大阪・高槻市の駅から北方の山の中腹、そこに3世紀の中頃、邪馬台国の時代に造られたであろう安満宮山古墳があったわけですが、テラス状になって見晴らしのきくその眼下には弥生時代の安満遺跡が広がっていたのですな。古墳の被葬者はおそらく安満遺跡となっている環濠集落の長でもあったろうかと。
こんなふうに安満遺跡を見下ろし(集落の長になった気分とは言いすぎですが)、やっぱり立ち寄ろうという気になってしまうわけですな。阪急の高槻市駅からは徒歩10分ほど(JRからは13分らしい)、すっかり整備された安満遺跡公園にたどり着いてみれば、予め見下ろしていたとおりになかなか広い公園でした。公園HPに「安満遺跡は、約2500年前の弥生時代の環濠集落跡を含む、約72万㎡に及ぶ集落遺跡です」とありますしね。
さりながら駅からさほど遠からぬ場所にある広い土地をどう保存し、どう活かすのかは難しいところでしょうなあ。ひとつのありようかもしれませんですが、部分的に残すところは残して、小さいながらも展示施設を設けるとともに、広さを活かした子どもの遊び場というコンセプトにしたのかも。めざすは「高槻のセントラルパーク」だそうで。
ここで「セントラルパーク」という用語が、単に中央公園、市のメインとなる公園を意味しているのか、はたまたニューヨーク・マンハッタンの(固有名詞的)セントラルパークに擬えんとしているのかは変わりませんですが、園内を歩き回っているときに上の写真のような、向こうの方に大きな建物が見えるといった光景から、確かにニューヨークを思い出してしまったのですなあ。明らかにニューヨークの建物の方が大きく、また林立していますし、公園自体、これほどにに広々した芝生というわけではないものの、なんとなく。とまれ、そんな印象を持つ者がひとりでもいたとすれば高槻市は大喜びかもしれませんですね(笑)。
と、とりあえずは園内にぽつんぽつんと残る弥生時代の遺跡遺構や展示施設を見て周りましたですよ。
環濠集落跡というだけあって集落を周りに濠を巡らしていたわけでして、二本の柱が立つ入口(弥生時代にしてすでに神社っぽいですな)の左右に土手が築かれておりますな。でもって、まず村全体のイメージはこんな具合です。
竪穴住居や高床式建物が建ち並んでいるように見えるのはガラス・パネルに描かれているだけでので、実際の遺構はこんなふうに展示(?)されておりますよ。これは竪穴住居跡ですな。
そして、環濠の外側にはお墓が設けられています。縄文遺跡ではお墓が集落の真ん中に置かれて、生死の境があいまいというか微妙というか、そういう状況だったように思いますが、文化の違いはこうしたところにも表れますなあ。
ちなみにお墓は四角く盛土した形(方形周溝墓)になっていて、それぞれ「家族ごとにつくられ、死者は水に強く長持ちするコウヤマキの木棺に土葬され」たということで。そして、やはり環濠外、とはいえお墓からは離れた場所ですけれど、いかにも弥生時代らしく水田跡がありました。用水路も築かれていたのですな。
水田の一枚一枚には段差が設けられていて、水利を活かした造りになっておりましたですよ。水神様をお祀りするということもあったようです。でもって、こういう施設にはありがちなことながら、ここでも水田跡の近くを拓いて古代米の栽培が行われておりました。
稲穂の色が尋常でない?のは栽培されているのが「赤米」(ベニロマンという種であるようで)だからですかね。お隣では苧(からむし)の栽培も。こちらは繊維をとって衣服にしたりするからでありましょう。
てな具合に園内をひと巡りした上で展示館に立ち寄って、安満遺跡と弥生時代のことについて、もそっと理解を深めることに。ですので、次はこの展示館見学のお話でございます。