬にのった戦後の国語国字改革論者ですが、戦後に突然現れたのではなく、戦前から活動していた、という認識が重要です。対米戦争に走った勢力、軍国主義化の色合いを濃くした勢力は、実は左翼思想の持ち主達とスパイであることは、さまざまな傍証で明らかになりつつあります。ある面、左翼思想家は、戦前の自分たちのした悪を他人になすりつけて右翼、軍国主義者と呼び、彼らの悪を糊塗していると疑ってかかった方が良い。

 

さて、話を冒頭の小堀氏の「その結果正しからざる事に權利を與えようとする」という指摘に戻します。

 

この國語問題に絞って言えば、国語の変化という文脈では、何を以って「正しい」とするのか?、と疑問が湧く人も多いでしょうね。

 

「言葉」というのは時代によって移ろうものだと。開国と共に外国文化が流入し、あの戦争で連合国に蹂躙され、その中で結果論として国語が変わってしまったのだ。是非も無い、と。

 

それはその通りなのかも知れません。

 

しかし時代によって移ろうものとしても、では一連の国語簡易化・国語国事改革運動は正しかったのか?官学産の動機は正しかったのか?西欧化と官僚や学者の便宜のための改革で良かったのか?歴史を無視して時の政府や官僚の権力で変えて良いのか?占領軍が我が国を蹂躙し、占領政策として過去を悪者にして歴史を変え、ついでに国語を破壊したのは正しかったのか?これは、自然に言葉の意味や使い方が移ろうことを認めるのとは、まったく違う次元の話になります。そしてこれらを認めてしまえば、力による支配の暴走の果て、我が国は我が国でなくなり、我が國語は國語でなくなってしまうでしょう。福田は「被治者根性」と蔑み、「お上」が決めてくれれば従うという大衆の側にも責任の一端がありますが。

 

「歴史的仮名遣い(旧仮名遣い)」を捨てなければ、言葉の意味の移ろいや変体仮名などのハードルはあるにせよ、私たちは約千年前の平安の昔の人々、藤原定家の時代の仮名遣いに現代よりもずっと近かったのですから。戦前は、欧化と能率を目指して国語の簡易化により国語学者と一般大衆を分けようとしました。戦後は、戦前とのつながりを切断するために国語を変えてしまいました。

 

福田恒存は、こう言います。

一番大事なことは、專門家も一般大衆も同じ言語組纖、同じ文字組纖のなかに生きてゐるといふことです。同一の言語感覺、同一の文字感覺をもつてゐるといふことです。古典には限りません。江戶時代の無學な百姓町人が難しい漢語の續出してくる近松や馬琴を十分に樂しめたといふのも、そのためではありませんか。大衆が古典を讀むか讀まないかは第二義的なことで、古典をひたしてゐる言語文字と同じもの、同じ感覺に、彼等もまたひたされてゐることが大切なので、それによつて彼等は古典との關係を最少限度に保つてゐるのです。

 

福田、同

私は、この言葉は「その時代」という同時代性に範囲は限られず、歴史でも捉えます。歴史的に「専門家も一般大衆も同じ言語組織、同じ文字組織のなかにいる」ことで、より多くの人々が過去の継承と過去との対話の機会を持つことができるように思います。それが本来の國語のあるべき姿で、「正しい」姿だと思うのです。

 

「歴史的仮名遣い」の統一は、まず平安末期から鎌倉時代の人、藤原定家(1162-1241)が古典の写本を制作するために仮名遣いをまとめた『下官集』にはじまります。定家は官選の和歌集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を作るために、標準的な仮名遣いをまとめる必要があったのです。

 

そして時代の川を下って、南北朝の頃には行阿が『仮名文字遣』を著し増補し固めます。さらに江戸時代の国学者契沖(1640-1701)が万葉仮名、記紀などを元に表記法をおおまかに体系化した『和字正濫抄』をまとめます。その後本居宣長(1730-1801)が漢字音を加えて仮名遣いの標準化の大きな流れが形成されてゆきます。しかし、契沖、本居のものは国学者たちには支持されましたが、普及とまでは行きませんでした。平安の貴族文化が全国に普及して大まかな統一の基盤が存在していた一方で、さまざまな「お国ことば」も地域地域で形成されてました。徳川の治世は各藩に高度な自治が委ねられた幕藩連邦制といってもよく、国語の統一、というのも馴染みませんしね。しかし、漢字を多用した候文は、各藩のお国言葉に対する、共通語の役割を果たしていたと言われ、そのなかでは定家以来の仮名遣いが息づいていたことでしょう。

