盗撮行為関係の追記を書いて完成したのだけれど

具体的な内容すぎたので没にすることにしました。で、一から違うコンセプトで書き直しました。

ただ、盗撮問題に「関係ない」という感覚は深く考えていく必要はあります。信徒はみんな関係あります。ない、教団がしたという感覚自体が実は危ないのです。

世間の方がこういうことには敏感でしょう。鈍感にさせられていませんか?

ということを気づいてもらうために具体的にかきすぎてやめました(笑)。結局個人レベルで具体例をあげるとドキュメンタリーのようにはならないですね。個人を糾弾したいわけじゃないのですよね。悪いことをしている人に興味ないですよ。私はね。

悪に捉われている人に対しては逃げるが勝ちなのです。向かって行くよう恨むよう怒るよう、気になるよう扇動するでしょう?そういう想念、つまり欲を主体にした思想行動になると思うつぼなわけですね。

怒りなどをあおって成功すると、その人の主導権を副霊が握り、そういう想念がついて回り地獄や修羅道に誘導されていくわけですよね。そうなると副霊はその人の思想を自由にできるということを警告しているでしょう?

疑問に思ってる人が悪の思想に気づいて共に天国に住するものとなりたいね。なっていきたいよねってことですね。

ただ明らかに悪の思想の人に寄り添って肯定するのはもうやめようとは思っています。以前は相手も立てて話していたのですが、そういう時代ではないと思います。

だからあれほど教団が割れたんではないかなと思います。教え以前の「常識」の問題ですね。宗教用語使っているけれどいつ信仰や宗教の高いレベルの話になったのかな?なったことないでしょ。ということです。

それでですが、
今、「ゲームチェンジャー(ネットフリックス配信)」「ドミニオン(※公式サイトで無料公開中)」の視聴を世界メシア教では推奨されてますよね。

これはひとつは化学面での菜食推奨と、それが健康にとても良いこと、癌や糖尿病、心臓病にも関係があること、また食用の肉の無理な供給が、動物の過度な虐待や命の軽視などのドキュメンタリーです。

これは知っている人は知っているドキュメンタリーです。
ゲームチェンジャーのおもはスポーツ選手のパフォーマンスの話を軸に。完全菜食で十分栄養が足りるのと、肉食による害と動物性栄養やタンパク質迷信とその原因等のドキュメンタリーです。菜食のウェイトリフティングのギネス所持者の話も出てきますね。

また糖尿病が実は肉食、動物性脂肪が原因であること、心臓病もですね。また食後すぐに影響することなども調べられていますね。

この「ゲームチェンジャー」はタイタニックやアバターのジェームズキャメロン監督やアーノルド・シュワルツェネッガーさんが関わっていますよね。

そして「ドミニオン」では人類の肉食を維持するためにどれほどの無理と反自然な事が現実起きているのかのドキュメンタリーですね。

 

突っ込みどころがあるという話は置いておいて、

これをみると世界救世教時代に今まで説いていたバランスの良い食事は否定されてしまいますよね?

ただね、明主様の菜食主義は否定されるどころか、全肯定されるような内容です。

以前書いた、なぜ菜食なのかの記事でも明主様の最終目的は完全菜食ということを考察しました。

 

 

たぶんこれがYouTubeでの公式の予告編だと思います。違ってたらごめんなさい。字幕があるので字幕オンになってないようならオンにしてご覧ください。

 

明主様はゲームチェンジャーどころじゃない状況での菜食の話をしていますよね。

これね、ドキュメンタリー見るとわかりますが、肉を食べた瞬間に血が濁っているのが検証でわかるようです。

一度見るとよいのですが、それだけじゃなくて、社会との繋がりを考えず他人事になっているという感覚がおのずからわかるようになっています。

 

この辺が賛否があるようですね。食と思想を分離的に考えると違和感感じるし、何事も意志想念から人間の欲や希望から形になるので思想は当然そこにあると思うと違和感なかったりします。

