教祖の教えを「解釈してはいけない」について簡単に考察してみたいと思います。

教祖はご自分の説かれたことに対して、解釈はいけないといっている。指導者は私一人だと言っている。言葉の奥を知る必要がある。


という主張はよく聞きます。


ただ、解釈はいけないっていう、そのものの言葉を私は見つけれないのですけどね。

ただ、これらを肯定してもですね。「奥の深さ」を説いているということは、教祖の話は容易に「理解」ができないということです。

奥を知るとは理解することです。解釈とはまた違う意味です。

教祖は

”智慧証覚の進んだ人なら私の言葉の奥もわかるはずです。そこまで行ってない人には言葉通りしかわからず、「ボンクラ」は言葉の半分くらい、もっと「ボンクラ」なら三分の一や五分の一くらいしかわからない。だから言葉の奥までわかるようになることが必要なんです。S23.12.18”

要するに「理解を深める」ことは大事です。

またね、理解が足りない、浅いという真理に向かう中での未熟さは許されると思いますが、誤解したり曲解するのはいけないと思います。

ここなんですよね。曲解を指摘されたときに、解釈するなと言っている!といって実は自分の受け止めを強要する人がいたんじゃないかという話ですね。

そもそも分裂前の救世教では教主にしか理解の方向を決める権限はなかったようです。
なので教主に向かって一職員が自己の解釈を通すというのは普通あり得ないわけです。

そしてまた、言葉は平易になるよう心血を注がれた教祖ですが、中身はとても難しいことをおっしゃっています。

”これは誰も気が付かない事と思うが、恐らく私の文章位難かしいものはあるまい。先ず文字が出来て以来例がないであろう。というのは私の説たるや、古往今来未だ嘗て何人も唱えた事のない神秘極まるものであって、今まで長い間人類が仰ぎ敬い、尊崇の中心となっていた釈迦、キリストの二大聖者をはじめ、凡ゆる偉人、賢哲の遺されている業績を解剖し批判し、その聖典までも思い切って大胆率直に論評したものであるから、読む者をして余りの超意外な説に、理解処か寧ろ反感を起す位であろう。という訳で私としてもこの点を充分考慮し出来るだけ誤解を避け、何人にも理解出来得るよう説いたつもりである。s28.12.9”

ただ、誤解を受けやすいのが
難解なものほど真理から遠ざかっているという言葉もありますね。これは嘘をホントのように肉付けして理屈づけてるからわからないと言っているので別の話なのですが、それをごっちゃにしてるからそうなりますね。

真理もやっぱり難しいわけです。ただ難しいの質が違っていますけどね。生活に根差していたので実践するなかで出来てくるのだと思いますが、長年真理から遠ざかっているから行いにくいわけです。

そもそも教祖はメシア降誕後の最晩年に
”現在の教団にも真の信者は一人もないs29.7.11”と側近におっしゃっています。




またついでにですが、これらとは別に理解が足りないところや浅いところで信徒や自分以外を留めるような布教は、これはたぶん思っている以上に重い罪を構成しそうに思うんですね。

向上心を奪う方向であきらめを説く方向で制限を加える。これは優しいようで親切なようでいて、信仰ではないのは知っているはずだと思います。

これドラマでもゲームでもセットでしょ?
破壊的な悪と思想的な悪のテンプレートみたいなものです。あきらめを説くのは思想悪のほうですね。


ちなみに、この教えの理解を深めさせないようにする方法は簡単です。

一番は誰かを悪者にして悪口を言わせることです。

不平不満や愚痴を言わせて霊層界を下げてやればいいのです。

 

 

または、これくらいでいいじゃないとあきらめを説いて、できれば頑張っている人を斜に見させることです。

努力の上限はそれぞれの自由です。


それが通じないなら、

神様を調べないことです。

神様を調べさせないことですね。

神秘に到達させず、目の前の問題や欲に目を向けさせて、唯物科学の世界で完結させることです。宗教で言えば道徳や教え、祈れくすれ、方法の世界レベルで留まればこれは唯心までいかないと思います。


