岐阜県土岐市の織部の里公園に、たくさんの美濃焼を生み出した元屋敷窯跡を訪ねた後、土岐市美濃陶磁歴史館を訪ねる前に寄り道をした…と申しましたですが、そも陶磁歴史館・織部の里公園方面へとえっちらおっちら坂を登っている途中でこのような看板を目にして気になったものですから。

 

 

「もしかして、辺りに古墳があるのであるか?!」と。織部の里公園から歴史館への戻りしな、歴史館の裏側を巻いて行けばたどり着けそうな道標がまたあったものですから、ちとやきもの路線を中断して古墳の方へふらふらと…といった具合でして。織部の里はなんとものどかな里山風景を呈していたものの、実は結構住宅が建ち並んだりもしている中、ちと開けるとやおら墳丘が見えてきたのでありますよ。

 

 

さほど大きなものではありませんけれど住宅地に忽然と…というのは、しばらく前に東京都府中市で見た高倉塚古墳を思い出させるような。解説板も全く色褪せしていないの当然なのは、令和5年3月とは設置されてほやほやとも言ってよろしいかと。

 

 

例によって高台(土岐川右岸の河岸段丘、標高150m)に立地とは、周囲を睥睨するとは言いすぎかもですが、古墳(つまりは墓所)の大きさを周囲に見せんがため、豪族なりの威信を示すものでありましょうね。乙塚古墳の東農地方最大級の方墳、段尻巻古墳は市内最大級の円墳ということでして、いずれも飛鳥時代(7世紀)の造営であるそうな。

 

 

 

二つ並んだ墳丘のうち、奥にある(見晴らしの点から言うと手前をいうべきでしょうけれど)のが方墳の乙塚古墳。引いてみると角を方墳らしく設えてありますな。大きさ(南北27.4m、東西26.1m)は東濃地区最大ということながら、「段築なし、葺石なし、周溝なし」とは簡易な造りと言ってよいのでしょうかね。

 

 

 

ただ、石室内を覗き見ますと、この横穴式石室は全長19.2mと美濃地方(東濃でなしに)最大級とあって、きれいに復元されているからでもありましょうけれど、その広さが感じられました。ですが、上の解説板に書かれてありますとおり、江戸時代にはこの「石室が焼き物の作業場に利用され、その後は陶祖神や山神を祀った祈りの場とな」っていたようで、そのためかほぼ副葬品は失われていたということで。

 

 

乙塚古墳の傍らには古い石碑が並んでおりまして、左手の「山神」の文字が見える石碑はかつて墳丘の頂上に置かれており、真ん中は「天保五年」の記載が見えるという石祠、陶祖神を祀ったもので玄室内に安置されていたのであるとか。

 

 

 

で振り返り見れば、こちらが乙塚古墳の「附(つけたり)」と説明されている段尻巻古墳ですけれど、周囲はすっかり住宅地になっておりますなあ。後に、土岐市美濃陶磁歴史館の方に伺ったところ、整備前の古墳はすっかり藪に包まれていたのであるとか。それが取り払われて見通しがよくなったものの、周りの住宅にお住まいの方は「見えすぎちゃって困るわ」なんつうことがないですかね…と思いましたが、さすがに整備にあたっては周辺住民と納得ずく(?)であったとは聞きましたですよ。

 

 

石室内からはあまり出土品は無かったということですけれど、いずれの古墳も須恵器や土師器の欠片などは見つかっていて、「どこかで焼いたのだろうなあ」と思えば、「織部の里」に近いことを思い出さざるを得ないわけで。今、遺跡としての織部の里、元屋敷窯跡は安土桃山から江戸期に掛けて使われたものではありますけれど、須恵器や土師器などを焼いた古代の窯跡が実は元屋敷窯跡の下の地層に眠っているなんつうこともあるのかなと思ったりしたものです。

 

 

乙塚古墳から出たものでは、この「須恵器鳥鈕蓋」が「出土例が大変少なく貴重な副葬品」であると。美濃の焼き物の淵源、そして創意工夫の伝統の源がこのあたりにあるのでもあるか…てなふうにも。と、そんな思い巡らしを得て、いよいよ土岐市美濃陶磁歴史館へと向かいますが、それはまた次の機会に。