グノーシス主義を利用したメシア教批判の信仰的な危険性について
これは事実関係の確認ではなくて、個人的な思惑で使うと信仰上危険という考察です。もし今回の考察のような目的を持っているようだと、自滅しちゃうのでやめた方がいいです。悪にとらわれないための基本的な思考法でもあります。ちなみに浄霊で解決しない、間に合わない、霊的な因縁やそこからくる災いなどへのアプローチにも関係があるにはありますね。生き方です。物の見方や考え方の前にある心の問題です。 なぜなら心によって魂の持っている願いや情報はダイレクトにでるか曲がるかがきまりますよね。・神様の願いとは信仰で神様から本当のご守護をいただくのに、幸福を得る基本は現代の言葉で言うと自分の中の「自己愛さん(パーソナリティ障害)」を克服することです。また本当の神は慈悲であり愛なので、相手を裁いたり相手を悪者にして、相対的に自己の正義を唱えることではありません。神様の基準は創造神の願いに沿うように生きる判断をしたり導くかどうかなのです。だから人間的な都合ではわからないのです。また、そうあろうとすることで整っていくんですね。ですので、本当の神様のお話などからも感じますが、悪に対しても慈悲や救いのチャンスを与えたりします。ただ悪に隷属や従うことではないので、慈悲を与えたうえで悪からは距離を置くべきではあります。あまりにひどいのはルールにもとづいて最低限の対処が必要です。どこまでも相手を追い詰め執拗に攻撃し争いの長期化を望むというのは神様の方向にはないわけです。攻撃されて防衛しているのと、率先して攻撃しているのでは話が違いますね。こういう感覚は神様に気に入られるために、というと人間的ですが、霊が救われ、それが体という現実に移って、結果的に救われるには必須の考えですよね。人間の願いや決め事、個人の損得や名誉ではなく、神様の願いがかなえられるようにすることですよね。ここを基準にすると誹謗中傷や尾行盗聴盗撮は手段としてできないし、意味がないどころか、一時気が晴れたり自己満足しても、自身の人生の方向が神様から離れて自滅にむかってしまうわけです。もちろん悪魔を信仰して刹那的に生きるのなら、神様の生き方は理解できないかもしれないですね。それは神様の歴史を見ていってもわかったりします。ここが分からないとなぜ神様が正しい生き方を説くのか分からないのです。生き方の方法だけ取るから意味を取り違えておこなってしまいますね。この正しさに目覚めると、自身の魂が良心が道のずれに気づきます。それは相手と自分の善悪ではなく、そもそも自分の今の判断が、相手の今しようとしていることが神様の道に沿っているかがある程度認識できてくると思います。違和感とか第六感とかですね。気に入るいらないという不快感や怒りとかではないと思います。これは明主様の教えを利用して、こじつけて、これでいいのだと自己の欲を正当化しているのとは違います。そこに基準はないですので、そうなるようだと、そもそも読めていないわけでしょう。また信仰して1年以上たってもわからないとしたら、それは神様側じゃないんですね。神様の反対である悪魔はそのことを忘れるように自分の欲を中心に考えるよう導いて魂を捕らえることだからです。それが代々続きひどくなると共感性もなくなっていくということでしょう。また明主様がおっしゃるように、明主様信仰にこそ大悪魔はいますよ。なぜなら大正義を説く宗教だからです。小悪魔では邪魔できないので選りすぐりがくるわけです。また次のところで書いていく手段を使う人は自分の手を汚さないで攻撃しているので、自分が傷つかないしダメージを受けていないように錯覚するんですね。そういう思考停止は悪魔の狙いです。指示を出したり誘導しているだけで自覚がない。指示されてる側も先生が神様がとなって罪意識が薄いですね。でも多くの人間を一度に惑わすその罪の大きさはたとえようもないわけです。霊界がなければ、気にならないのでしょうし、そう思ってもしかたがないですね。でもあるんですよね。そう信じるのが明主様信仰でしょう?・考察前段を書いて、次に説明を書いていたのですが、長くなったので結論だけ書いて終わりますね。その理由は省略です。今回いまだに利用されているグノーシス主義論は「世界救世教」でも「世界メシア教」でもないため、「第三の思想」になってしまいます。使っている人が思っていることではなく、結果的にこのような構図になりがちですし、こうなると危険ですよという個人の考察です。世界救世教 ⇔ 第三思想 ⇔ 世界メシア教このようになっているので、「世界救世教」から「第三思想」を見て「世界メシア教」はこうだと思っても実は「第三思想」のことなので、「世界メシア教」のことではありません。