 

仮名は表音的に使われますが、そこから発展して言葉の意味に従って送られるようになりました。「頭痛」は「ずつう」ではなく意味に従えば「づつう」な筈なのです。しかし時の流れとともに発音が変わり、地方によって発音が異なり、同じ音、似た音を示す複数の文字があり、自由な使い方ができ、また地方によって用字も異なることから、普及は難しかったのでしょう。例えば「鯉」は「こひ」とも「こい」…とも書けますから。定家から始まった正しい仮名遣いは、ごく少数の者たちが支えてきました。

 

そして時を下って、明治の御一新で、ついに政府はこの定家、契沖、宣長と連綿と続いてきた「仮名遣い」を制式としました。

 

しかしそれでも「ゐ・ゑ・を」と「い・え・お」…などは統一が難しく、統一・普及には至らず明治四十一年に、教育上の便宜をもって発音に即した「官製」に改めようとしたことがあります。明治二十八年上田万年が持ち込んだ欧州各国で起きた表音主義に基づく綴り字改良論も追い風になりました。標準語が整わなければ、役所の文書にも、学校教育にも、さまざまな不効率があったのでしょう(今の技術文書に関わる人なら、用字用語の統一ができないことに目を三角にしてヒステリーを起こしそうですが…)。言葉というものはある程度簡便化した方が、行政においては効率的だと。

 

幸運なことに、この明治期の改革運動は森鴎外の帝国議会に於ける名演説によって、鎮火します。

政治で言つて見ても多數に依れば Demokratie 少數ならば Aristokratie と云ふ者が出て來ます。此の頃の思想界に於て多數の方から、多數の方に偏して考へますると云ふと、社會説などもそれであります。それから之れに反動して極く少數のものを根據にして主張する Nietzsche の議論などもある。之れに據ると多數人民と云ふものは芥溜(ごみため)の肥料のやうなものである、其中に少數の役に立つものが、丁度美麗な草木が出て來て花が咲くやうに、出て來ると云ふ樣な想像を有つて居る。少くも此の假名遣を少數者の用に供する者だと云ふ側から之れを排斥しますれば、其の反對の側に立ちますると云ふと、斯う云ふ風に言へるかと思ひます。一體古來假名遣と云ふものは少數のものであつたかも知れぬ。又近世復古運動が起りましても、此波動は餘り廣くは世間に及んで居ないに違ひない。併し契冲以來の諸先生が出て來られて假名遣を確定しようとせられた運動に、之れに應ずるものは國民中の少數ではあるけれども、國民中の精華であるとも云はれる。斯う云ふ意見を推擴めて人民の共有に之れをしたいと斯う云ふやうな議論が隨分反對の側からは立ち得ると自分は信じます。兎に角多數者の用ゐる者に限つて承認すると云ふ論には同意しませぬ。

 

『假名遣意見』森鴎外、明治四十一年六月(『青空文庫』収録)

 

ニーチェを引き合いに出す鴎外の調子にはあの時代の雰囲気や、なにかの気取りも見え隠れしますが、論点として、契沖以来の仮名遣いは、少数の者達によってのみしか正しく運用できていなかった。改正派はそれを変えて、大衆にとって安易なものにすべきだと。しかし多数派に阿り簡便なものにしよう意見には、軽々に賛同すべきではない、多数派の利便と少数による精華のどちらを志すか、後者でしょうと。ここでの"Demokratie"は、「衆愚」を暗喩しているのが明らかですね。

 

私は、少数の精華を捨てなかった我が国の歴史に、美徳を見ます。それは何事も「道」と捉え、生をその高みに到達させんと自らを律する精神を称揚してきた歴史にも通じます。

 

此度の假名遣に於けるところの許容と云ふことは、稍ゝとんちんかんだと思ふのであります。此の許容に就きまして、どうも私共の見る所では、世間に便利な道が出來て居るから許容すると云ふ、其の便利な道が出來て居ると云ふ御認定が、稍ゝ大早計である。早過ぎる場合が多いやうに思ふのであります。例之ば「得せしむ」と人が書いたところが、それを直に採上とりあげて是れが言語の變遷であると云つて、是れが便利な新道であると云つて、御認めになつて御許容になる。そんな必要はないかと思ひます。文盲の人があつて「得しむ」と云ふ語を知らないで「得せしむ」と書く。決して「得しむ」が不便だから「得せしむ」にしようと云つて書くのではないのであります。さうすると新聞や小説でもさう書く。それが媒介になつて次第に擴がる。是れも古びが着いて一つの歴史的のものになれば、誤謬から生じた詞でも認めなければならぬのでありますけれども、それを急いで認めることはどうも宜しくないかと思ひます。例之ば氣の狂つた人があつて道もない所を奔はしり、衆人が附いて行く。直にそれを是れが道だと云つて、大勢が附いて行くから道だと云つて直にそれを道にすると云ふのは、少し其の仕事が面白くないかと思ふ。間違を人のするのを跡を追駈けて歩いて居るやうに、吾々の立場から見ると見えるのであります。