本当に至れば唯物科学もどこからきて表れたものか分かると思います。

神様が分かって人が救えるのか。という言葉、旧主之光なら人によっては良く聞いたと思います。それくらい主神を否定していましたね。徹底して調べさせないようにしていました。

でも逆に調べてたり理解している先生のところに理屈につかない御守護があったりしてね。

また別に主神と交流する人が自分の解釈より奥に進もうとする人間に対して、嫉妬してとか、普通なら喜ぶところを嫌な感じがして、主神を調べるのを止めさせようとする作用もあったようにも思います。

これがひとつの邪神へのスキですよね。信徒はまして専従者なら特に他人の向上の手助けはしても制限を与えてはいけないのです。信仰はね。負けを認めるのが大事なのでね。認めれない人は今のレベルから永久に動かないですからね。動いている人がどんどん追い抜いていきます。

動くというのは体ではなく霊、心ですね。それを伴った体じゃなければいくら導いても御用してもその場で足踏みしている状態ではないかと思っています。それくらいシビアに考えていいんじゃないかと思います。


これを言い換えれば、この間書いたエネルギーの話なんですね。自分のエネルギーが主神をお出しするのに足りなくなります。本当は与えられるのに不十分にされちゃってというかしちゃって、邪神に負けちゃうっていうことが起きるのではと思っています。


ですが、いろいろな封印がメシア教の教主様によって解かれましたね。そもそもご出座の当初から主神とおっしゃっていますね。

ご存じじゃないと大変問題なことが一つあります。
日の系統の新興宗教 これはメシア教も含みますが、また夜の時代は時期至るまでひそやかにしていた秘儀を伝える宗教の共通目的はおそらく

「大元の神様の存在を表に示す」

ことだと思います。
つまり創造神です。総ての神様、それぞれ担当や中途の支配神ではなく、それらの神様の親であり、人間の親でもあるかたですね。これは造物主とは違います。

宗教宗派によって御名はそれぞれ違っていたりしますが、メシア教で言えば主神(エホバ)ですね。

キリスト教でもエホバ、日本で言えばアメノミナカヌシ大神、イスラム教でのアラー等です。名前は違えど同じ神様ともお説きです。

つまり主神の存在をぼかすような方向に向かう教えは教祖の教えではないと思われます。


今回分裂が起きましたが

その理由をどこに置くかでも分かります。

利己的な目的を達成するために行動したなら、それは神様を調べさせない側です。これは所属ではなく、その人が!なのです。もちろんそういう人が選びやすい都合が良い集まりというのはあるかもしれませんが、たとえ正しい宗教に属していても、肝心の自分の想念が止める側ではいけないわけですよね。

具体的なのは、個人的な恨み、例えば教主様個人への恨みとかね。この先生への怨みとかね。もしくは出すのが都合が悪いなら、その人は勝手に出さないところに行って関わらなければいいのに、どうしても難癖をつけたいとかね。

こういうのは全部アウトだと思います。
小さくとらえれば確かにそれぞれに言い分があると思いますが、宗教家の目的は大乗的に神様を証明することですね。ここが止まるようなら意味が無いわけです。

相手を止めるより、自分が神様を伝えるのが重要でしょう?

どうしても最低限、人間が神様に祈るということがあって初めて神様は人間にお答えになると思います。人を相手にして罵り合っていても、その想念は神様に向かっていないのではないかと思います。

誹謗中傷しても意味ないし、誹謗中傷されていじめられている側がそれを通して信仰で神様に求めていたら相手のほうが実は雲の上の存在になっていてということもありますよね。

そうすると、正面切ってやりあわなくても勝てないし、負けないということもあるんですよね。運勢そのもの、霊層界にレベル差があると肝心なことで勝てないんじゃないかなと思います。

最後の審判がなければ勝てないで終わるけれど、実際に審判がくだされるといきなりことが動いて邪魔できなくなったりとかもあるんですよね。