ひとしきり多治見のやきもの関係のスポットを見て周り、朝もそうそうに中央本線に乗って…と言いつつ、荷物はまだ多治見のホテルに預けたままにして向かったのは、名古屋とは反対方向に一つ先の駅なのでありました。

 

 

やってきたのは土岐市でありまして、その名から浮かぶのは源氏の流れに連なる名流にして美濃の守護・土岐氏かと。斎藤道三に美濃を奪われてからはついぞ表舞台に登場することもなくなりましたが、ともあれ地名からすれば歴史的遺産がたくさんあるのかも。駅から歩き始めてほどなく、道標には「安土桃山街道」などという文字も窺えましたしね。

 

 

ではありますが、今回の目的は国盗り物語的な歴史をたどることでは無しにやっぱりやきものなのでして。道々の途中にあります土岐市美濃陶磁歴史館は開館前でしたのでいったん通り過ぎて、さらに奥へと。

 

 

駅前からさほど歩いたでもないのにすっかり辺りは山里となりまして、たどり着いたのがこちら、「織部の里公園」なのでありました。

 

 

実にのどかな景色としか思われないところですけれど、「織部の里は、この元屋敷窯周辺を「歩く」「見る」「触れる」ことで美濃桃山陶への理解を深め、楽しむための公園です」(公益財団法人土岐市文化振興事業団HP)ということで、茶室があったり、作陶体験のできる施設もあったりするという。ですが、今回ここを訪ねたのは、上の写真の右側に連なる斜面に築かれた古い窯跡があるということでして、「ここで生産された陶器は全国へと出荷されました」と。

 

 

「元屋敷陶器窯跡」として国指定史跡になっているようす。「16世紀後半から17世紀初頭(安土桃山時代~江戸時代初期)に稼働した元屋敷東1号窯・2号窯・3号窯(大窯)と元屋敷窯(連房式登窯)の4基の窯が近接して築かれた遺跡」なのですなあ。上の図では、三角形に見えるのが大窯でその左右の長方形が作業場、一番右に細長く見えるのが連房式登窯であるということで。

 

 

内部が見えるように覆いの半分を切ってある大窯とその先に階段状の屋根が並んでいるのが登窯になりますが、ここが結構な斜度の斜面なのですよねえ。ともあれ、窯の違いも含めて、解説板から説明を引いておこうかと(ちと長いですが)。

この地で窯業生産が開始された当初の窯炉は焼成室が1室のみの大窯で、天目茶碗、皿、擂鉢を主に生産していました。その後、黄瀬戸、瀬戸黒が登場し、志野が量産されるようになると、大窯が小型化して、茶碗、茶入、水指、花入などの茶道具や、鉢、向付といった懐石道具を量産するようになります。そして焼成室を幾つも連ね、大窯より生産性が高い連房式登窯を導入することにより、多種多彩な織部を生産し、付加価値の高い茶陶や高級食器を量産しました。

黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部…。多治見市美濃焼ミュージアムで見て来たさまざまな茶陶などがまさにここに生み出されたのですなあ。感慨深し、です。で、ここでの注目はやはり連房式登窯の方でしょうかね。元は朝鮮半島由来とはいうものの、「17世紀初頭(江戸時代)に九州の唐津から導入した窯体構造であると伝えられてい」ということでして、先に美濃焼ミュージアムで美濃焼の1300年を辿る中、唐津と美濃のつながりがありそうなことに触れておりましたですが、登窯造りの技術移入には当然にして陶工たちの交流があったでしょうから。ちなみに、やはりやきもの町である常滑に登窯が伝わったのは江戸後期の1834年だそうですので、美濃に導入されたのは格段に早かったのですなあ。

 

 

階段状の屋根を持つ建屋の中はこのように。「全長24mを越える」となりますと、実に大がかりな造作でありますな。やきものの町を訪ねると登窯に出くわすことはままありますけれど、ここのように完全に遺跡ですものねえ。その分の歴史を感じるところでありますよ。数々の織部がここで焼かれたとは…。

 

 

と、昔の窯跡を見てじんわり歴史に浸った後、来た道を辿り返して土岐市美濃陶磁歴史館でまた美濃焼の数々を…となるところではありますが、歴史館の前にちと寄り道を。元屋敷窯跡の歴史を遥かに凌ぐ史跡に立ち寄ったのですが、そのお話はこの次に。