カラサワの演劇ブログ

演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。


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以前、このブログに劇作家・小幡欣治の『評伝・菊田一夫』のことを書いた。あれはいまだに演劇人の評伝の頂点にあるものと思っているが、その刊行から3年後逝去した小幡の評伝である。

 

ただし、小幡の菊田伝が綿密な調査と資料によって、毀誉褒貶あった天才・菊田一夫の評価を集大成し、菊田論の決定版にすることをあきらかに意図したものだったのに比べると、この矢野誠一(演劇評論家でもあったが、一般には落語評論家として知られる)の著作は、53年に及ぶ小幡との交友を中心に書かれた、多分に個人的なものである。かなり細かく、その交際関係の人名などを記していて、貴重な資料ではあるもの、小幡という複雑な人物の本質を解析したものとは言いがたい。

 

とはいえ、著者もまた演芸、演劇の世界においては長老であり生き字引的な人物である。特に演劇界が戦後の大ブームが過ぎて、各劇団が経営に四苦八苦しつつ、生き延びる道を模索していた時代の状況は、私自身がその時代を体験しているベテラン声優さんのインタビューを何度もしている関係上、興味深く、面白くて仕方がなかった。七曜会、炎座、劇団葦などという劇団名は、私にとってはそのインタビューで何度も耳にしていて、自分の生まれる以前の劇団なのに、懐かしさすら感じてしまった。

 

後半になって、著者のメモを中心に小幡とのつきあいを編年体で記すようになってからは、ちょっと記述が単調になり、やたら細かく酒の席の出席者の名前などを列記しているのには首を傾げさせられる。そんなことより小幡の人間性とか、その作品内容の分析などにもっと筆を費やしてほしい、と不満が残る。著者の筆も(老齢の人の書いたものにはありがちだが)脱線が多く、直接小幡に関係ない事項や出来事を延々と記していて、そのエピソード自体は興味深いものの、何もここで書かなくては、という気がしないでもない。小幡はじめ、小沢昭一や江國滋などの死去から葬儀のことが羅列されるのも、どれだけ意味があるのかと思わせる。ゴルフの付き合いに参加した人名をいちいち記しているところなど、省略してもかまわないだろうと思う。

 

とは言うものの、この本は小幡欣治その人にひたすら焦点を当てるものではなく、小幡というたぐいまれな舞台脚本家が生きた時代の状況、雰囲気というものを“とりあえず”記録にとどめる、ということを目的としているようだ。帯の惹句にあるようにこの本は小幡欣治という人物を通しての、著者・矢野誠一の自伝でもあるのだと思われる。

 

確かに、劇団民藝との軋轢や、東宝との関係は、いまだ存命者が多い中では細かくは書けないだろう。米倉斉加年、江國滋の遺族、当の江國滋などについては良い書き方がされておらず、しかしその行動の何がよろしくなかったのか、についてはおぼめかした書き方(三木のり平などにはだいぶ好意的だが、それでも小幡との対立などに関しては理解不能、と言った書かれ方だ)には隔靴掻痒感がわいてしまう。小幡自身の『評伝・菊田一夫』が、菊田と古川ロッパの関係について、かなり突っ込んだ推理での分析(菊田のロッパ一座でのクーデター計画)をしているのに比べ、読後の満足感は薄いが、小幡自身の菊田論も、菊田の死から35年という年月が経って、周囲に気がねなく書けるのを待ってやっと書かれている。棺を蓋うて事定まるというが、ことが定まるには、蓋がおおわれてなお、それだけの時間がかかるということなのかもしれない。

 

それにしても、新劇や小劇場演劇に比べ、小幡が主戦場とした商業演劇の世界というのはまた特殊なところである。ここへの言及や説明ももう少し欲しかったし、その世界で『三婆』『あかさたな』『桜月記』などのヒット作を飛ばした第一人者になった小幡が晩年、その地位を捨てて、金銭的に恵まれない新劇の世界に舞い戻り、『熊楠の家』『喜劇の殿さん』『神戸北ホテル』などといった作品を(商業演劇界に比べての運営の手際の悪さに腹を立てながら)書き続けたモチベーションについても、通りいっぺんの脚本料の問題や、新劇出身者としてのアイデンティティの問題に帰結させない、突っ込んだ分析が読みたくてたまらなくなった。この本は後世のそういう研究者に多くの課題を提供したメモ、と位置づけられるだろう。

 

……最後に、描かれたエピソードで最も印象に残ったもののひとつ。女剣戟で一世を風靡した浅香光代が、小幡の作・演出による舞台『かえる屋 越中富山萬金丹』に出演したとき、主演の浜木綿子から夜中、泣きながらの電話がかかってきた。東京公演を終えて名古屋での公演になり、演出家の小幡の目が離れたとたん、浅香が芝居を変え、ラストシーンでの浜との芝居で、浜を完全に喰ってしまったという。訴えを聞いて急いで名古屋に駆けつけた小幡は、浅香の演技を

「俺の意図と違う」

と言ってNGを出した。……本書の記述では、

「この小事で、浅香光代の小幡欣治への信頼度は俄然増すことになる」

とある。ちょっと読んだだけでは意味が取れない箇所である。反対ではないのか、とさえ思う。理由として、

「喰われた側の浜木綿子を慮る気配の無かったことに、作家としての、演出家としての良心を感じ、打たれた」

とある。つまり、主演を贔屓せずに、あくまで演出の問題として処理したことに、スター制の強い商業演劇の演出家には珍しい作家らしさを感じたということなのだろうか。プロ同士の世界なのだから、喰う喰われるは当然のことで、喰われた浜を擁護する必要はない、ということなのだろうか。ここらが気になって仕方がない。浜も浅香も存命ゆえにこれ以上書けないのかもしれないが、どうにも喉の奥に何かが引っかかっているような気分なのである。

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