主神と五六七大神の違い、最後の御神体は五六七大神ではないことについて
4代教主様により五六七大神様から大光明に改められた時、題名のような話題が上がりましたね。「五六七大神様が最後のご神体と聞いた」残念ながら私のほうでは「御神体」という表現では見つけられませんでした。ただ御神体というか礼拝ということについて、教祖の記録から、形としては2つ示されています。ひとつは「御神影」つまり教祖のお写真です。最初から教祖が目的をもって撮らせデザインされた写真です。なぜか他教の方が、お写真をいじってはいけないとかいじると利益がなくなるとか、言われているのはこのためでしょう。ちなみに修正しない方針で世界メシア教はフィルムから作成しなおしています。もう一つは「天津金木」です。教祖が地上天国の予言と説いている代物です。すべての宗教がなくなってこれを拝むとあります。そして天津金木をモチーフにしたのが教祖デザインの教団マークです。御神影と天津金木が教祖が示した御神体になりますね。これは同時期に変わるのかはわかりません。また天津金木のエピソードを追うといろいろ見方が変わることがありますね。天津金木を拝むなら人類全体の霊覚が上がっていないといけないことになりそうなんですけどね。そしてその後、代々の教主様が示したのは「大光明(または大光明真神)」です。言霊的な世界でも「大光明」の三文字は根源を表す意味があるらしく、主神の意味があるように思います。大というのは主神ですし、光、光明もそうですね。主神の光とも読めます。また教祖は晩年数字的には567から369になるともおおせですので五文字の五六七大神から三文字の大光明に変わってるのも意味があるのでしょうか。そうなると「大光明」 「教団マーク」 「本来の御神影」 が重要になってきますね。五六七大神については最後にこうなるとあったり、次にこうなるとはありますが最後の「御神体」という表現は見つけられませんでした。私で確認できたのは護持委員会の機関紙「真善美1993.7月号」の信徒の感想でした。信徒が感想で述べるということは教団内か専従者かが言っていたのかもしれないですね。ただ教祖は亡くなられる際に、説くべきことは全て説いたと言われましたが、五六七大神の御神体を書き残していない事。またミロクではなくメシアを用いたこと。それを受けての2代様は教祖からの霊示によって「大光明真神」の御神体を書かれたこと。今の母体となっている世界救世教も世界メシア教も「大光明真神」の御神体への礼拝で御守護をいただいてきた人が多いでしょうから大光明真神の意義に関しては事実が語っていますよね。そして箱根光明神殿完成のおりに三代様が「大光明」を光明神殿のご神体と定めたこと。これも大切なご事績になると思われます。ただ主之光教団では長年まことしやかに五六七は最後の御神体ということや、縦書きの五六七の御書が見つかったという事実が、五六七大神の御書が存在したに一部で変わっていっていましたので、当時訂正しなかったのは都合がよかったからかもしれないですね。※五六七大神の御書は実在せず、実際は「五六七」と「大神」を合成したものです。『今でも「五六七大神」の御神体を奉斎していいのは主之光教団である「世界メシア教だけ」ですよね?』これはいろいろ文章書いてたらふと思ったんですよね。公式でもプリントなどがありますが、五六七大神様の御神体は必要な理由があり主之光教団で「五六七」の書と「大神」…ameblo.jp教祖のお言葉には”伊都能売(いづのめ)大神のことは昔は言えなかった。いい加減にボカしてあったんです。天照皇大神は太陽神で、位は上だがお働きは限られる。伊都能売大神は火と水で、仏界では観音様になる。これに土のお働きが加わって弥勒(みろく)になるのです。天照皇大神は一つの力であり、伊都能売大神は二つ、弥勒(みろく)大神は三つの御力となり、これが三位一体で完全になる。1951年代”というお言葉があります。ちなみに時期によってみろくおおかみ様の表記は五六七大神、日月地大神、弥勒大神と結構ばらけていますが同じです。また五六七大神については”観音様は菩薩から出世するのではなく、一時菩薩の位に衆生済度のため下げられたから、元の上の位にお戻りになるのであって、一段上の位が光明如来それから五六七大神になられる。”とあります。ちょっと前置きがいるのですが、また教祖は他教に触れるのを推奨してましたが、その理由はおそらく正しい信仰には共通点があるからです。