あり得ないほど長くなったので4分割くらいにします。

・主神の存在、善悪と大乗小乗、明主様の表した形から何を求めるのか

浄霊のはじまり、これは、多くの信徒がしっている昭和6年6月15日とか昭和元年とかのお話ではなく、紀元前、太古の浄霊のことです。2000年前というイエスやお釈迦様など最近の事ではありません。そして浄霊ではなく明主様の目的である主神信仰の復活が主でないと意味が分からない話です。

ただ今回から考察する明主様のお言葉は一部に矛盾があるように見えるんですね。意味を知らないと、どうしてそのようにおっしゃったか逆に聞こえたりします。

もちろん神人合一後の言葉も含めればわかるんですけれどね。

ただし大乗信仰が基本じゃないと、あるレベル以上のお言葉は反対に取れますね。

どちらにもとれる言葉は大乗的な信仰が無いと取り違えが起きるように思います。

つまり欲による判断はできないようになっています。

欲とは名誉欲とか所有欲とか恋愛欲、支配欲等のことです。キリスト教の七つの大罪、仏教の三毒五濁。

それで、その前に今回から明主様と書き、前回の文章を消した理由にも、今回の浄霊の話にもつながります。最近の救世教にあきれてまして、書く気もなくなり削除しました。

メシア教をいくら悪くしても、相対的に救世教内部が良くなるわけじゃなく世間からはどちらも悪くうつるのみです。

気づかないといけないのは、救世教とメシア教両方の評判を悪くする。つまりは明主様のお邪魔をする、岡田茂吉個人を陥れ、教団をも共倒れをさせるのが目的の無意識の世界の勢力にのまれていることです。

神様は勝ち続けている御方なので、ただ人間が自滅してしまうだけなのは教えを冷静に見つめるとわかるように思います。

形の上では明主様のためなのか、明主様のもっている財宝が欲しいのかという目線もいるでしょう。

少なくとも、4代教主様は物ではなく明主様の心こそ宝であり財宝としているのは分かると思います。心あっての宝であり、聖地等、宝だけで心がなければそれは意味をなさない。それがさも物質だけで意味があるように説いている、神や人を実はないがしろにしている説き方をしているところもありませんか?

二代様の時も、教団の運営がどうしてもうまくいかなくて、熱海西側の地上天国の模型の土地を手放しています。そして、救世神殿を建立されましたよね。何を大事にされたのか推察できるようなきもします。

最初は東の瑞雲郷と西の瑞泉郷で壮大な水の聖地を御構想だったのかもしれないですよね。
箱根のクオリティを考えると、それくらいは当たり前なのかもしれない。それが今できない。

熱海の東側:瑞雲郷と西側:瑞泉郷 で水の聖地のような構想ではなかったかと推察します。

”現在、熱海の西南、梅園の奥数町の地点に約四万坪の土地を選び、地上天国の模型を造りつつあることは、既に発表した通りであるが、此地を開発するに従い、実に何万年前より神が準備されたという深い仕組が犇々と感ぜらるるのである、それは全体の地形の神秘景勝なる事は、専門家も驚歎する処であって、最近八重葎や潅木茂れる地帯を切拓いた処、それまで音のみ聞えていた渓流が眼前に展開されたのである、そのすばらしさ、奇巌怪石が見渡す限り到る処に畳々としておりその間を縫う幾条ものせせらぎや・鞳たる大小の瀑布あって、さながら深山幽谷に在る如く、杖を曳きつつ石を飛び小橋を渡り行く裡に、時の移るを知らず、熱海近郊に斯の如き幽境ありとは誰か想うべき、土地の人さえ恐らく未だ知らないであろう。昭和二十四年五月三十一日”

熱海の西南という表現がどこを基準にしているのかわからないのですが、

ただ瑞雲郷ではなく、熱海梅園は明治19年開園なので、その奥のことでしょうね。たしか当時の奉仕隊が整備された川とか道とかの跡が残っているそうですね。


それはさておき、明主様は何を表現して聖地にしたのでしょう。

設計はどこからくるのでしょうか?想念言葉の順だとおっしゃいます。想念やインスピレーションは神様からです。神様の世界の何かを表現して、何かを感じさせ思い出させるための聖地。聖地は争いの場でしょうか?私たち聖地で天国思い出せていたでしょうか?

できあがった形、大事ですが、形から入ったり固執すると心はどうでしょうか?形から感じる感動だと浅く、感動のもとを探るヒントになるものですが

そのもとを探らせる、求めるものがないとそれはセレモニーや一種のショーだったり、歴史探訪にしかならないようにも思います。

そういう意味ではないと、それくらいの思いで大事にして初めて意味があると思いますよね。

さて浄霊も手をかざすことに意味があるのか、浄霊の意味は奥があるのか、信仰としたら深く求める必要がありますよね。

だから入ったばかりの人や未信徒にとにかく手をかざしたらよいとしても、ベテラン信徒がそれでは明主様の目的とかなりの乖離が生まれてしまいますよね。

浄霊していたら自然に天国人になる?それだと教団浄化の説明がつきません。

教団浄化の船頭は信徒ですか?役職ある専従者でしょ。

そういう考えの先にあるのは明主様はしんだ、神様はしんだ、俺たちで何とかするんだという世界になります。それでは仏教生まれるより前の夜の時代に逆戻りですよ。

ここにも何か矛盾がありますよね。こういうところも気にしながら徐々に求めていきましょう。


この心を主にしない思想からでは浄霊作用の奥はわからないと思います。主にできない浄化や病気がありますからね。そういう人を指導者にしても、神様を唯物の象徴にしている無信仰者が喜ぶだけです。

これは現実の物質はもちろん、理屈の世界だけではなく、霊的な部分での神と悪魔との戦いです。これに敗れると人は競争を超え闘争になるからです。闘争は所有権の主張による戦争でしょう。

神様を悪魔に仕立てあげ、悪魔を神様に仕立てあげるというとてつもない計画ですね。

これを終わらせる目的の一助になる浄霊、それがそうなっていない争いの歴史の教団ですよね。