ちなみに、ここを見られるくらいの人なら大丈夫と思いますが、きちんとお金を払ってみてほしいですよね。払うべきものを払うのも大切な事なのです。ここも大事なところです。

そして、その検証事実がどうかという前に、私たちは社会とつながっていることを思い出させてくれますね。

思い出せる人がこれから大事なのですよね。

これをただの食の問題レベルで見てるようなら、ましてそれが職員ならば、専従者ってなんだろうなと私だったら思います。

完全菜食を無理に実践しろ!してないのはおかしい!…ではなくて、感覚です。方向性ですね。軸の部分の話ですね。

 

結論だけ取り上げてやると、実は視野が狭く、そこからの広がりがなくなる可能性があり、結果的にそれほど実践してなかったりします。また実践者が広がっていきません。

二極化はカルトの大好物なので気を付けましょう。

軸が悪なら表面善人ぶっても悪ですよね。

例えば毒親の虐待でもしつけだなんだといっても、実は軸の部分が自己中心な思いだったら、そこに愛がないわけですから、理屈をつけても許されるわけがないでしょう。親が未熟なのは子供でも許すことはあるかもですが、愛がなかった場合は終わりですよね。また終わせないと子供が不幸なのが今の社会問題のひとつだったりします。ただの依存や利害打算の関係だからですね。

ここと払うべきものを払うのは同じことです。

カルトというのは神様の領域で邪神活動をする存在やそれに操られている存在のことです。神様明主様の用語を使いつつ実は無神論を説いている、方法論的な人たちの事かと思います。

できてない自分はダメだと卑下する人を狙っていますからね。本来はこうあるべきなのだろうと思う、知っていることは大変大切ですので、卑下して本来のことを結果的に否定したり逃げたりしないようにしましょう。

そうしていると逃げ道のような屁理屈を携えてカルトは忍び寄ってきます。

知ってないとですね、反対側の思想に狙われた時に、あれ?って気付けないんですよね。

なんでも慎重とは違って否定してしまうのは、悪い情報を伝える幇助つまり手助けになっちゃうことがありますよね?
卑下する人には正しい心の種があるのは知っていたほうがいいと思います。そこからどうそれを育てるかの問題ですね。

なぜなら悪の思想に気づいていない人には、いくら指摘しても意味はないのです。何も感じないどころか、あるいは怒りをあらわにし攻撃してくるかもしれない。

これは霊的に言えばすでに悪の言いなりなので、悪以外の善の思想がなんだか気に入らないっていうこともあるのです。これは副霊の話にも出ていたでしょ。

おかしいな、こんなんでいいのかな?という人に気づいてもらう必要があるんですよね。そういうところを助けたり、時には私も迷いますので助けてもらったりで体的にも向上して、本来の綺麗な霊の状態に現界にいる私達、生身の存在が近づくわけでしょう。

教祖は、悪そのものの人がいるとおっしゃっています。これは実はかかわることをやめるべき人なんですね。

また悪の役をしている人もいるといっていますね。悪の役をしているのは正神です。

もうひとつ関わってはいけないのは悪にとらわれ切ってしまった人です。
教祖は救われない側に回った人という表現をしていたと思います。

こういう悪に対しては早々に退散して関わるなと、そういう人にかかわると本来救われる人が救われなくなったり遅れるとおっしゃるんですね。

また半面教師として、こうはなりたくないと思ったならその心が大事ですよね。自分がどう思っているのか確かめられるわけですからね。そして人ごとにせず、自分も無知ならこうだったかもしれないと思うなら、神様に対してこのことから許された救われたのだなと感謝し讃えることも大切でしょう。

これを自分の力だと思うようなら危ない状態だと思います。自分の力でとなら神様要らないわけですから、その人は実は神様なんて信仰していないかもですよ。

そうじゃないと、自分も一時的に地獄に落ちてしまいます。神様でもない私たちは悪に騙され捉われてしまいます。自分が主神みたいにうぬぼれて払ってやるみたいに思うのは慢心ですよ。

