◆浄霊の偉力と霊主体従

浄霊はどこに向かうためのものでしょうか?教団としてそれは成し遂げられたことがあったでしょうか?

浄霊が本当にできていたら今回の教団浄化のようにはならないのではないか?だから今の浄霊法とその目的に結果的になにかおかしな点があることになるかなと思ったりします。

なぜこんなことが起きるのだろう、神がやぶれるのか?と思う人もいるでしょうけれど、それは自分の都合で見た場合ですよね。

実は神様は常に勝っています。人間の短期的な勝ち負けではなく、ある目的に向かってずっと勝ち続けているのですよね。

それは、私たちは勝手にお気づけとかお試しといって自分を悔い改めて明主様が最初に示している目的に近づくと自然に解消されたりしますよね。

ちなみに最も大きい試練は怒りをおさえることともおっしゃっていますね。

つまりは神様から離れて、いろいろした結果なだけでなのが分かってきますよね。
これは別に宗教に限らず、その片鱗を見つけた人たちが訴えてはいますよね。ひきよせの法則とか、全自動の法則とか、本来の歴史と意味とかいろいろですね。

また全体的に善が負けてたら人類は滅びているわけですよね。

神様の目的と、人間の善性と一致できれば良いようにも思います。そのためにいろいろな祈りとか自然食とか浄霊作用があるようですが、そこだけにとらわれてその先というか、そういう取り組みから信仰の向こう岸にわたらないようだと堂々巡りになりそうです。

主神は人間には神様につくのか、悪魔につくのかの選択権を与えていますし、可能な限り救いたいけれど、ロボットにしたいわけではないのですね。

自分で正しいほうを選ぶというのは課せられているようです。だから浄霊していたら自然に選ぶということは難しいかもしれません。

そして、神様は信仰者や世界人口の多い少ないはあまり問題ではなく、本当言えば滅亡レベルで人がいなくなっても経綸が滞ったりしないのです。そうお説きなんですよ?どちらかというと正しい人間の邪魔の方がこまるわけです。ノアの洪水とかで知らせているでしょう。

神様にとって1000年2000年は長くないわけです。

それより神様の名のもとに間違ったことをすることのほうが危ないわけですね。

また選ばないと勝手に終わるわけです。その自覚もなくなるんですね。むしろ本当に間違っている人は俺は正しいと思ってくれていたほうが良いくらいなようです。

間違いを正しいと思っている間は負の想念が緩和されますからね。それくらい想念の世界のデリケートさを明主様は説いています。

でも、主神は可能な限り救いたい、現世でも救いたいというお考えなようですが、あまりにズレるとそうもゆかないそうです。

結局は人間として最低限、得るべき思想があるわけですね。いくら正義を唱えて裁判とか、また個人間の喧嘩で勝っても、人間の世界で勝ち負けを決めても、肝心な人としての格が堕ちているようでは意味はなく、人間の世界での評価ではない神様の評価があがらないと意味がありません。金持ちほど霊的に低かったりするというのは例えであったでしょう。金持ちが悪いのではなく、現実世界での評価と神様との評価のずれを言っているのですね。
社会に多くを還元しているお金持ちのことではありません。

ちなみに明主様のお言葉を方法論にした信仰、つまりは宗教型無神論からだと、わけわからないでしょうけれど、明主様信仰から言えば理屈ではなく神様との交流ができてない人に指導権はないと思いますよ。その現実世界と霊的世界からのメッセージがあると思えないようだとそれは明主様の信仰にはならないんですよ。

霊的世界が分からないからと、それは置いておいて理屈を整理すると、それはもう違う教えなんですよ。でもね、分からない人はこれこそが信仰、どうだ分かりやすくまとめれたじゃないか、今までの奴らは間違ってるみたいに、肝心のというか神様のエネルギーの99パーセントである霊を無視して説いていたりします。

それは自分がわからない事、ばかりでなく、自分以外の他者にすら共感性が乏しいからです。見えていること、書いていること、自分に起きた都合の良い奇跡のようなことしか信じていない。

こういう考えで指導すると支配と従属とが色濃くなるでしょう?
結局そういう指導者の顔色を窺っているだけになります。

また理屈で説くと戒律になり、理屈上は寸毫もミスが許されないし、救われないような思いをもって人を裁くなんてことも起こりえますよ。この感覚はわからないほうが幸せです(笑)

霊や神様の存在、神様のメッセージ、ここを否定すると、実は心の中では明主様自体を馬鹿にしています。神様なんて信じていないわけですから、だから地上にいないとして亡くなった過去の人として明主様の持ち物を好きにできる理屈になります。

こういう状態で霊的世界の力、霊の力、神様の光を放射するという浄霊作用の理解が深まるわけがないでしょう。現れた現象の追及をした結果、科学で証明できない明主様のお言葉を否定するか封印するようなことになりかねないだけです。

明主様を主神の代行者とするなら、理解できない文言も、これはまだ分かってないだけで本当なんだとするのが信仰でしょう。

「私は信じられない」というのは自由ですが、教えを明主様を否定するようになってはいけないですよね。

神様どころか傍で見守っている自分の先祖の願いすら受け止めれない人いますよね。また受け取っている人をないがしろにして自滅している人も居ますよね。

先祖どころか一家の主人としたら、奥さんの思い、子供の自由をないがしろにしている人もいますよね。

結局そういう人は自分だけなのです。

こういうのを明主様の文言の引用で騙されてはいけませんね。

そういう人のする儀礼はいくら明主様のお言葉を使ってそれっぽく話したところで、形だけのものです。運営手段とか心の慰め、お金をもらうセレモニーや芸のひとつと思っているに過ぎない。表立って言わなくても心がそうなので、時々にそういう発言や行動をしていると思いますよ。

理屈を主にしてると、体主霊従で悪の働きになり、霊の方を主に考えていくと霊主体従で結果的な善の働きになりますが、実はこの霊の肝心な部分を説かないようにして、体的よりな都合の良い霊作用ばかりを説いて、現当利益を中心にすると霊主体従と勘違いさせて体主霊従にできると思います。

現当利益があるのは霊界の曇りが解消されるからで、現当利益を求めるのではなく、自然与えられる、与えられないとしたら霊的に問題があるということで、そこをごまかす信仰ありますよね。この霊的は世間と相いれない部分があるので、その点はデリケートですよね。
間違いやすいところでもありますよね。

このあたりも理解すると手をかざす浄霊でも威力が違ったりします。浄霊は信仰の深いところが分かると偉力が増すからですね。

想念で浄霊できたりできない人の差でもあるし、

霊は自由で力がある。ちょっと理解するだけでも世界が変わる。
霊を無視した理屈はただそのルールを行うためのゲームでしかない。できたことに満足しているがどんどん霊は地獄に落ちてしまう。信仰地獄。