この中心の一点、善性という点では同じだと思います。ただ時期や地域性や目的やゴールがまだ不明瞭だったり明示されてなかったりの差はあると思います。それでも、本当に信仰に神聖なものを求めていたなら、いろいろな信仰に触れて学んでも邪教に迷うということはないと思われます。それで移籍をしてもその人の使命とその人のレベルにふさわしいところに行くだけだと思います。もちろん利害とか都合という欲を中心に信仰してたらカルトやカルト的指導者に引っかかりますけどね。世界救世教だろうと世界メシア教だろうと個人単位ではカルトはあると思いますよ?どこにだって変な人はいます。正しい人が集まるのと同時に正しくなろうとする人も集まるのですからね。教祖は経綸的になのかわかりませんが、メシア教には天国建設の御用を具体的に示していかれました。半面、学問的、歴史的なものは最小限であまり提示されなかったように思います。その一つは言霊学や神霊学ですね。宇宙と地球と霊界の成り立ちなど書くと言って神様に止められて書かれなかった教えと思われます。教祖も興味本位のお話をしてくださろうとしていましたが、結局は神様に許されなかったということがあります。おそらく、それはほかである程度解いてあるからだと思われます。ここで説くと目的がズレるというのも推察します。ただ急所はおっしゃっていて歴史を調べても教祖しか言っていないことがあったりします。なぜこのような前置きがというと教祖のおっしゃる話と整合性が取れそうなものがあります。ただ表現が違ったり不十分だったりパズルみたいになっています。教祖はそれを本当に簡単に言葉としてはわかりやすく書いてあったりするんです。全体をうまく言い表していてなおかつ教祖しか言っていないこともあるようです。逆に簡単に書いてあるそれを利用して変な肉付けをして詳細を偽る人もいたように思います。ちなみに細かく全容を知ろうとすると他教を通して主神が説いた知識も必要です。信仰するにはここまではいらないかもですが、疑念を取るには参考になるかなと思います。本当に霊格が高ければこいう理屈はいらないと思うので、私も大したことはないし、中間のつなぎ役くらいかと思っていたりします。だから参考程度ですが、また出典も探す気になれば何か所か見つかると思うのであえて割愛します。教祖のおっしゃること簡単に解いているところに多少はつながればと思います。五六七大神は他教でも説かれています。それこそ教祖に関係ない団体でも重要な位置にいます。ただし、主神ではないです。でも主神を拝むことなります。分かりにくいのですが、こう表現するしかない気がします。しかし今までこの世に現れた神様以上の神様には違いないです。五六七大神様は3*6の18柱の集合神として説かれており、その最高峰であり代表神となっていらっしゃるのが天照皇大神です。この神様は伊勢神宮の神ではなく、伊勢も現れの一つではあると思われますが、伊勢の場合の日本の神、また世界の神、そういう地球限定の神ではなく「宇宙」の主祭神としての立場です。これは昭和6年と昭和9年の教祖の記録やメシア降誕仮祝典からも推察ができることがあります。一つは昭和6年に天照皇大神が生まれたということや、日之出観音様をその時見てそれを書いたという話。日之出観音様は後年名前の変更があります。それはメシア観音。昭和9年には6年にお迎えした天照皇大神様をある神社に鎮座したという話。そして昭和29年のメシア降誕仮祝典のご神名は天照皇大神であること。そして教祖御昇天でのご神名は主の大神であること。神様は教祖がおっしゃるように高級になるほど分霊し同時に存在、つまりは5次元と4次元と3次元に同時に存在などがありますので読み解きにくいのです。ただですね天照皇大神はある竹内文書等と関係する神道宗教で、天の御三体の大神の一柱として出ていたと思います。これは霊界の奥の神界(5次元)のことのようです。そこからさらに6次元、7次元、8次元とその奥に主神がいらっしゃるような記述があります。また同時に主神は各次元にも存在しています。それを表現神としてたんですね。ただ本来の主神次元より低位ですので、その制約を受けますから主神そのものとは言えないし主神だともいえる。その次元でその神様を拝むことは主神を拝むことになるという神様は存在しますね。そしてその神々は等しく主神のご指示の下で経綸を行っています。(追記:ご指示の中には表現神の配下である正神であっても理解できない受け入れられない決定もあったようです。