発展しない理由の一つはクレーム対応をしないからというのもありますよね。
そうしないとひとり頑張ることになります。
発展しない理由や原因は本質的には少ないのですが、その本質ができてないがゆえに無数の問題を抱えることになります。明主様のおっしゃる「常識」を実践しきることなのだと思いますね。これは思いうかぶ誰かではないですね。
今回はその理由の一つです。
この理由一つ一つを見つめていくと、信仰というところに来ると思いますが、結果の現れた側を対処するなかで、原因に気づけないとずっと続きます。
そして今回のクレーム対応の良しあしで
顧客定着率がかわってしまう、要するに信仰でいえば行事参加率、参拝率などですね。
呼びかけではなく、来た人の今後の行動に関係がある。
口コミが広がらないので爆発的発展にはならない。
口コミを呼びかけたり、このように伝えてくださいとしたところで想定ほど広がりはしない。言わされてる感がすごいですね。まずは指示した人のカルト化を調べるし、疑いようがなくなると教団自体をカルトとして見られてしまう。
カルト化と独りよがりは似たところにあるでしょう。
最初の指示のところではカルトではなくても途中からこなすためにカルト化するときもある。
つまりお導きでいうと入信まで頑張ってその後のお世話ができてない
これは比較的耳にはいる話ではありますが、
悪い人にわかりやすく書くと、人に要求しておきながら、自分は相手の要求には答えない。つまり対話になっていない。
そして現場ではクレーム対応は必須ですよね。
良い報告をもし上に求められたとしても、その対応ができなければ本当の良い報告がそもそも生まれない。新規の人ばかりの話になってしまう。
入信までのお世話ですからね。
入信してからの悔い改めの話なぞ出てこないでしょう。伝える側が悔い改めを放棄してるからクレーム対応に無関心なんだからね。
もしあるテーマで良い話が出てないことをつつかれると、この出てこない根本の対応の改善ではなく、だれか悔い改めの報告ができるような報告を持ってないか探すことになるが、こういうやり過ごす対応だと結局なにも変わらない。
停滞するような思考だと、次は要求するんですね。比較したりレッテル張ったり、徳で治めれないから圧のみをかける。発破や方向性ではないやつですね。
天才といわれる人、良く気づくといわれる人は”必要な”細かいことに気づくし、一手先を見据えているので、今の報告ではなく、そういう流れが起きるよう手を打っている。
打たないで打った人のまねをする人は数カ月数年遅れで、そういう人の今の結果だけほしい。形だけ張りぼての取り組みをしがちですね。流れには手を打てない。
こういうのは多動傾向のある人がやってしまう罠でもある。
ADHDの性質はADHDの方が語ってくれているのですけれど、二手三手と手順を踏むと大きな成果がると分かっていても、成果がほとんどでなくても、一手でできる事、安易に結論が出る方法をどうしてもとってしまう。その欲求にあらがえないそうです。
二手三手で10成果でても一手で1成果出るものに手を出す。
この方は話せる以上ある意味克服しているわけです。弱点に気づくことが克服ですね。
気づいていないと何をするかというと、なかったことにして話を進めたり、極く悪いのは準備段取りする人をけなしたりします。酸っぱいブドウの狐的な動きまでくると、信仰的には悪ですね。そうならないようにするのが信仰なので、そうなる人が指導者だと大変なことです。
こういう場合周りがサポートしたり止めないといけないが、こういう人が管理職、つまる上のほうの役職となり、止める権限のある人が近くにいないことで無意識の暴走となりじわじわとそのグループをむしばむこともあります。
無意識というか欲求のままなので報告にもなりません。
無知でもこういうことは起きるが、結局無知だと「私の考え方」にあるような思慮深い行動はできないということがわかります。信仰実践というならどうあるべきか。
はやまった行動は布教師ではないのでしょう?