邪神の掃討は正神の領分ではないかと思います。教祖クラスでもないかぎり自力で太刀打ちできるものではないと思います。神様に祈り奉告し委ねるべき案件でしょう。

ただ奉告しないのはよくありませんね。

つまりは報告させない祈らせないよう方法でごまかす勢力があるわけですね。

だからね、どこに悪があるかというと、いまだに4代教主様や世界メシア教に執拗に何かしようとしているところ、人となります。

ここの部分をいまだに助長しないといけない、それが都合が良いという思想ですね。

すでにそういう時期は終わっていますからね。

ある会はメシア教からの転向だのみなところがありますが、それでは”世界”をつける価値はありませんよね。世界の名を関した教祖のみ旨を調べるとわかりますからね。

キリスト教化とかみ旨がという以前に、信仰したら磨かれるべき人間性が磨かれてないようでは問題なんですよ。

欲とか怒りとか煩悩というと仏教的ですが、これは本当に信仰の基礎の基礎ですよね。だから教祖は仏教を小学レベルでメシア教を大学レベルとたとえたことがあります。これは時代の移り変わりや変化もありますけどね。

この小学レベルはいらないですか?たしかに大学があるなら小学では不十分だったりするでしょうけれど。

数学でも小学校で習う足し算できないと、あらゆる計算はできないでしょう?

でもね二次関数、微分積分するようになった時って足し算引き算を意識的にしてないでしょ。当たり前ですよね。ある意味忘れてますよね。でも確かに足し算引き算を覚えた努力は生きていますよね。

その足し算の部分、宗教では悪が一番最初に無視させること、怒りとか執着とか煩悩に支配されることですよ。
怒りや執着に敏感になって祈ることをしないのが足し算もない状態に思います。

足し算さえ、つまりは欲や怒りの制御でさえできないように善人や宗教の顔をして近づいて誘導してくるんですよ。

相手を怒らせても、自分が怒って起こした行動を棚に上げている人いますが、こういう人が一番霊界が低いでしょう?すでに相手はあきれて忘れられ、相手は人生を謳歌していますが、最初の嘘をついた人は実は無意識にここに縛られて動けなくなります。

悪く言い続けないといけない修羅道にもう入っていますね。そういう布教をされた話も聞くのでそういう人がいたら要注意です。

これが邪神に囚われてしまった人かもですよね。

もちろん聖人君主でもないかぎり、怒ることもあるしわがまま言う人も居ますし、なりますが、ずっとそのままではないでしょ?時には反省したり、改めたり、謝ったりできるでしょ?

なんとか戻ってくるわけです。

そういうのとは違うわけです。いきっぱなしなんですよね。

精神的に未熟なわけです。

子どもはそうでしょ?思い通りにならないと泣いたりわめいたりする。もちろん成長のためにはおかしくないことは親がそれをフォローしてできるように一緒にやらないと虐待にも繋がってきますけどね。

ただ、これが執着とか我で見えにくいけれど取らないと一歩も前に進まないもので、これが基本ですよね。本来浄霊などは一時的に曇りを取って霊界をあげて、ここに気づくためのものでもありますよね。

そうじゃないなら、浄化はそれで終わりで再発はないわけでしょ?

