言語感覚とイデオロギー【訃報:金子兜太】 | カラサワの演劇ブログ

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俳人・金子兜太死去。98歳。

 

前衛俳句の巨匠であるが、私には正直なところ、この前衛俳句というのがよくわからない。

 

「銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく」

 

という句などのシュールなユーモアは好きなのだが、さてそこにナンセンス性以上のなにが含まれているのか、いくら解説を読んでもピンとこなかった。もともと俳句というのは俗世間の臭みの中で、ふとそこから乖離した詩的空間を見出したとき、十七文字の詩型となって生まれる芸術である、と私は定義しており、そこから外れたものは(だからダメだ、というのでなく)、俳句とは違った、新しい芸術詩としてとらえた方がいいのではないか、と思っていた。

 

作風の根底にある戦争体験から生まれた

 

「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」

 

という句などにはあらがいがたい魅力があるが、しかし、それは戦場という死地にいたことから迸り出た絶唱であり、俳句、というカテゴリ(“俳”には“軽み、面白み”という意味がある)に入れるには抵抗を感じた。さらに、戦後主張した社会性(社会派)俳句に至っては、芸術性すらほとんど感じられない、生硬さがこちらの神経に障っていた。2014年の終戦記念日に東京新聞に発表したという

 

「原爆忌被曝福島よ生きよ」

 

などは、震災後3年も経ってなお福島を「被曝福島」と表現する、という無神経さ(「生きよ」と言いながらまったく現地の人間の生きる努力を無視した物言いになっている)に腹立たしささえ覚えた。

 

この社会性俳句の流れの末に例の『アベ政治を許さない』の文句がある。彼の揮毫になるこの文句はデモの際にプラカードにコピーされて世間の目によく触れたが、これは1950年代、社会性俳句が流行していた頃に、それらを文学性とは縁のない、デモ隊のプラカードに書かれる文句のようだという意味で「プラカード俳句」と揶揄された、まさにそのとおりの使われ方をしている。

 

……亡くなったばかりの人物の思想や作品に批判的なことばかり並べるのは追悼の意に反するし、悪趣味であるということは充分に承知している。しかし、死をもってそれらの発言や活動を正当化し、賛美する風潮には敢えて異を唱えたい。変に政治性を持たない、冒頭に記したような彼の言語感覚にあるユーモアセンス、例えば

 

「長寿の母うんこのようにわれを産みぬ」

 

などという、一読吹き出してしまう大胆な言葉の使い方などは大好きなのである(彼の父もまた伊昔紅という俳号を持つ俳人であるが、「元日や餅で押し出す去年糞」という句が代表作である。親子そろってスカトロジー趣味があったらしい)。文壇の、変な義務感からくるイデオロギー性が彼のキラキラした言語センスを曇らせてしまったとすれば、これほど残念なことはない。ご冥福を祈る。