悪霊と組織の闇 -ヘイトのたらい回しの暴露
古代からさまざまな宗教で語られてきた「悪霊」の話があります。その作り方を一般企業や教団的な構造も交えて解説してみます。これはブラック企業の構図ですし教団内にあったらここから崩れる部分ですね。無から生じる悪霊というと分かりにくいですね。分かりやすい例でいえば、生霊でしょう。例えば、美人に強く執着していると、その人の想念の一部が相手の周囲にまとわりつく、といった話です。夢に出たり、気にかかったり、目に見えるときもあるようです。もしそれが見えれば、ドッペルゲンガーのように語られることもあるかもしれません。しかし今回は、その程度の話ではありません。不平不満、恨みつらみ、苦痛――そうした負の想念が複数人分束ねられ、積み重ねられ、ぐるぐると循環し続けたとき、何が起きるのか、という話です。本来、ここにきちんと手を打つのが宗教指導者であり、幹部の役割です。それを放置する人は、悪に屈した裏切り者だと言われても仕方がないでしょう。なぜなら、神様の組織を内側から破壊することになるからです。先日書いた「ソーハラ」の話に関連します。例えば、組織には通常、事務局やエリアマネジャーといった「まとめる部署」があり、その下に営業や布教の現場があります。そしてその全体を総括するエリア長(教区長)がいるとします。仮に構造を整理すると、① エリア長(教区長)↓② エリアマネジャー(事務局)↓③ グループ(各エリア・各布教区など)↓④ 営業(支部・支店・布教所・教会など)という順になります。通常、報告は②の事務局に集約されます。では、②で業務が処理しきれなくなった場合、どこに相談すべきでしょうか。本来は①のエリア長です。そこで人員増強や業務整理を行えばよいのですが、昔から陥りがちなのは「仕事を下に下ろす」ことです。下の③や④は、すでに自分たちの業務をこなし、「報告義務」も果たしています。にもかかわらず、本来②が担うべき「まとめの仕事」まで押しつけられる。つまり「二重労働」です。報告と集約を同時に担わせれば、報告が終わった瞬間に集約作業が始まる。結果、仕事は終わりません。浄化者が増えるのも当然です。これはドラマや漫画、小説で描かれるブラック企業の構図と同じです。または悪者が弱者に自分の仕事を企画を考えさせて自分の手柄にする構図とも同じです。できる人が社畜のように働かされる物語は、悪事として描かれています。その世相を風刺しているのは誰でしょうか。神様が示している警告だということを、忘れている宗教家が増えていませんか。このような二重労働で成果を出せるのは、ごく一部の優秀な人だけです。多くは単純作業を組み合わせて「やったふう」に見せるだけになり、業務レベルは年々低下します。気づいたときには手遅れです。そしてそういう組織ほど、成果が下がっていくのを防ぐために今の時代でできる「圧力」が横行しています。さらに問題なのはここです。②エリアマネジャーは、①の後ろ盾を得て、③や④に仕事を下ろす。すると③や④は思います。「なぜ、あなたたちが本来すべき仕事を、こちらが手伝ったうえに文句まで言われなければならないのか」と。ここに重大な点があります。この構図の中に、①エリア長は出てきません。誰が一番得をしているか、分かるはずです。この状態が続くと、やがてあることが始まります。本来向けるべき負の想念の矛先は、エリアマネジャーでも営業でもなく、責任を持つべきエリア長です。それが見えていないと、エリアマネジャー → グループ ↑ ↓ 営 業と、想念がぐるぐる回り続けます。的外れな相手と戦い続けることになるのです。では、その状況を放置し、戦わせているのは誰でしょうか。この 答えの出ない争いを、永久に続けさせているのは誰でしょうか。この状態が慢性化すると、エリアマネジャー → グループ ↑ ↓ ↑ (悪霊) ↓ ↑ 営 業 ↓ という想念の渦の中に、「悪霊」が発生します。それは神でも邪神でもありません。人間の負の想念の集合体です。日本神話や古代信仰を知っていれば理解できるでしょう。これが人に災いをもたらし、「はたれ」の民のような状態を生み出します。そこへ人を誘導する存在を、邪神や悪魔と呼ぶのです。そして、それに魅入られた立場ある人間が、それを拡大させます。この渦の中では、奇妙なルールが正義のようにまかり通り、地獄のような状態になります。想念が神様と違ってしまうのです。悪魔の正義を正しいとなり、バレないように支配をする邪智や奸智が正しく思えてきます。それはすなわち、悪魔に取り込まれた状態。負けが確定した状態です。そもそも責任者が、「回らないのは私の実力不足です。何とか持ちこたえてほしい」と正直に言うのであれば、まだ理解の余地があります。しかし、もっともらしいことを言いながら、何か月経っても改善がなされない。放置するという、不誠実な態度を続ける人がいます。誰が得をしているでしょうか。訴えられもせず、時間だけが過ぎれば、組織上は「問題なし」になります。必死で営業やグループが耐えているのに、「問題は存在しない」ことにされるのです。文句言われても、そこで話がついた風にすれば隠蔽できるのです。痛くもかゆくもない。逆に報復されるかもしれないから誰も言えないということはあるでしょう。目に見えるパワハラより、よほど卑怯です。もしこういう人がいたらおぞましく感じるでしょう。 怒られないよう、立場を守るよう、従っているふりをする人です。今最後に残っている悪は嘘です。体的な暴力を使わずに暴力を行う。きっとそういう人は一部ではそう言われていると思います。そういう人についていく私たちにも責任があります。信仰であれば、ついていくのはその人ではなく、神様や教主様のはずです。放置すれば、その人はいずれどこかで裁かれるでしょう。そして思考停止し、「これでいい」と迎合していれば、自分もまた共に裁かれます。原因をそこに求めないから、「なぜ恵まれないのか」と嘆くのです。霊層界は上がるでしょうか。むしろマイナスになり、縁を切られかねない。そんなことにも気づかず、悪と戦えるでしょうか。立場至上主義の人は、自らを恥じるべきです。だからこそ、気をつけたい。こうした人々に翻弄されてきた側面が、明主様信仰にはあるのではないでしょうか。もう少し気づかなければ、皆が共倒れになるのではないか――私はそう思います。