世界メシア教からも世界救世教を通して第三思想を見せられても、何を言っているのかわからないので答えようがないということになります。もちろん多くはこの考え自体に引っかかる人はいません。なぜなら実態がないからです。【酸っぱいブドウの狐】的なものですね。だからとりあっちゃいけないのです。あるいは酸っぱいブドウの世界で生きたい人は飛びつくかもしれませんね。この場合の第三思想を使うとしたら、最悪の場合、世界救世教からも明主様を引き離したいということになります。だから世界メシア教を攻撃しているようでいて、世界救世教も攻撃されているかもしれないですね。なぜならグノーシス主義批判で使っている文言自体、教祖が使っていることがあります。これを推し進めると世界救世教の教えの中で矛盾がでます。矛盾を無視するということは、その教えを切り捨てることになりますね。そうするとそこにつけ入るスキができるわけです。だって罪意識とか神律の部分に相当する教えですからね。秩序や良識に隙ができますね。そうして明主様の教えは総ての宗教を包含しているので、キリスト教要素はもちろん含まれます。天の父とエホバと主神は同じだからです。みろくおおかみは主神の表れ代表神でエホバそのものというと厳密には違ってしまうかもしれません。なので、これは世界救世教と世界メシア教どちらに対しても攻撃をしていることになります。世界救世教 ➡ 世界メシア教と思っていたのが世界救世教 ➡ 第三思想 その実態は世界救世教 ← 第三思想 → 世界メシア教みたいな構図が実態が無いのに実態となり生まれてしまう。ただ世界救世教側は攻撃を受けている自覚は持ちにくいかもしれません。ただこの構図が問題で、最悪の場合ですが、これは誰かが、第三の思想を作り出し扇動し争いを生んだということになります。これが事実であったり、また事実でなくてもこのような構図が再現される状況があると危険です。それこそ、以前、人を裁くとなぜ命の危険があるのか考察したのですが、その時の例を超えてしまうことになります。神様は慈悲と愛ですからね。欲による悪意や敵意ではないです。(ちなみに景仰にある、人のうわさをうのみにした批判をたしなめた明主様の話はこの小さいところですが同じことだと思われます「憶測でものを言わぬこと(景仰)」)もっと最悪のケースは、もしこの動きそのものが第三思想の実態としたら、どこでもいいのでこの第三思想論で攻撃してくれる団体がでるといいのです。そうすると、第三思想がその攻撃する側の団体に入り込めるので攻撃に使ってほしいということです。つまりこの論を使って攻撃すればするほど第三思想に浸食されるってことなんですね。これは一つの手段でグノーシスをいう人こそがグノーシスだった場合、このグノーシスという人のことを信じて世界メシア教を攻撃しても信じた人がグノーシス化するし、世界メシア教が引っかかってお前たちこそがグノーシスとしたり、そうではないとしていると世界メシア教が本当にグノーシスになってしまう可能性もありますよね。でも世界メシア教は初めて聞いた説なのでわかりません。としか答えてませんからね。取り合ってないんですよ。結構お前が言うな的なことがあったりするでしょう。ですので、世界救世教側からはこの第三思想そのものが世界救世教を狙う、自分たちで説いているグノーシス主義と思ったほうが分かりやすいかもですね。神は慈悲ですからね。それは神典とか勉強しているとわかりますし、神様の律法を侵す行為のほうに着目すべきです。それはホツマツタエとかになるので、今の日本では認められてませんからね、世界的にはどうしても聖書などになりますね。神様の律法の記録が公式になっていないからです。祝詞だと神言として以前奏上していた大祓祝詞なのですけれど、あまり意味は通じていないのかもしれないです。ですからね、これは元の世界救世教でもないし、まして世界メシア教でもないので神様から見たときにどのように見えるか?という話です。すでに主之光教団だった人たちが認めないといけないのは主之光教団は世界メシア教に移行したし、気に入らないからと、そのほかのどこの団体に行っても、たとえ形を真似たところで、元の主之光教団の信仰はないです。それは他の派閥にも言える事でしょう。世界メシア教だけでなく世界救世教も変わったのですよ。話を戻して、もし最悪のケースであったり、そういうことを誘発する構図になるということは、大変危険ですよね?ということです。こういうふうな構図でとらえて今回のことをしないようにしたいですね。ということです。そう思っていたのなら、そう思わされていたのなら気を付けるか距離を置いた方がいいようにも思いますね。