良心を目覚めさせる。目覚めないならまた曇って元に戻るでしょ。そして似たような浄化してまた浄霊する。この堂々巡りを救いとしているようでは結果的に意味がないでしょ。

こういう感覚がないと時々のごまかし方や罪の先延ばし方を指導したり考えたりするので、教祖の目指す罪障消滅には向かいません。これは無意識のカルト化です。

誘導する方からしたら、奇蹟みたいな現象を際立たせて、堕ちていく思想を見させないようにする。考えさせないようにするというと分かる人は分かるかもしれません。

もちろん正しくても奇蹟はおきますが、自己都合のために奇蹟は起きていません。神様のものです。

また教団関係なく一般常識に疎くて、専従者でも今の毒親問題や子育ての変化、人権感覚のことがわかってない人も多いです。肝心な精神年齢が低いということではないかなと思います。

これは30歳くらいからは目に見えてくるし、40歳ではもう指摘するのを面倒になるほど幼稚に見えるし50過ぎてきたら…。まあそういうのともうまく付き合ってくれる周りの精神大人な方に感謝…もできるようなら子供ではないんですよねえ。

この精神年齢の部分に実年齢や役職や立場は無力で無意味です。

精神子供なジャイアンにしぶしぶ、仕方なくスネ夫的立場をとっている人も多いですからね。

これも大人側の御霊磨きでしょう。反面教師的に私の御霊を磨いてくださっている。用事がなくなったらどっかにいったりしますからね。

怒りを克服するためには怒らせる人がいるようですので、

悪の存在意義は、悪の気持ち悪さ、嫌さ加減をしるものでもあるかもですね。そうなりたくない。染まってしまうと、他人に悪をさせるのが快感になってしまうので、そこまでいくともう関わらない方がいいかもですね。

反面教師をして堕ちていく。

この悪の使命の部分なんですよね。悪は悪をやりつくして自ずから消滅する使命。これは先達からそういう話を聞いたことある人も居るでしょう。

こういう子供な人でも、たとえばサイコパス指導者がニュースになるように、仕事の数字的には成果がでたりするけれど、永続性が無いわけですよね。その後の疲弊を伴いますね。

ちなみに、現在の親子や子育て問題に疎くて、昭和って結構おかしいこと多かったんですが、昔でもそうなんだけど今それをしたら大問題なことが結構あります。

それらに対して、40にも50にもなって居直ることばかり教えて毒親を間接的に肯定してしまっている人もいます。居直る際にうまくお言葉を使ったりしますね。結果がおかしいという場合もあるんですよね。子育ての経験がないとなりやすいとは思いますね。

これはね、当たり前のことですが、結婚して子供を育てるとある程度精神年齢はあがるんだけど、そうじゃないなら自分で本当に率先して学ばないとわからないんですね。学んでも分からないんですよ?

対応は学べますけどね。体験してないことをしたふうにいうのは良くありません。

実際子育てしてたりする人を否定したりすることになると、もう青年学生のお世話は不可能です。これはフォローがききませんよ。

余談ですが、青年学生のお世話できない人は年齢を立て分けますね。あらゆる年齢がジュジュつなぎでいないと反自然でしょ。また適材適所。役職=万能ではないでしょう。

ちなみに子供がいたとしても、毒親は精神年齢が上がらなかった人、人に与えることを忘れた人です。その人も事情や親の親によって忘れさせられたともいえるけれど、これはね与えだしたら、与えられなかったことはだんだんと解消されていくと思っています。

あんまり良い親は今の時代いないですよ?戦争の影響があるようですからね。代を紡いで良くしていくしかないからですね。今、私が、つまり今の親が与えることを忘れたらどうなりますか?私としたら一生私の家系は毒を吐き続けることになるか、消滅しちゃうんだと思います。跡が続かなくなってしまう。

これは過程だけでなく教団でも同じようなことだと思います。

ただ天国化を勧めると天国と地獄に立て分けが自然発生しますけれどね。

今回ね、どこかの暴走ではなく、組織の親にあたる部分で起きているから、どこを選ぶかが立て分けになっているんですね。関係ないのではなく、盗撮行為を認めるか認めないかなのですね。

調査と言い換えるとしても、ここを解消できないと、これからの教団史にずっと付きまとうわけです。

それこそ世界メシア教が存在している限りその十字架を背負わないといけないんですね。
世界メシア教が無かったら、隠せたかもですが、訂正しないならあとはメシア教を攻撃してやっつけるしか方法が無いわけです。

