第285話 2018.5.22

 

 5月8日(火)、福井県営球場で行われたプロ野球ナイトゲーム、中日対ヤクルト戦を球場で観戦した。

 試合は、緊迫した攻防が続き、10回表、降雨が激しくなり6対6の引き分けで終わった。

 7回表にバレンタインが放ったホームランは、投手のすぐ頭上に飛んだライナーがそのままバック・スクリーンに飛びんでしまったという強烈なものだった。

 試合の詳細は、コアなヤクルトファンである「マドモアゼルツバメ」様の下記のブログ記事で活写されている。

     ブログ記事

 

 私は小学校4年生ごろからのヤクルトファンである。

 小中学生時代には、弱小ヤクルト(サンケイ)がたまに勝った新聞記事だけを切り抜き保存し、気持ちが落ち込んだ時は、そのスクラップを読み返して心を慰めていた。

 好きになった動機は定かではないが、ヤクルトのスーパースターは、みんな入団前には全く、あるいはほとんど世間から注目されていなかったという所が、ますます好きになった所以だ。

 

 若松勉

 1947年4月、北海道留萌市生まれ。外野手。

 通算出場試合 2062  通算安打 2173本 通算本塁打 220本 通算打率 .319

 
 北海高校から電電北海道に進み、1970年ドラフト3位でヤクルトアトムズに指名される。
 しかし、身長168cmと小柄だったため、スカウトが訪れても会おうとはせず、逃げ回ったという。
 ウィキペディア 記事 から
  【引用開始】
公称168cm(自称166cmだった)という小柄な体型で、プロ選手としてやっていく自信がなかったため、本人も周囲もプロ入りには消極的だった。しかし1970年秋に、翌シーズンからヤクルトアトムズを指揮することになった三原脩新監督の婿で、ヘッド兼打撃コーチの中西太が若松の素質に目を付け、プロ入りを勧めた。プロ入りを嫌って家を空けて逃げ回る若松のもとにはスカウトが7度も訪れ、最後には中西もスカウトに同行して、不安視していた父親と夫人を「体が小さくてもやれる」と説得したので、最終的に若松も夫人に「ダメだったら北海道に帰って二人で焼き鳥屋でもやろう」と言ってプロ入りを決意した。
  【引用終了】
 
 私のハンドルネーム「若松若水」の「若松」は、同選手から勝手に頂戴した。
 若松氏の人柄は上記記事に生き生きと描かれている。
 
 
松岡弘
 1947年7月、岡山県倉敷市生まれ。若松と同年生まれ。投手。
 通算成績 191勝190敗
 
 倉敷商業から三菱重工水島に入社し1967年サンケイ(当時の名称)アトムス゜からドラフト5位で指名を受ける。しかし、球団から「4位までの指名選手がみんな入団するというので、君とは契約しない」と言われたという。
  ウィキペディア 記事から
  【引用開始】
1967年ドラフト5位でサンケイアトムズの指名を受けるも、4位までの選手の入団が決まったことを理由に契約見送りとなる[1]。これに奮起して三菱重工水島で快投を重ね、1968年にはチームの都市対抗初出場の原動力となる。同大会では1回戦で日本鋼管高橋直樹と投げ合い、1-0で惜敗。これでサンケイ側も認識を改め、頭を下げたことから同年8月に入団。
  【引用終了】
 
 
古田敦也
 1965年8月6日、兵庫県川西市生まれ。捕手。
 通算出場試合 2008  通算安打 2097本 通算本塁打 217本 通算打率 .294
 
 川西明峰高校時代は全く無名。一般入試で立命館大学に入学し活躍。大学4年のドラフト会議では事前に複数の球団から指名の連絡があったが、どこからも指名されなかった。
   ウィキペディア 記事から
   【引用開始】
3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、4年時にはキャプテンを務め、1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなどその実力はプロ各球団からも注目され、この頃にプロを目指すようになった[7]。その後、野球部中尾監督に日本ハムスカウトから上位指名の連絡が入り、11月のドラフト会議当日には会見用のひな壇が設けられたが[8]、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった[9]。また、当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって、日本ハムは指名を取りやめたと後に新聞連載に記載している。また、2009年の自著ではやはり乱視が原因なのではないかと振り返っており[12]、後のインタビューでも古田はメガネが原因で外れたと語っている。後年に古田は、この際の屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという強い気持ちに繋がったと述べている。古田獲得に尽力したヤクルトの片岡宏雄スカウトは、本人がこの時に"2位以上でないとトヨタ自動車"という意向を各球団に伝えていたと明かしている
   【引用終了】
 
青木宣親
 1982年、宮崎県日向市生まれ。外野手。
 首位打者獲得3回、年間200本安打2回
 ジャイアンツ、マリナーズ等メジャーリーグでもレギュラーとして活躍。
 
 大学時代は同期の内野手、鳥谷敬よりはプロの評価は低く、2003年のドラフト会議では、ヤクルトが4位で指名、獲得した。
 高校時代は、大学から声がかかる存在でもなく、必死で勉強して好成績を挙げ、指定校推薦で早稲田大学に入学したという。
   ウィキペディア 記事から
   【引用開始】
宮崎県立日向高等学校では2年生時からエースとなり、3年生時の1999年春季九州大会では県予選を勝ち抜くが、2回戦で東海大五高に9回裏サヨナラ負け。同年夏の宮崎大会は準々決勝で鵬翔高に敗れ早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に指定校推薦で進学。本人は「とにかく勉強するよりなかった」と語ってい。高校時代に肩を壊したため、大学では野手へ転向した
   【引用終了】
 
 私は、こういった物語が好きである。それは教師としての趣味・嗜好にもつながっているようだ。
 
 ちなみに作家の村上春樹もヤクルトファンだそうだ。
 その話は以前、記事にして公開した。
 
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