タイトルが「美濃瀬戸やきもの紀行」ですので、やきもの話に終始するのはまあ当然ながら、時折毛色の異なる話を混ぜたくなりますな。この間は乙塚古墳のことに触れましたように。で、土岐市美濃陶磁歴史館の展示を見て回る中、「陶磁の歴史館」との印象が強いわけですが、「陶磁と歴史の館」かと思える展示もわずかながら。このようなコーナーでありましたよ。

 

 

「どうする家頼」とは言うまでもなく先日まで放送されていた2023年の大河ドラマ『どうする家康』にあやかった展示企画でありましょう。ですが、そもそも「家頼って誰?!」となるのではなかろうかと。名前に「家」の字がついているだけに、徳川一族かとも思えばさにあらず。従五位下長門守妻木家頼という人物のことだそうで。そうは言われても「知らんなあ」となれば、郷土史レベルの話であるかと思うものの、この妻木氏は明智氏の一族だということなのですな。

 

 

家系図の展示パネルにはなるほど桔梗紋が入っておりまして、一番上に出てくる明智藤右衛門広忠の(図には出ていない)兄弟である範熙の娘が明智光秀に嫁した熙子であった…てなことが分かってきますと、俄然「おお、そうであるか」などと思ったりも。上の図で広忠の後継ぎ貞徳と熙子とはいとこということになりましょう。解説では貞徳の代に「明智家庶家として妻木家を興す」とありますが、wikipediaなどでは『寛永系図』をもとに、貞徳の五代前には妻木を名乗ったことになっておりますな。

 

ともあれこの妻木氏、土岐源氏の流れを汲む由緒のようですけれど、美濃が織田信長に帰する以前は端折るとして、天正十年(1565年)に本能寺の変が起こった後、妻木宗家を継いだ頼忠(後の家頼)は父とともに森長可に仕えたのであるようで。

 

森長可が秀吉についたことで、小牧長久手の戦いでは徳川と敵対することになるも、その後主家を継いだ森忠政が徳川方へ近づいていく(背景には領地問題があったようですな)。同時に妻木頼忠も徳川方へとなるわけですが、展示解説に曰く「頼忠から家頼への改名の時期は不詳ですが、「家」が家康からの偏諱と考えられることから関ケ原の戦い後のことでしょう」とあり、また「家頼は森家から引き抜かれて家康の家臣となり…」ともあることから、大きなターニングポイントは関ケ原ということに。

慶長5(1600年)6月、家頼は病気のため会津征伐への参陣を見合わせていたところ、7月11日に石田三成らが挙兵、美濃国内の諸将が西軍につく中、家頼は徳川家康に見方します。東美濃の東軍は家頼のみ、犬山城の石川勢と岩村城の田丸勢が敵となりました。8月、家頼は妻木城の改修を進めつつ、田丸軍を相手に孤軍奮闘を続けました。

 

「東美濃の戦い」と言われるこの戦さ、地味な地方戦かと思いきや、「東美濃地方は美濃・尾張・三河・信濃を結ぶ街道が交わる要衝であり、徳川秀忠率いる徳川本隊の進軍ルート上に位置することから、実はこの地を押さえることには非常に大きな価値があ」ったそうですので、ここでの頼忠(家頼)の奮闘には家康も注目したのでありましょう。この時期、家康から何通もの手紙が届けられ、現存しているということで。

 

 

こちらは慶長五年(1600年)8月15日付徳川家康書状であると。花押の上に「家康」の文字がはっきり見えますですね。ま、本文まで直筆とは限りませんが、展示資料に複製と書かれていませんでしたので、(直筆かどうかは別として)本物?!と思ったり。内容としては、頼忠が西軍方へ人質を差出さなかったことを喜ばしく思っていること、土岐郡の戦いでは頼忠の働きがとても大切であること、近日中に徳川方から援軍が出馬するので安心するよう伝えていることなどが記されているようです。

 

関ケ原後も続いた東美濃の戦いは最終的に「9月末ごろに岩村・土岐両城の降伏開城で決着」し、この戦功が江戸幕府成立後、家頼(この段階では偏諱を受けておりましょう)は交代寄合(領地を持って参勤も行う旗本)に取り立てられたということでありますよ。家頼以降の本家筋は後二代で途絶えてしまうも、分家の中には江戸期を泳ぎ切って明治を迎えたりもしているようで。その中に、明治期にジョサイア・コンドルの教えを受けて建築家となった妻木頼黄(つまきよりなか)がいるのであると。横浜赤レンガ倉庫の設計、日本橋の装飾を担当したことで知られておりますなあ。ということで、土岐市美濃陶磁歴史館の歴史展示に関わって妻木一族のお話で、やきもの尽くしの箸休めということに。