カラサワの演劇ブログ

演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。
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菊池寛の『恩讐の彼方に』を三幕の舞台にした『敵討以上』。第一幕がいきなり派手なアクションで始まるところなど、つかみというか、まだ席についたばかりで落ち着かない観客の意識をいきなり芝居の中に引っ張り込んでしまうその構成が、いまからほぼ100年前(1920)の作品とは思えないほどである。最近の大手劇団のセオリーそのままというのにちょっと驚く。

 

で、そのアクションが終わってすぐ登場するや否やその場の主導権を握り、自分の主人を殺した市九郎を操縦してしまう主人の愛妾、お弓の存在感がまた素晴らしい。彼女の口から、このような状況になるに至った仕儀がてきぱきと説明され、主人公は悪の道に引きずりこまれ、退場する際に、三幕で登場する主人の子、実之助の声まで聞かせて伏線にするというその周到ぶりがニクいじゃありませんか。

 

第二幕ではがらりと趣を変えた峠の茶屋で、悪に染まったお弓と市九郎の暮らしを描く。ここでも主導権を握っているのはお弓の方で、市九郎は彼女を女房にしてはいるものの、その、悪へ徹しきれない情けなさを責められ続けている。実質的に第二幕はお弓が主人公で、その“悪の魅力”を存分に観客に楽しませるのが主題と言えるだろう。

 

面白いのは、例の『三幕構造』理論のいうプロットポイント(一幕目と二幕目の終わりにある物語の転換点)がどちらも主人公の現状からの逃亡であるところと、もっとも重要なミッドポイント(二幕目の中間にある最大の転換点)が、主人公が(気の弱さから)また犯してしまう犯罪であることで、ハリウッドのストーリィ理論である「主人公の葛藤とその克服」に照らし合わせると、葛藤はあっても主人公の市九郎は常にその葛藤に負けているわけであり、克服などしていない。

 

克服は三幕の半ばで、しかも主人の子供に仇として討たれることを従容として受け入れる、という消極的なものである。いや、三幕目は主人公の位置が、市九郎を仇とねらう実之助に移っており、唐突に登場した彼の「生き仏として崇められている親の仇を許せるかどうか」という葛藤に主題がシフトしてしまう。

 

視点のブレであり、現代の脚本構成理論からすれば許されないものであろうが、しかし、日本人は100年の間、この話を名作として受け止め、感動し、再演を続けてきた。ストーリィというものが決して頭の中での理解、納得、続きへの期待、という手続きで受容されるものではない(少なくとも日本人は)という証左のように思える。

それは、運命というものは自分の力で切り開かなければならない、と考える西欧的自助(セルフ・ヘルプ)の思想と、人間は定まった運命にあらがわず生きるのが最もいい生き方である、という運否天賦の思想を持つ東洋人との差、と考えるべきなのかもしれない。

 

近代の通常道徳観ではとらえられないテーマを菊池寛は『父帰る』や『恋愛病患者』、そしてこの『恩讐の彼方に』(『敵討以上』というタイトルだけはどうしても優れているとは思えない。どうして小説と同じ題名にしなかった?)などでオトナの目を以て描いている。いま、菊池寛は愛読されている作家とは言えないが、誰かそろそろ再評価すべき時期に来ているのではないだろうか。

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