信仰なのに人が動かない原因―人のお尻をたたくの前に、自分の反逆精神をなおせ――
このテーマは、何度かお題を変えて、いろんな角度から説かないと理解が難しいかもしれません。分からない人は、自分に「ドンピシャ」でないと理解できません。つまり主観だけ、自分の解釈だけで物事を見てしまうからです。だからこそ、明主様は客観性を育てることを大事にしています。分かっている人から見れば、実にしょうもない話でもあります。しかし、お言葉もプロジェクト初期、こうした内容もおときになっています。この「しょうもない話」は、自分で学ぶべきことであり、教主様のような真理を説く方から、いちいち学ぶものではありません。あるいは、親や上司や先輩に叱られながら学ぶべきことです。なぜなら、「それは違う」「そっちじゃない」と言われて初めて気づくからです。物事は正しいやり方ではなく、間違いを指摘される中で学びます。そもそも正しいやり方を学んでも勘違いや間違いは起きますからね。指摘から学ばない、改善案が出せないようではずっと同じレベルにいます。いろいろな仕事を覚えても精神的に変わりません。優しく言われて、すっと理解できる人は、すでにかなり分かっている人です。だからこそ、専従でも一般の仕事でも、「入社1年目」がとても大切です。その時期に注意するのをひよったり、重要なことを話している人の邪魔をする上司もいますが、それでは新入社員のほうが困ります。邪魔するのは上司だけですよ。そういうの下からは止めれないでしょ?そうすると、新入社員は何に困っているのかすら分からず、人に迷惑をかけても何が悪いのかもわからず、ただただ困るのです。・責任と管理の問題原因の多くは、「自分の発言に責任を持たない管理者」にあります。組織が正常な場合は、各地域の管理職になりますね。管理職…教区長とか布教区長とか、エリア長とか所長とかそういう複数人を束ねる人たちです。末端に原因があることは、ほとんどありません。信徒数が多ければ多いほど、下に原因を求めるのは間違いです。本来、上も下もないのですが、そこを理解できない人もいます。組織上の上下関係はありますが、「人権上の人としての上下関係」はありません。しかし中には、その真理を壊して「上に立ちたい」と思う人がいます。教団では、そのような姿勢を嫌います。 ヴィーガン的な考えを進めると、自然とその方向になります。つまり支配的な行動はしないということです。・忘れてはならないのは「相手は信徒」であるということこれを理解していない人が意外と多いのです。相手は信徒です。セミナーに来たお客さんじゃない。その人たちが動かないのはだれの未熟さですか?そこを謝罪させると、指示の仕方が間違ってたとか、やり方を謝罪する人がいたようですが、結局支配精神から抜け出せないからその程度になるのでしょうね。自分自身が人の可能性を信じず、人の話を聞かず、共感性もなく非常に失礼な態度をとり続けていることに気づけない。私でも採用されたとか、自分を肯定する話ばかりするけれど、それは裏を返せば言うことを聞かないお前たちが悪いと否定になる。肯定は否定と表裏一体。これはそこまで考えていなくても言霊が響くから不快に感じるわけです。霊界を信じていると、言葉も変わります。でも物腰だけまねても、思想は隠せないんですね。まねても言葉だけが正されて、霊の響きになりませんので言霊が働きませんね。正しい信仰であればあるほど隠せなく見え空くのですが、見えていないのは自分だけだったりします。こういうのは普通、 30代・40代の方は、苦労や結婚、夫婦の協力、子育てなどを通して学ぶことがあります。 つまり、「自分以外の人の状況を理解できるようになる」わけです。視野が広くなる。一人で生活しているとやっぱり視野が狭くなりやすいのです。逃げ場なく、他人と四六時中一緒に居るというのはそれだけで、喜びであるけれど、やしないでもあるのです。ただ幼児性がひどくなると視野が狭い人は「自分の望みが叶うかどうか」しか見ていません。これを幼児性といいます。精神年齢が中学生未満のまま止まっている人がいるのです。子供が大人のふりをしても「イエスマン」であれば、ある程度までは上に行けます。しかし、いずれそこで躓きます。どう躓くかは上に書いた例も一つですね。