西荻窪Atelier Kanonにて、一人芝居ミュージカル短編集vol.1男性ver.を観劇。
実は観劇予定には入ってなかった舞台だったが、来年の私の舞台で制作・出演で参加してくれるバイオリニストの輪月映美さんから
「女性ver.を見て感動した。ぜひ誰かとこの感動を分かち合いたい」
という連絡が来て、急遽予定を繰り合わせて出かけた。
本場ニューヨークのオフ・オフブロードウェイのミュージカルコンクールで優勝経験があるという伊藤靖浩氏(作曲家、パーカッショニスト)の企画制作作曲による一人芝居のミュージカル。なるほど、音楽劇にこういう形があったか、と蒙をひらかれた気分だった。
男女合わせて10作品の短編(一作品だいたい30分)の作品のオムニバスで、それぞれ脚本と演出が異なり、伊藤氏は作曲と、中の一作品では出演もしている。多才なんだなあ。
一人芝居に関しては、私は若い頃イッセー尾形のスタッフまがいのことをしていた経験もあり、その魅力も、そして限界も十分に心得ているつもりである(なので、そういう形式の芝居にはやや、他のものに比して批評が厳しくなる傾向がある)。舞台の芝居は多かれ少なかれ観客の想像力の助けを借りて成立するものであり(だから一旦ハマると映像以上の中毒性がある)、中でも一人芝居は観客の想像力をどれくらい喚起させられるか、で勝負が決まるような性質を持つ。
ところが観客の側の想像力には、おのずと差というものがある。舞台の上の世界の中に、すんなり入れる人と、役者個々人の個性が邪魔をして、なかなか入り込めない人とがいる。大勢の人数が登場する舞台だと、誰かかれか、観客は本能的に自分の感覚にあった演技をする役者さんを見つけ、そこをとっかかりに作品の中に入っていくのだが、一人芝居の場合、その出演者の個性なり演技技術なりが観てる方の感性に“合わない”と、もう完全にダメ、なのである(落語も広義の一人芝居だが、演者自身が聴き手のナビゲーターを務められる強みがある。演劇にはそれがない)。
今回の舞台は、まず共通する題材としてトスカニーニやゴッホ、竹久夢二といった歴史上の人物を取り上げることで前知識から観客が入り込みやすい道筋をつけ、さらに、音楽的要素を大きく取り入れる(もちろんミュージカルなので歌が入る)ことで、その障壁を取り去る工夫をしていた(女性ver.の方で取り上げられた人物にはシャンソン歌手のバルバラ、薬物中毒で死んだシンガーソングライターのジュディ・シル、陸奥宗光の妻亮子など、あまり一般には知られていない名前が多かったようで、
その分、男性ver.の方が初心者向けだったかも)。
そして、さらに言うと、これら歴史上の有名人、つまり何らかの分野での“天才”を取り上げつつ、ほとんどのセグメントで、その天才の周囲にいる平凡人を主人公にしていた(トスカニーニとそのマネージャー、理想の自分と現実の自分、ゴッホとその弟、そして夢二とその周囲の女性たちなど)。これが、私をはじめとする天才ならざる平凡人たちが大部分(だろうと思う)の観客に、安心感と共感を生む。天才というのはそのほとんどが世の中の常識に合わせられない奇人変人のたぐいであり、こちらに共感はなかなか出来ないのである。
あとでゴッホのセグメントの脚本を書いたエスムラルダさんから教えられたが、この「天才と凡人」のテーマは最初から申し合わせて書いていたわけではなく、出来上がってみたら全く偶然に統一されていたということである。それぞれが上記の「観客に共感を持たせるには、ということで頭をひねった末に、同じ結論に達したのではないだろうか。……ただ、舞台としてのまとまりを考えると、こういうテーマは最初に決定され、それを前面に押し出した方が好ましい。あくまで観客の理解を助けるという一事ゆえ、であるが。
作品に接する者は、無意識的に、その作品から「作者の言いたいこと」を受け取ろうと探りながら観るものである。テーマや方向性がバラバラのオムニバスは、
「いったい、どこに着地するのか」
という不安感を観ている方に抱かせるのである。
とにかく、ミュージカルという形式と一人芝居という形式のコラボの新しさがこの先格の魅力だった。一人芝居が陥りがちな、内向きのベクトルという「沈み傾向」の進行に、歌と演奏が「外への広がり」を与えてくれる。小さな会場の三隅にフルート、ギター、エレクトリックチェロ(?)が配置されていたが(フルートの鈴木和美さんとギターの宮城由泳さんが輪月さんの友人)、音が背中の方から響いてくる舞台というのは初めての経験で、なかなか臨場感があった。
主宰の伊藤氏含め、全部で四人の演者たちが出演。稲垣干城氏の神経症的演技、蛯原恒和氏の焦燥表現、伊藤靖浩の無垢の善人の造形、いずれも印象的だったが、なんと言っても白眉は柳内佑介さんの竹久夢二。女衣装で登場し、夢二の愛人、笠井彦乃を演じるというのにまず度肝を抜かれ(女装ではなく、あくまで女衣装)、それが悪趣味でも滑稽でもなく、すんなりとこちらに女性として受け取れる演技力に瞠目した。
それから、そのままで帽子をかぶっただけで夢二に、眼鏡をかけただけでその妻に、と自由自在に役を替え、そのどれにも違和感がない。しかも歌が素晴らしい。夢二が理想を語る「もっと」のテーマ(?)は耳に残る出来。自分の中でミュージカルの概念が変わったかも、とさえ思えた。
こんな実力者の柳内氏でも、Twitterのプロフに
「地味に演劇界で役者をやっています。暗い海の底も好きだけど、いつかは明るい海面に出たいなあ」
と書いている。野に遺賢あり、まだまだ、実力ある役者たちが小劇場界には埋もれていることだなあ、としみじみ実感した。
これを別格として除くと、私はアンダーキャストだった稲垣干城さんのトスカニーニの話が好み(輪月さんも同意見)。天才に惚れ込んで尽くし、裏切られたと勝手に思い込んで恨みを抱く男。アマデウス的悲喜劇が稲垣氏の独特の容姿にぴったり。正キャストの永田正行氏のも観てみたかった。
全般的に素晴らしかったが唯一の欠点が2時間という上演時間。いや、心理的には全く長くなかったのだが、肉体はだませない。私のような年齢の人間にとり、パイプ椅子に2時間は尻が悲鳴を上げる長さ。各セグメントの時間をもう5分づつ縮めて100分に収めていたら最高だった。聞くところでは、日によっては5つのセグメントがあり、休息入れても2時間45分という長さだったときがあるという。ここらは考慮あってしかるべきところだと思う。
とにかく、伊藤氏は今回、男女ver.双方合わせて10作品を作曲。10回これを連続させて、計100作品のミュージカルを完成させて世に出したいそうな(しかも日本にロングラン公演という形式を根付かせたい、と言う)。野望はるかという感じはするがその第一歩は着実に踏み出したかな、というところ。今後に大いに期待したい。