天才、そして職人(訃報:沢島忠) | カラサワの演劇ブログ

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映画監督沢島忠死去。91歳。

 

一時、潮健児氏のマネージャーをやっていたとき、目黒区にあった氏のマンションの居間に大きく引き延ばした『人生劇場 続飛車角』(1963)のスチールのパネルがかけられていた。沢島忠監督作品である。

 

ラスト近く、鶴田浩二演ずる飛車角の後ろから銃をかまえ、まさに撃とうとしている子分の政吉の図で、潮氏は飛車角を裏切るこの政吉の役を演じていた。

 

この役について潮さんは

「監督から“天下の鶴田浩二を殺す大役だ、自分も天下の潮健児だと思わないと撃てないぞ”と言われ、緊張したものです」

と話してくれた。潮氏にとっても役者人生の誇りとする一本だったのだろう。沢島監督の思い出を聞くと、

「京撮(東映京都撮影所)のみんなからは“怖い人だから気をつけろ”と言われてましたけど、そんなことはなかったですよ」

とのことだった。

 

これを聞いて意外だったのは、

「怖い監督、と思われていたのか」

ということだった。『人生劇場』を東京で撮ったときは、岡田茂に京都から招かれてきた、いわばヨソ者監督だったから、トラブルを起こさぬよう気を配っていたのかもしれない。とはいえ、私の中で沢島作品と言えば、『ひばり・チエミの弥次喜多道中』をはじめとする、圧倒的に楽しく陽気なミュージカル時代劇のイメージだったから、“怖い人”として知られているというのが、かなりそぐわない気がしてしまったのだ。……まあ、職人監督というのはそういうものなのかもしれない。

 

まったく、職人(アルチザン)という言葉がこれほど似合う監督もいないだろう。昭和30年代に東映のドル箱だった時代劇、なかでも美空ひばりと中村錦之助に関しては2人から絶大な信頼を寄せられており、「ひばりと錦之助のお雇い監督」などと言われたりもしていたくらいだったが、俳優王国である東映で、スターのご機嫌を損ねず、忙しい彼らのスケジュールの合間を縫って予定通りにきちんと仕上げるというのがこの手の映画の監督に最も期待されるところだろう。彼はその点で完璧であり、しかもその作品がやっつけでなく、見事に沢島カラーとも言うべき凄まじい個性を発揮していた。その才能のあざやかさはちょっと他に比べる人がいない。そして、その時代劇が斜陽になっていった時期、東京撮影所に招かれて撮ったこの『人生劇場』シリーズで、東映に“任侠もの”という新しい路線を定着させてしまうのである。

 

時代劇から任侠もの、と、徹底して日本的な作品を撮っていたにも関わらず、その作品群の持つ感覚は日本人ばなれしていた。殊に同時代に他に撮れる監督がいなかったミュージカル時代劇は、ハリウッド映画をそのまま日本に移し替えたと言っても過言でないきらびやかな、いや、当時の日本映画の中では破天荒とも言うべき魅力を持っていた。

 

例えば『水戸黄門・助さん格さん大暴れ』(1961)では、助さん格さんが女の子(これが『東京ドドンパ娘』の渡辺マリ)と公園で(!)ブランコに乗って(!!)語り合うシーンがある。しかもこの公園には噴水が(!!!)あるのである。同じく人気シリーズとなった中村錦之助と賀津雄の『殿さま弥次喜多 捕物道中』(1958)でも、“鉄のカーテン”“ベストセラー”などという現代語がポンポン飛び交い、御三家の一つ、紀州家の徳川義直(賀津雄)が尾張家の徳川宗長の婚約者・鶴姫に変装して(つまり女装。これが実に似合っていて美しい)宗長を城から連れ出す、など、もう21世紀のラノベもかくやである。

 

こういう無茶苦茶が悪ふざけにならず、きちんとスタイリッシュなパロディになっているのは、彼が東映の時代劇の虚構性というものを充分に理解し、そこで描かれる江戸時代がファンタジー世界である、ということを割り切った上で再構築しているからであろう。いちおう髷ものではあるが、そのセンスの洗練の度合は同時代の東宝のクレージーキャッツ映画よりもはっきり言って現代的であったと思う。

 

この系譜がもし、そのまま発展し、沢島忠の後継者・模倣者が次々に現れていたら、日本の映画シーンはもっと豊かなものになっていたと確信するが、そうはならなかった。東映明朗時代劇の流れは、『助さん格さん大暴れ』と同年に公開された、東宝&黒澤明の『用心棒』、及びその翌年の『椿三十郎』の二本に、文字通り“叩っ斬られて”その系譜の息の根を止められてしまった。

 

「人を斬るときの効果音を入れる」「斬られると血しぶきが飛ぶ」という残酷リアリズムが当時の若手映画人をどれだけ興奮させたかは、当時東映で助監督をしていた平山亨(後に『仮面ライダー』等の変身ヒーロー番組のプロデューサーとなる)たちが、

「これからの時代劇はあれでなくていけない」

と、助監督仲間と東映本社に直訴状を送った、という一事でもわかる。そうして世に出た多くの映画は、三十郎映画の痛快さを忘れ、いたずらに残虐性ばかりを強調したものばかりで、沢島映画で二枚目ヒーローを明るく演じた中村錦之助も、今井正の『武士道残酷物語』(1961)で、七代にわたる被虐の暗い系譜を演じ、それなりに評価(ベルリン国際映画祭金熊賞受賞)されはしたものの、女性客は離れ、東映は大作『徳川家康』、文芸作『冷飯とおさんとちゃん』(ともに1965年)の不入りを受けて、時代劇映画の制作中止を宣言し、時代劇王国・東映の歴史には幕が降ろされた。

 

沢島忠の凄いところは、その後、時代劇に代わる看板作品として岡田茂が企画した任侠映画というジャンルを、『人生劇場 飛車角』一本で作り上げてしまったところであり、しかも、それが後の東映のドル箱になったにも関わらず、本人は

「やくざ映画は好きでない」

と言ってはばからず、実際、俊藤浩滋らに東映を追われる形で1967年に退社してしまったことである。

 

すでに高度経済成長時代は過ぎ、オイルショック、公害、安保問題などさまざまなトラブルを抱えていた時代の日本には、もはや沢島映画のスタイリッシュさを受け止める余裕が失われていたと言えるだろう。その後は萬屋と名を変えた錦之助や美空ひばりの舞台の演出家に転身し、映画時代のヒット作である殿さま弥次喜多や人生劇場などを舞台化して精力的に活動を続けた。考えてみれば、ミュージカル時代劇のあのアーティフィシャル性は、どこかに舞台劇の趣を持っていたようにも思えるのである。

 

映画の衰退が叫ばれて久しいが、私がその状況に投げかけたい言葉はただひとつ、

「沢島忠を再評価しろ」

である。あの感覚こそ、再発掘、そして現代の感覚での再制作に価する、他にないナンセンスのセンスだと、これは信じて疑わないのである。出来得れば存命中に、そこに手をつけて欲しかったと思うが。

 

天才的、いや、正真正銘の天才(ただし芸術家ではなくアルチザン)の、冥福を祈りたい。