(同、鴎外)

と。

 

そして、

古い假名遣は頗る輕ぜられて、一體にAuthoritiesたる契沖以下を輕視すると云ふやうな傾向がござゐますが、少數者がして居ることは詰らぬと云ひますと云ふとどうでせう。一體倫理などでも忠孝節義などを本當に行つて居るものは何時も少數者である。それが模範になつてそれを廣く推及ぼして國民の共有にするのであります。少數者のして居ることにもう少し重きを措くのが宜しいかと思ふ。

 

「世間に便利な道が出來て居るから許容すると云ふ、其の便利な道が出來て居ると云ふ御認定が、稍ゝ大早計である」という急進的な合理性の追求や大衆迎合への批判、警戒がありながら、西洋型の近代市民革命思想と資本主義のもたらす唯物的な尺度による「合理的な利益社会」(gesellschaft的な…)の怒涛の流入により、我が国の伝統的な「少数の精華」は幾度かの危難に遭い、あの戦争で粉々になりました。

 

戦後、少数者の、心ある人々が我が国を支えていれば、肇国の昔から明治までの集大成たる文字と仮名遣いを捨てることはなかったかもしれません。戦前からの堕落は、戦後、確定したのです。

 

戦前戦後の國語の分断、つまり歴史との分断は、GHQの所業、戦後左翼の仕業、敗戦利得者達の怯懦な妥協、いや恭順、と心ある方達は難じるでしょうし私もそう思います。しかし、これも私を含めて多くの人々の悪い癖として、「勝てば官軍」がまかり通る現実を認めるぶん、敗れた賊軍に堕した側は、安易な恭順と自虐に陥るのです。そこに安易と怠情も生まれる。権力は必ず腐敗するといいますが、実は反権力も腐敗するのです。

 

しかし、それらを難じる側には、それでは歴史的な正字・正仮名遣いに自らの言葉を直そうと志す人々がいて、顕正復古に努める人々がいて、その活動には敬意を表しています。そうした人々は、ネットにおいて「旧字・旧かな遣いクラスター」と揶揄気味にレッテルを貼られ、懐古趣味や右翼と批判され嗤う者たちと戦っておられる。

 

かくいう私も「現代仮名遣い」を用いてこれを書いているのは忸怩たるものがありまして、下記にご案内の『私の國語教室』(福田恆存著)を読んだが最後、以来、福田氏、小堀氏の仰るとおりの「怠惰と安易」の側に取り残されてしまいました(「読む」というのは苦にならない程度に鍛錬はしましたが、「書く」となると自信がないw…とはいえPCのかな漢字変換の辞書を調整すると旧字体は割と苦労なく書けてしまいます)。下記サイトは、旧字旧仮名遣いの文章を新字新仮名に変換するだけでなく、その逆、新字新仮名を旧字旧仮名遣い(正字正仮名遣い)に変換してくれます。

 

 

 

ビデオの冒頭、小堀氏は福田恆存氏の辭「政治が文化を支配下に置かうとする其の魂胆に自分は警戒を懐く」を紹介し、また「學問の衰退を来した年も同じ怠惰と安易とが、漢字制限を試みやうとしてゐるのである」と加えます。

 

福田氏はアカデミズムと戦いましたが、実はアカデミズム、すなわち「學問の衰退を来した」ときばかりでなく、実は我々庶民が安易に流れ、怠惰に浸り、利便性、功利や合理性を追求し、「世間に便利な道が出來て居るから許容すると云ふ、其の便利な道が出來て居ると云ふ御認定」の中に生きようとする欲望が強くなると、國語ばかりでなく少数の精華、先達の成果を否定しにかかるのではないでしょうか。

 

話を國語に戻しますと、福田氏は次の時枝誠記博士の発言を引いていますが、なるほどその通りと思わせられます。我々は「伝統の価値」をもっとつぶさに見なければならないと得心するわけです。