だから方法への非を認めて責任を取るか、それこそ内部でクーデターが起きて救世教内も、もう一度ひっくり返らないといけないことになっちゃうんですよ。

これは、30年前にも体験したでしょう。最初は2つに割れて、それがさらに二つに割れて三つになった。

それでも時代を無視して突き進んだところで同じく無知な人を中心にするだけで一時期だけ数はいても絶対に結果において失敗します。これはあえて言わなくてもあたりまえのことですよね。

時代というと世間の事ばかりに思うでしょうけれど、神様の時代時期ですよ。

それがないと、多く人がいても、本来のリーダー格から減っていくんですよね。

だからね、実は相手の悪を徹底的に暴くより、自分がそうならないことと、無知を認めたり、それに関係する毒親とかカルトの被害者となってとらわれている人を開放するほうが大事なんですよね。

もっと大事なのは自分がそのようになっていたことに気づくことです。

厳密の厳密にいえばそうじゃない人はほとんどいないでしょう。

原罪がすべての人類にかかっているようにですよね。これは教祖も肯定していることでしょ。

悪は神様が勝手に裁かれます。実際ここ3年の動きを身内のひいき目をなしに見たらいいんですよ。でね、どこにいたっていいのだけれど、

世界救世教でよかったとか、〇〇でよかったと納得させていたり、自己正当化がひどいようだと、一回見つめなおしたらいいと思います。そこでも酸っぱいブドウの狐のような事をするならもうほおっておいたらいいと思います。このブドウの話は幼児性の代表的な話です。


それで、勘違いしているだろうなと思うことは、
世界メシア教に来た人は少なくとも世界救世教と縁が切れて良かったと思っていることです。反面世界救世教の信徒を心配もしています。

もちろん和解して仲良くすることは望ましいですし、聖地も聖地に再びなるなら望ましいことです。

でも、後悔をしているわけじゃないのです。

いつの時代もどの教団もちゅうぶらりんな人、どっちつかずな人、都合の良い法につく人、日和見な人はいます。

問題は、中心的なリーダーがどうかなのですね。

私の周りの主之光教団系ではそういう人は移籍したり動いていません。どちらかというとリーダーに甘えていた人が自由にならなくなって都合の良いところに動いたというのはあります。

その証拠が幼稚な自己正当化です。

しなくていい自己正当化をするからバレているんですね。

最後に、世界メシア教の教主代行がヴィーガン食を推奨し実践しはじめた(といってもすでに数年目)のは、教祖を嘘つきにしないためなのかなとも思います。教祖は完全菜食を説きはしましたが、実践をする前にお亡くなりになっています。教祖・明主様は信徒に自分ができているか見させていました。そしてそれを書くよう伝えるくらいで、それで景仰という本ができたくらいです。

本当ならやって見せなくてはいけませんでしたよね?教祖が出来なかったことは、歴代教主や執行部に託されているわけですよね。

それを信じさせてくれる行動ではあります。文句を言うならまず完全菜食をしないと、自己正当化による指摘に、第三者からはより見えやすくなったんですよ。

慌てた指摘は逆効果なんですが、慌てた指摘に気づく人が大事です。

悪を教えてくれるのではなくて、気持ち悪かったりおかしかったり違和感だったりで、悪の支配から自分の意思で脱する人を造るのが目的ではないかと思います。無意識の世界、霊の世界、その世界からくる悪いほうの想念に無防備ではいけないわけですね。これからは。

くだらないことはやめて、すべての宗教のレベル、霊性が上がるとよいなと思います。

事実の正しい正しくない以前にもともと割れる前の三教団全部がそれぞれ方針違う以上、全部間違ってたという逆説的な言い方もできませんか?

しかしまあ、割れる前の”三教団”という矛盾ですよねえ。すでにもともと割れてるじゃないかという感じですよね。