無意識の支配欲に気づけていますか?無駄な会合と企画と日程
自己愛的な指導者の最大の特徴は、「反省というプロセスを持たない」ことです。誤りを指摘されても謝罪はなく、仮に言葉として謝ったとしても、それは組織維持のための形式に過ぎず、行動が変わることはありません。宗教組織や共同体において、この性質は特に問題になります。なぜなら、指導や命令が「神意」「使命」「組織のため」という名目で正当化されやすいからです。自己愛的な指導者は、間違いを修正する代わりに、批判者を攻撃します。時には周囲を扇動し、噂や評価操作によって立場を守ろうとします。これは信仰の名を借りた権力防衛であり、霊的指導とは正反対の行為です。組織の中で行われる他者への不利益も、偶然ではありません。無意識を装っていますが、実際には意図的な場合が少なくありません。例えば、休日や深夜に指示を出す行為です。緊急性がないにもかかわらず、あえてその時間帯を選ぶ。これは業務上の合理性ではなく、「従わせている感覚」を得るための行動であることがあります。宗教組織では、このような行為が「献身」「奉仕」「試練」として美化されがちです。しかし、その結果、信徒や職員は家庭生活を犠牲にし、周囲からの信頼や評価を少しずつ失っていきます。問題は、それが一度きりではなく、繰り返されることです。指導者は常に言い訳を用意していますが、もし数時間早く判断していれば、誰も犠牲にならずに済んだケースは少なくありません。ここで問われるべきなのは、教義でも理念でもありません。「相手に対する痛みへの想像力があるかどうか」です。その想像力が欠けている場合、指導行為の裏側には、他者を支配することへの快感が潜んでいることがあります。本人に自覚はなくとも、構造としては極めて幼稚で危険です。この問題は、指導者の言葉ではなく「結果」を見れば明らかになります。健全な組織であれば、指示や教えは必ず現場で活かされ、共同体全体の力になります。しかし実際には、採用されたはずの提案が実行されない、忘れられる、場当たり的に流される。会合や企画が形だけになり、意味を失っていないでしょうか。それを後から「学びがあった」「意味のある集いだった」と言い換えるのは、霊的指導ではなく精神的圧力です。暴力や恫喝が使えない現代における、パワーハラスメントの一形態です。研究でも指摘されていますが、権威的・支配的な指導しか知らない人は、それ以外の方法を思いつきません。その結果、組織全体の力は確実に低下します。本来100の働きが可能な共同体を、50、あるいはそれ以下にしてしまう。それでも本人は、100の可能性を知らないため、問題意識を持ちません。そして、組織を本来の姿に戻そうとする人、より高い視点から物事を語る人を「危険」「扱いにくい存在」として排除しようとします。人は、自分が理解できる範囲の話しか受け取れません。理解できない言葉は、不快や恐怖として感じられます。「分かりやすく話せ」という要求は、必ずしも対話のためではありません。理解しなくても済む位置に自分を置くための防衛である場合もあります。本来、宗教的指導とは、難しいことを平易な言葉で伝える努力をすることであり、理解する側にも学び、考え、成長する責任が伴います。それを「誰でも分かるように」という名の下にすり替え、内容を空洞化させてしまうなら、その指導は信仰を育てるどころか、組織を劣化させていきます。結果として残るのは、古い価値観と上下関係だけです。会合は建設的な場ではなくなり、共同体は本来持っていた力を発揮できなくなります。