千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館を訪ねて特集展示とともに常設展を見て周ったわけですが、日本列島に人類が到達してから長らくを経て、いよいよ縄文の時代となるのですなあ。

 

 

縄文の始まりは土器利用の始まりともリンクすることになるのでして、日本では「青森県大平山元Ⅰ遺跡で見つかった約1万6千年前の土器」が最古段階のもののひとつであるようです。同遺跡では「旧石器時代とほとんど変わらない石器が、最古段階の土器とともに出土した」ということで、歴史の穏やかな移行を思うところとなりますですね。

 

 

さりながら、土器というものは「肉や魚、植物など、さまざまな食材の調理に…使用されたようで」その利便性の高さからでしょう、1万5千~1万3千年前ごろの日本列島で一気にひろまっていったのであると。縄文草創期の出土例は少ないものの、「縄文時代早期(約1万1千年前以降)になると出土量が格段に増加する」のだそうでありますよ。

 

 

予て土器や土偶に接して、縄文人の豊かな意匠性を思うところがありましたですが、縄文中期(約5500~4500年前)ともなりますと、地域ごとの多様性はまさに百花繚乱の状態を呈するようでもありますな。この際ですので、展示に従いまして各地の土器の特徴を振り返っておくことにいたしましょう。それぞれの土器は(クローズアップはしないものの)北の方から順々になんとなく「これか」とみていただけますと幸いです。

  • 北海道東北部 北筒式土器
    円筒土器上層様式の影響を受け、円筒形の器形が主体となる。道北端部には分布が少なく、縄文文化の外縁を示す土器である。
  • 北海道南部~東北地方北部 円筒上層式土器
    円筒形の胴部をもち、口縁部はやや開き気味の器形となる。分布範囲は広く、継続時期も長い。三内丸山遺跡など出土遺跡も多く、東北地方北部の中期前半を代表する土器である。
  • 東北地方南部 大木式土器
    胴部がくびれ、口縁部が開くキャリパー形のものが多いが、器形は多様である。縦方向の文様が区画され、渦巻文が配置されるなど特徴的な装飾をもつ土器である。中期全般の東北地方南部を中心とするが、その分布域は広い。
  • 関東地方 加曾利E式土器
    キャリパー形の器形をもち、口縁部に区画文を、胴部に縦方向の沈線をもつものが典型的である。遺跡数が一番多くなる中期後半の土器で、集落の規模も大きくなる。埋葬用に二次使用される事例も多い。
  • 中部地方 勝坂式土器
    関東地方西部から静岡・山梨・長野県南部を中心に分布する土器である。厚手式として古くから知られるが、いくつもの特徴的な土器型式を内包する。器形は多様で、突起や文様など立体的なものが多い。
  • 北陸地方 馬高式土器
    いわゆる火炎土器である。祭祀用の特別な土器ではなく、日常の用途に用いられた。中期中ごろの北陸地方東部を分布の中心とするが、一部は福島県などからも出土する。
  • 東海・近畿・中国・四国・九州地方東部 船元式土器
    キャリパー形の器形に、縄文を施す深鉢を中心とする。分布域が非常に広く、また中期前半と存続期間も長いため、後続する里木式土器様式とともに東海の咲畑式、九州の春日式など、各地で地域色のある土器型式を生み出している。
  • 九州地方西部 阿高式土器
    並木式土器とともに九州西部を中心に分布し、船元・里木系土器様式と対照的なあり方をする。太い沈線で模様を描くのが特徴で、胎土に滑石を含むものが多い。近年では、時期的に中期後半から一部は後期にまで下るとされる。
  • 沖縄・南西諸島 室川下層式土器
    尖底となる砲弾型の器形を有し、刺突によって文様を描く。この地域の文化・土器群は、九州の縄文文化・土器の影響を受けつつも、独自の自律的な様相をもち、貝塚文化あるいは琉球縄文文化として区分されることが多い。

長くなってしまいましたが、これまでひとくちに縄文土器と言ってしまっていたのが「あらら」というくらいに多様でありますよね。ただ、東海から九州東部にわたる後半な地域に土器の類似性があるとなりますと、その後の歴史を知っている者としては、すでに縄文土器の時代からこの地域がいわば日本列島の中心地であるかと想像してしまいます。弥生以降、古墳時代を経て飛鳥、奈良、平安と続く時代に目立つ地域なわけですから。ところが、実はそうでもなさそうなのですなあ。

 

 

縄文中期頃にはどの地方がどのくらいの人口を抱えていたかを推定して作られたグラフを見て、「えっ?!」てなことでもあろうかと。先に、土器の形式が同じであることで広範なエリアにたくさんの人が住み、行き来をしていたようにも想像したわけですが、縄文中期は関東地方にこそ多くの人が住んでいたのであるとは…。つうことは、しっかり根付いた縄文文化があったとも想像され、逆に人口の少ないところに弥生の文化が入り込みやすかった…てなことも、また考えてしまったりするのでありますよ。

 

ということで、歴史は弥生時代へと続くわけで、その辺りの展示を(同館常設展はその後も続くところながら、取り敢えずは今回の最後として)見ておこうと思っておる次第です。