…ということで、千葉県佐倉市にあります国立歴史民俗博物館の特集展示「北の大地が育んだ古代-オホーツク文化と擦文文化-」の(小さな…)展示室を見て周ったお話でありますよ。

 

 

そも「日本史で古代(飛鳥・奈良・平安時代)に区分される時代、北の大地、北海道ではオホーツク文化・擦文文化が展開していました」と紹介されていましたけれど、上図のように両文化が展開したエリアには違いがあるのですよね。ですが、上図は7世紀ごろと記載がありますので、も少し前の時代に遡ってみることに。

 

一般に「日本史」(という科目)では、旧石器時代があって縄文時代があって、紀元前10世紀頃からじわじわと弥生の文化が南から北上し、ほぼほぼ列島を覆い尽くして古墳時代に至る…てなふうに語られましょうけれど、前回のおしまいに掲げた年表にもありますとおり、北海道地域の時代区分に弥生時代は現れず、続縄文文化の時代となっているのですなあ。

 

弥生時代の文化は極めて稲作(水田耕作)と親密であるも、元来南方の植物であったイネの栽培は寒冷な北方地域に根付くことはなかったのであろうかと。稲作に関わりの深い祭祀なども行われないわけですから、弥生文化の時代とは言えないものの、縄文時代のままというのではなくして、やはり弥生が包含するさまざまな点は北方にも伝播したでしょうから、そのあたりの縄文との違いを踏まえて「続縄文文化」と言われるてなことになりましょうか。

 

そんなところへ、より北の方からはオホーツク文化が、また南の影響をより強く受けて伝わった擦文文化が北海道を染め始めた…というのが上図であるかと。ですので、内陸部については人跡未踏の空白地帯というよりはやがて淘汰される続縄文文化がまだ残っていたことを示しているのかも。

 

ただ、その頃は(とりわけ北方のオホーツク文化に顕著でしょうけれど)稲作が行われないばかりでなしに農耕自体が限定的だったとすれば、内陸部に入り込むよりも沿岸部にいた方が魚介類や海獣の類を食糧として確保しやすいということもあったでしょうしね。というところで、改めてオホーツク文化の方からさらっておくことにいたしましょう。

 

 

狩猟や漁労が生活基盤となれば、いかにも縄文、続縄文といった印象になりますですが、縄文という時代、弥生という時代、それぞれに時代を象徴する「モノ」として土器の文様があるわけでして、オホーツク土器といわれるものの文様は、やはりどう見ても縄文ではなかろう…と思えてくるところでありますよ。

 

 

ただ、文様といいましても、弥生土器がかなり実用一点張り化するのとは異なって、線状の文様が特徴的でもあろうかと。右側の破線を描いたように見えるのは「沈線文系」、左側と奥の立体的な線文の方は「貼付文系」とされる、二種類の文様系統があるそうな。

 

また、上の展示解説によれば遺跡には「動物、特にクマを対象とした儀礼の痕跡が目立つ」という特徴もありまして、本展フライヤーには獣骨から削り出したクマの像が配されていたですが、こういう点は「うむ、アイヌのひとびとに受け継がけれて…」と思うも、「(オホーツク文化とアイヌの文化)両者を単純に結びつける議論には慎重さが求められる」というのが、現在の研究段階であるようですね。

 

 

一方、擦文文化の説明はこのように。「確実な農耕の痕跡は確認されていない」とはいうものの、狩猟・漁労への傾斜度合が幾分低いようにも思われます。で、ここでもやはり特徴は土器の文様ということにもなろうかと。そもそも「擦文文化」の「擦文」自体が土器面の文様由来といいますし。

 

 

擦文文化では鉄製品も用いられたようですけれど、これはもっぱら本州、東北地方北部との交易を通じて獲得したものであるということで。鉄製品を持っていたから争いに強かったといったふうに考えるのは現代人の故かもですが、争わずとも、何かにつけ、生産性が高いであろう鉄製品の利用は擦文文化がより北海道の奥深くへ浸透する助けにはなったかもですな。「オホーツク文化は、10世紀になると擦文文化の影響を強く受けて変容し取り込まれていく」そうですし。

 

ともあれ、津軽海峡を隔てた交易を行っていた擦文文化期ですけれど、いわゆる古代日本では古墳時代を経て律令国家の時代へと入っていくのですよね。そうした時期に編まれた『日本書紀』にはすでに当時の北海道に関する記載があるということで。「渡嶋蝦夷」(わたりしまのえみし)、「粛慎」(あしはせ)という記載は「それぞれ擦文文化、オホーツク文化を担った人々と推定されている」のだそうでありますよ。

 

つまりは古代国家の時代から、遠い北方に広大な土地があり、そこには独自文化を持ったひとびとが住まっていたことが知られていたのですなあ。そのわりには、長らくの間、日本地図には北海道(蝦夷地)そのものの存在が示されることのないままであったりもしたのはどうしたことなんでしょうかねえ…。

 

ちなみに、これらの文化の痕跡を残す遺跡は北海道各地、主に沿岸部を中心に点在しているようですが、オホーツク海沿岸、サロマ湖近くの常呂川河口域には広大な遺跡が残されているそうな。ついつい「行ってみたい」感が募ってしまいますなあ。もちろん真冬に行こうとは思いますせんが(笑)。