・実際のクレーム対応
私だと一般的に言われるクレーム対応しても実際にすると真のクレームはごく少ないと思います。クレームは数多くあるが、精査するとただの率直な意見や、説明不足によるもの、こちらのうっかりミス、また人それぞれの癖や個性によるものが多い。
ただのわがままは結構少ないように思います。
しかし、本当の悪意とわがままと幼稚なものもありますね。そういうのはクレーム対応とは違う対応がいるが、ここではこの話は省きます。
まずいのは、クレームに間違える、当たり前の疑問や良い改善案に対して、自分の要求する結果だけ求める良い報告だけ求める現場だと、無視したり蔑ろにしたり軽視して、結果相手を侮辱し貶すことになっています。
幼児性とも関係がありますが、問題を真正面に据えて話はできないのです。横に置く目線を変えるなどして、そこに触れない触れたくない、触れようとしたら言い訳するなどいろいろありますが、そういうことをすると大人は引いてしまうし、関わりたくないですね。
信仰だと神様がいるのでたちが悪く、その人がおかしいのは分かっても神様の修行だろうかとか、神様にばちをあてられやしないかと我慢することになり、問題が長期間隠蔽されるということもあります。
もちろん、その中で御用意欲は無くなりますから、ほかの行事へも問題は波及していきます。あまりに被害者が達観すると、出ている行事は表面上熱心に神様のもとするけれど、ということが起きますが、結局問題はその管理者からは見えなくなっていきます。
そこまで距離が離れても、神様のもとなのでなんとかなったりしますが、もちろん大発展には繋がらないのですね。何年たっても独り相撲を取っていると思いますよ。
ただ、この部分は信仰というよりは、パーソナリティ障害や神経発達症の範囲なので、そのことをまず認識する必要があります。
我慢しているほうも人ですから、ある日突然限界がきて去ったり、キレたりしますが、当の本人はまったく身に覚えがないようにふるまいますので、こちらが悪者にされます。事実を突きつけても認めません。自分の感覚にないものは認めず逆に攻撃をしてきたりします。
事実を証拠を突きつけても、謝ったほうが利があると思うまで認めないですね。
そもそも私は悪くないを強く言うことは、相対的にお前が悪いとなるということが分からないのですね。攻撃してる自覚もないのです。
これがクレームいう人全員に起きると思うと怖いことです。ひどいのはこうですが、圧をかけたりご説明をしたり説き伏せたりねじ伏せたりになり共感や対話や相互理解にはならないですね。
なぜなら、そういう人は例えば相手を怒らせても
”相手を怒らせてしまった”
という感覚がおぞましいほどになく、
(私は悪くないのに)
”相手が怒ってきやがった”
という場合もあり、これが残念なことに結構見かけたりします。
これはあくまで自分の主観のみの感覚しか持ち合わせていないからです。
これは事実そういう病気もあります。成人してこれはただの子供です。でも30でも40になっても、しかも管理職でもこういう人いますよね。成果だけでみる評価方法に本当限界を感じますよね。
またよくあるのは要求をして受け入れなかったときに
いうことを聞きやがらなかったと短絡に考える人もいます。
このことに知識としても認めていると、だいぶん違うのですけどね。
いつも書くように誰もが何かしらの神経発達です。癖がありますからね。普通というなら癖がない人間になります。私だってそうです。知ることでそれを補って普通なようにしているだけですが、気づくことを放棄しているようだとそれはただの子供ですよね。それは60だろうと70だろうと子供ですよ。
人間だれしも得意不得意はあるのですが、不得意を認めない、非を認めないがとても問題なのです。別に人に影響を与える立場でなければ些細なことかもしれませんけどね。
こういうのが理解して、現場で当たり前に対応がなされたうえでの信仰実践だと思われます。
それは現場を任されている人間が下座の行のもとなされることなのだろうなと思われます。
パーソナリティ障害は謝れない下座の行が難しい事からも分かります。
でもただ謝ったらいいのではありません。何に謝ってるかわかりますか?と質問されて答えれますか?普通は答えられるのです。答えられない、怒ってるから謝ってるというのであれば心の成長の問題もあるわけです。
私はそう考えて修養するなかで、浄化の中で気づかせていただいたり、ある不思議なこともあり分からせていただいたりもしました。信仰でそのことを意識して実践するときっと分かってきます。分からないことも知識としていることができます。
いくら配布して入信つくってもここの実践ができてないと続かないですよね。人を増やすだけなら管理者業務は放棄していることになっちゃうでしょう?
そしてまた、問題を突きつけるとノイローゼになったり、時には命の危険にも及ぶ場合もあるそうなので、こちらが悪くなくても後味が悪いので距離置くしかないのですよね。現代では顧客定着率とかでしか察せれないですよね。
