2020.6.4

 

      『中島みゆき全歌集Ⅱ』1998 朝日新聞社

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 同書の巻頭に『言葉と孤独』という 中島みゆき 自身が書いた短いエッセーが掲載されている。

 

 まだ無名の女子大生であった彼女が、国語の教員免許を取得するために教育実習をした時の体験をもとにしているのだが、国語教師必読と言ってもいいくらい出色の文章である。

 

  以下、同エッセーについて記す。

 教育実習生中島が授業を終えた後、気弱そうな女子生徒が職員室に質問に来る。授業で教えられた「解釈」に納得いかない。どうしても別の意味にしか受け取れないと、問いかけるのだ。

 

 そこは正に中島も「指導用マニュアル本」に書かれている「正しい解釈」を何度読み返しても共感できなかった箇所だ。しかし教育実習生という立場上、本に書かれているとおりに教えざるを得なかった。

 

 ここで中島は生徒の意見に同調することはできず、苦しまぎれに「指導用マニュアル本」を見せて、こう覚えるように決められているのだと「教え」た。

 

 そして次のような後日談に話はジャンプする。

 

  【引用開始】

 数年前、私の書いた詞の一つが学校で試験に出たのでと、当時私の務めていたディスクジョッキー番組宛に送られて来たことがあった。満点ではないその答案用紙には、確かに私の作品の一部が引用され、あちこちに傍線を引いて問題が設定されていた。「この部分の正しい解釈を書け」。その答案には赤鉛筆で大きく×印が書き込まれ、別紙に模範解答が示されてあった。

 その模範解答はしかし、作者の私から言わせてもらえば、仰天ものの新解釈なのであった………。 (『中島みゆき全歌集Ⅱ』 3頁)

  【引用終了】

 

 と、ここまでならばよくある話だ。他にも、多数の著述家が同じような経験を述べている。

 

 しかし、ここから国語教育批判などというありふれた話にいかないのが彼女の凄い所。次のように読者の意表をつくスリリングな展開となる。

 

  【引用開始】

 今、私はその教師に対して「その解釈は誤りです」と抗議することは出来ないだろう。言葉を解釈する作業には、その解釈を生む背景となる要素が多すぎる。

 一つの言葉を聞くに至るまでの、或る他者の人生を、言葉を発する側がすべからく把握していることなど、有り得ない。逆の立場に於ても同様だ。

 言葉を使うということは、だから、深い孤独を確認してしまう作業に近い。

 個の有りようが成立せずしてコミュニケーションが成立し難いことからすれば、それはごく自然なスタート地点かもしれない。

 しかしそれでも、時には自分の些細(ささい)な思い入れと、通りがかりの誰かの解釈とが偶然少し似ている瞬間でもあれば、やはり理屈抜きで嬉(うれ)しいのだから、これでなかなか孤独というのも愚かなヤツである。  (同書3頁)

 【引用終了】 

 

 表現者としての何という見事な覚悟であろうか。

  この件(くだり)を初めて読んだ時、思わずうなってしまった。そして中島みゆきが30年以上にもわたって時代の最前線に立ち続けていられる所以(ゆえん)を理解できたような気がした。

 

  言葉を使うということは、だから、深い孤独を確認してしまう作業に近い。

 

 そのとおりだ。それが通常のことと思い定めることから、人と人とのコミュニケーションが成立する可能性がかすかに生まれるのであろう。

 

 そして私もまた、「自分の些細な思い入れと、通りがかりの誰かの解釈とが偶然少し似ている瞬間」を夢見て、こんなブログを始めて、他人様に読んでいただこうと思っているのである。

 

 ちなみに、同エッセーの中で、中島はこんな言葉も記している。

 

 私は自分がこの仕事(教職)に就いて続けていくことはたぶん無理だろうと、かなり確信的に思っていた

 

 そして、彼女はニューミュージック界の女王への道をひたすら歩んで行くのであるが、もしも、彼女の指導教官が飛び抜けて優秀な教師で、ピュアな教育実習生の悩みにうまく応えてくれ、教師という職業のすばらしさに目覚めさせていたならばどうだったろうか。

 

 たとえば、かの有名なヤンキー先生や夜回り先生、あるいは金八先生のような卓越した指導力を有する教師と出会っていたなら、中島みゆきは、北海道のどこかの高校で国語の授業をしていたのかもしれない。そして、学校祭で美しい歌声を生徒の前で披露し、「先生、歌手になればよかったのに…」と、軽口をたたかれていたかもしれない。

 

 そんなことを想像すると、今まで自分が行ってきた教育実習生に対する指導についての自責の念が、だいぶ軽くなった。やっぱり中島みゆきは大したものだ。

 

 ところで、私自身が教育実習でご指導いただいた上坂紀夫先生は、「自分もいつの日かこんな授業をしてみたい」という強烈な憧れを感じさせてくれる偉大な教師であった。先生は国語教師として弛(たゆ)みない研究と研鑽を続けられ、その成果を『清貧の歌人橘曙覧』『魚鳥木・雑記』など数多くの書物に纏(まと)め上げ世に送られた。恥の多い人生を送ってきた私がブログなんかを始める暴挙に出るたのも先生の薫陶の賜物である。

 

 先生のご指導の下、何とかこなすことのできた実習も半ばを過ぎ、研究授業の指導案を書く段となり、先生から前年度の実習生が書いた案を見せられた。

 1枚目の最初に記されていた氏名を見て、「これ、もしかして、タワラマチと読むんですか?」とお尋ねしたら、「そうだよ」というお答え。

 一応言っておくと、F高の最寄りの駅は、「田原町(タワラマチ)」という名前である。

 そして、俵さんも高校3年間、この駅を利用して通学していた。

 

                往時の田原町駅(私鉄)   今は改築され様変わりしている。

 

 

 「本当かな……」と眉に唾をつけながら目を通し始めたのだが、そのみずみずしい言葉の感覚に鮮烈な感動を覚えた。(いろいろ事情がありまして、俵万智氏は私よりかなり若年であります。ご本人の名誉のため申し添えます)

 

    俵万智 ウィキペディア記事