国祖・国常立大神引退、岩戸閉め、夜の時代の到来等 つまり主神の決定はたとえ神であってもわからないということ。これは教えにも、最高の神(国常立大神)でも主神の経綸はわからないという表現がありますね。)おそらく4次元の表現神は国常立大神(幽世大神)でしょうね。5次元が天照皇大神(みろくおおみかみ)3次元は?ちょっとわからないですし、当時はまだ定まってないと言っていましたからね。345次元の18柱の集合神を五六七大神と表現していたようです。その代表は天照皇大神またね、教祖がご晩年の公式の講話でですよ「明主」という私の代わりをする神様が霊界に複数存在することを話していますね。また霊界は陰陽、+-、霊体とどこまでも一対になっているというか表現というか上位次元の移写、写しの連鎖といえるそうで、この神様のさらに上位次元の現れもあるし下位次元への現れもあるかもしれません。この辺を考察すると国常立大神とスサノオの尊の隠れた目的使命などが推察できたりしますし、教祖はスサノオの尊の本来の使命をちらっと話しているところがあります。ちなみに地上での天照皇大神様の地上での表現はなにかは日本人ならよくわかっています。日本を代表し祭祀をしてくださっています。天津日嗣という立場はそのままのいみでしょうけど、私たちは支配という意味でしか上位の立場を見ないのでその意味を勘違いしてしまったようです。ちなみに教祖はおそらくですがこの6次元以降のことを最奥天国とひとくくりにしているようにも思われます。人間が今のままで感知できるのはぎりぎり4次元の一部でつまり霊界、簡単に言うと死後の人間がいる人霊界で4次元の奥や5次元については神界や神霊界の神様が私たちに伝えてくださるからわかる程度です。実は6次元よりさらに上の最奥天国の中に根元三六大神という神様がいらっしゃったりします。霊も含めた万象をつかさどる神様ですね。教祖の言う天の直系というのにふさわしいお立場です。教祖は「いままでのミロクは五六七で、これからは三六九になる」とおおせですね…。この根元三六大神様を下位次元に現れる際により複数の神で表現したのが五六七大神としたらわかりやすい気もしますが、そうなるとやっぱりその上の主神そのものではないことになります。そのさらに奥に元無極…とここでも書かせていただいた主神がいらっしゃる。というこれは私の「考察」ですまた拠り所にした文献も、確実なものではなく、結局表現したその人の霊覚でそのように見えたということだと思うのです。なぜなら量子の理屈から言えば、貫いていている性質はあるけれど形は固定ではなくその人のレベルで見え方が変わるのだと思うんですね。見ているのは同じことなんだけど急所は同じだけど、のぞいた人により微妙に表現が異なるのではないかと思います。物理的に考えると固定に思うんですが波動とか確率とか思うと形に収束するのはそれを覗こうとしたときのこちらの意識も関係していると思われます。身近なところで、人間が死んだらわたるとされる三途の川も別に水が流れているわけじゃないんですよね?教祖の教えにもありますけどね、見た人がそう思ったというところでしょう。でも確かに何かわたるんでしょうね。だから例えば霊層界でも、宗教団体や信仰で表現や言葉も違いますからね、人によって181段だったり9段階に見えたり8段だったりする。科学は1次元から数えて11次元まであるとしてる。これもある意味、3次元から数えたら9段階なのかもですね。階層があったりそれはあってるけど、違って見える。どこまでのぞけるかも違う。それでこの表現の違いなどを研究していくと、ある共通点が見つかってくる。逆にこの共通点を悪魔は見つけてほしくないともとれる。ちなみに信仰する際はそれを気づき説いている人の表現で統一するのがいいでしょうね。いわゆる教主ですね。なぜなら見ている元がわからない人が変に解釈したりすると、おそろしくズレる時があります。はたから見たらわかるんだけど、ズレたことを説く人自身がわからないし堕ちていくので危ないと思われます。だからあまり形にとらわれずに、神様を求めて定めて受けていけば、自然に霊界もなにもあがるので、それで判断すべきだと思います。ちなみに、こういう研究を一般信徒がしても意味はないですね。たぶん途中でいきづまりますし、それよりすべきことがあります。神様の役に立つことは、覚りの深いわかっている人の手助けをすることでしょう?自分が教主や社長になるといううぬぼれはよくないと思います。