・「熱く伝える」と「圧をかける」は違う最近は暴力的な手段が取れない分、どことも布教の「伝え方」を変えてきています。もちろん、ヴィーガン的な発想に立てば、「圧」はかけません。「訴える」「伝える」という行為も、 相手が理解するまで待たなければ、結局は「精神的な暴力」と同じです。理解している人が伝えるのではなく、同じことを延々と言い続けて「訴える」。 相手を怖がらせて布教する――これは間違ったやり方です。パワハラとして訴えられるギリギリのところを狙うような人もいます。その時点でパワハラですけどね。今、問題になっているのは、単なる暴力ではありません。 「人の自由を奪う精神的操作」そのものが問題なのです。・現代の変化と人間関係の課題人を尊重してこなかった人は、もう話も通じず、相手にされない時代になっています。特に若い世代には訴えれません。 10代・20代はすでに空気感として「昼の時代」を生きていますが、30になっても40になっても、100歳の方の時代を相手にしている感覚で物事を進めている人もいます。本当に、あらゆる「暴力的なもの」を捨てなければなりません。そして人に依存する甘えも捨てなければなりません。という方向に行くと思うんですけどね。そこに答えを求めずに要求しているように見える人もあります。・無視と制限という“見えない暴力”無視や制限もしてはいけません。 そうした人たちは、 自分で指示したい欲だけは強く、でも その指示が中途半端・稚拙です。しかも自分の指示を忘れてしまう。「自分で決める」と言いながら、実際には決めない――忘れてて放置になってるとしたら、これは意見にふたをして閉じ込めていることになります。これは、他人を檻に閉じ込めるのと同じです。そうやって人を束縛して運営してもうまくはいきません。人を地獄に落として自分だけが幸せになるなら、そんな信仰はいりません。結果として、信徒は「せっつかれないと何もしない」ようになります。自宅ではプライベートでは自由に力を発揮できても、教会に来ると閉じ込められ、動けない。 それでいて、要求だけされるのです。それぞれが強みを奪われて要求される。なんの拷問かわからないのです。これはある意味、「爆発的発展をさせない」手法でもあります。小さくは発展しますし、やっているアピールはできます。 つまり、悪魔の方法論です。カルト的には「成功」とされるでしょう。追い詰められた悪は逃げ道として大きく成功できるところで小さな成功をさせて、それを大きな成功に偽装します。実際は大きく成功するにはそれなりの知識経験技術がいるけれど、できないからできる人を押さえつけて、自分ができる小成功を演出するということもあります。これは多くは自分の立場を守るため、自分以上の人の能力をつぶすために使われたりします。悪の手口は巧妙です。暴力的なものは低級な悪ですからね。高級な悪は善を装う。善の中にいる。上にいるかもですよね。だって下に居たらつぶせないからね。そうすると良い教えを聞いているのに、言葉は使うのに、やっていることがカルト―― そんな矛盾が現れます。・支配精神と「夜の心」本当に良くするには、人が動かないと嘆く前に、自分の中の「支配精神」――つまり「夜の心」に気づく必要があります。悪や夜の一例である 毒親が自分の虐待を自覚しないように。毒親は、よりひどい事例を引き合いに出して、「自分は暴力を振るっていない」「食べさせている」と言うでしょう。しかしそれでも、精神的な虐待をしていないわけではないのです。今は、精神的虐待にも厳しく目が向けられるようになってきています。水晶世界ですからね。10代・20代はそれにとても敏感ですし、その親世代も理解しています。だからこそ、独身の人などは特に意識を高く持たないと、 「分かっているつもり」で、実は子供のままということがあります。しかも40歳の「子供」とは、今の時代の子供ではなく、 40歳なら「30年前の子供」という意味です。 今の子供の価値観とは、まったく違うのです。浦島太郎になっているわけですね。・終わりに人を動かしたいなら、まず自分の中の「支配したい心」「反逆心」を見つめ、整えることです。尊敬される事、この人のためならばと思えるかどうか、教主様の威をかりて、相手を変えようとする前に、自分の在り方を変える。それが「昼の時代」における、本当のリーダーシップであり、信仰の姿だと思います。