更に傳統は、單に無意味な文字の固定を、ただ傳統なるが故に守らうとするやうなものではない。本來表音的文字として使用せられた假名は、時代と共に、表音文字以上の價値を持つものとして意識せられて來る。それは觀念の象徵として、例へば、助詞の「を」「は」「へ」の如きはその最も著しいものであつて、ここに於いて文字發達史の通念である表意文字より表音文字への歷史的過程とは全く相反する現象が認められるのである。

 

(時枝誠記、『國語審議會答申の<現代かなづかい>について』(『國語と國文學』収録)-- 福田恆存『私の國語教室』より抜粋)

 

そして、「伝統の価値」への認識が薄まる現代仮名遣いに生きる我々は、次の警句を肝銘しなければならないでしょう。

 

私は丁度「當用漢字」で國語審議會の末席を汚してをりましたものでござゐまして、「當用漢字」には部會には關係してをりませんでしたけれども、責任を感じてをります。それでいろいろ非常に心配してをりますが、自分の意見につきましては書いたものもございますので、ここで繰り返しては申しません。ただ一言申し上げさして頂きたいことがございます。と申しますのは或る點で私は誤謬ををかしてをったといふことでございます。それは實はアメリカへ行きまして氣がついたのでござゐますが、それまで私はただ、字が易しくなれば、つまりそれだけ學習の負擔が輕くなつて、ほかの學科に時閒を振り向けることができる、さう簡單に考へてをりましたが、實は人閒は字が易しくなると怠けるものだといふことに氣がついたわけであります。

 

(服部四郎、国語審議会委員、『漢字制限の問題点』討論會の発言-- 福田恆存『私の國語教室』より抜粋)

 

私の話は、多分に民主を掲げるエリートの大衆化を含めた大衆批判に寄ってきてしまってきていますが、本当に心配しているのは、次のことなのです。

 

古典からの距離は個人個人によつて無數の違ひがある。その無數の段階の差によつて、文化といふものの健全な階層性が生じる。それを專門家と大衆、支配階級と被支配階級、といふふうに强ひて二大陣營に分けてしまひ、兩者閒のはしごを取りはづさうとするのは、大げさに言へば文化的危險思想であります。

 

福田(同)

 

戦後、絶えず、我が国を翻弄してきたのは「二分法」です。支配者と被支配者を分断し、専門家とその他大勢を分断し、「上級国民」と「下層国民」に分ける。西洋由来の「divide and rule=分割して統治せよ」が、世の中のありとあらゆるところに蔓延している。階級闘争は左翼の思想です。上述、福田氏が批判した「專門家や智識階級は文化の「頂點」に位するものであり、その「底邊」には一般大衆がゐる。目的はこの「底邊」を擴大することによつて、「頂點」を安定させることにある」という選民思想は、選民と大衆の双方に「怠惰と安易」が生まれ、どうしようもない奈落に堕ちるのではないか。

 

嘉永六年(1853年)、陸奥国盛岡藩で起き、農民一万数千人にが蜂起した三閉伊一揆の際に、一揆を起こした百姓を取り締まる側の役人が、百姓たちの様子を次のように報告しています。

 

 百姓どもカラカラと打ち笑ひ、

 汝等百姓などと輕しめるは

 心得違ひなり、百姓の事を能く(よく)承れ、

 士農工商天下の遊民

 源平藤橘の四姓を離れず、

 天下の庶民皆百姓なり、

 其命を養ふ故に

 農民ばかりを百姓といふなり、

 汝らも百姓に養るなり。

 此道理も知らずして

 百姓杯と罵るは不屆者なり

 

我が日本人は、時代時代の身分の違いはあれど「士農工商天下の遊民源平藤橘の四姓を離れず」と、対等を主張していたし、それだけの矜持があったと見えます。盛岡藩の役人もぐうの音も出なかったことでしょう。実際、盛岡藩は悪政を改めざるを得ず、農民の勝利に終わります。

 

我が国に根付いた文化の「無数の段階」はつまり日本人をして密接不可分の連続体たらしめ、その歴史的精華との連続性がもたらす緊張感が我が国の文化を育んできたものと思われます。百姓町人が近松や馬琴、写楽や北斎、若沖を楽しんだ。裕福な町人は喜多の能を学び、全国に寺子屋があった。

 

日本人として「士農工商天下の遊民源平藤橘の四姓」から離れていない矜持を持ち、我々庶民が自覚して振舞うことは、おそらく我が国の健全さを取り戻すひとつの道であり、そこにおいて「國語回帰」は重要な役割を果たすのではないかと思う次第です。

 

明治の世も元はと言えば和歌の研究から始まった国学に基づくものでした。

 

 

 

幸魂奇魂守給幸給クローバー