また悟りのレベルが高い人は私たちの基準とは違う、神様の目的からのズレなど細かい違いがわかると思われますし、ここでの稚拙な解説レベルではない、言葉にならない世界を見ているので、善悪正邪や神様の目的に方向性がずれている教導師、間違った教導師は上からは簡単に確実に見つかるのはわかりますね。何事も不足、不十分、未熟、知識などいたならさに関しては補うし許されるし、それほど悪くはないけど、一番は神様への反逆行為になるのはダメなんだ。と思うとわかりやすいでしょう。反対行為をしちゃって気づけないと助けれないように思われます。ここも職員の落とし穴があって、現役中はよかったのに退職前から退職後で全然変わってしまったという場合もあったでしょう。そういう場合は縛りがあるから教主様や組織によって前を向いておれただけです。雇われている以上個人の野心や欲というのはある程度隠れ、方針に向かいますね。それはある意味本当のことができる知れる大いなる機会なのですよね?赤ちゃんの歩行器や自転車の補助輪のように。それが外れても間違いなく歩けるようになった人は大先生になるでしょうけど、そうではなく利用していたら?ということです。だから現役時代がこうだったというのは何の保証もなく、今なにもしがらみがなくなって正しくあるかどうかなのですよね。人格が別物のようだというなら、その人はもともとそういう人です。隠されていただけで、前のが衒いで幻想なのです。人格と魂は一致するというのは教祖の言葉です。そういう人は少ないか、いないと思いたいですが、可能性としてはゼロではないでしょう。最後に教祖の記録にこうあります。”(質問 )兇党界(きょうとうかい/悪魔の世界)は、神漏岐(かむろぎ/霊の祖)、神漏美(かむろみ/体の祖)命が現われたもうて善悪ができてからできたのでしょうか。また主神の御目から見た存在の意義はなんでしょうか。さらに「五六七の御代」になった場合には正神に服するのでしょうか。 (教祖)これは違うんですよ。神様を霊と体に分ければ、善悪によれば霊が善、体が悪、男女では霊が男、体が女です。女は体だから悪だなどと言えば女の人は怒りますよ。……主神の御目から見て兇党界が必要ないなら、主神の万能の力で潰(つぶ)してしまうのはわけないことです。神でも対照的で絶対善の神があるから、それに対して絶対悪がなければならないのです。それがなければ進化しないのです。必要悪ですね。以前よく訊かれたことだが「大審判で神が人間を苦しみに合わせるくらいなら最初から悪人を作らねばよいのに……」と言うのです。これは一応もっともですが私はこう言うのです。……私が作ったのなら私は理由を言うが、私も作られたものであり、神様がすべてを作ったのだから、こうだろうと考えるだけです。しかし悪因悪果、善因善果だから、いいことをして幸福になれば、それでいいではないか、と言うのです。兇党界だって神様の御都合で作られたのでしょう。「五六七の御代」には悪は限定されます。兇党界は獣の働きですから人間に獣の働きが少なくなり向上するのです。いまの人は法律という「オリ」の中に生きているのですから……”と言っています。研究が理解が面倒でもいいんですよ。ここを守ればね。計算だって足し算、引き算ができたらいいでしょ?もちろん掛け算割り算その他の計算ができればよほど有利です。でもね計算で数をごまかしたりしたらその知識意味がないでしょ。そっちの学びを大切にしたほうがいいと思います。知識がすべてだと思い込まされている。もちろん知識を得る才能がある人はそうしたらいいし、知識がないと御用ができないということはない。ここだって天才からしたら虫けらみたいな解説なのです。例えが悪いかもですが私は勉強できなくても遊び方とか私の知らないことを知っている人している人を敬意を持ちます。その人の良さですよね?ただね、卑下しなくてもいいけれど、勉強できる人への敬意を持てないのはただのバカですよ?分かると思いますが、勉強できなくても人を恨まず明るい人間はいいですよね?そういう人は本当仕事がありますよ。ただお言葉をそのまま投げつけて、私は正しいことをしてる信徒が指示通りしないっていう、人の心を勝手に決める独りよがりな人はこれは支配だから神様と逆の思想になります。でも、できないのをいいわけにして人に要求してる。ひどくなると信徒に要求しても自分が上司とか先輩の指摘やアドバイスは全然してなかったりしますよ?相変わらずだったらそれは、責任の所在がズレてるんですよ。こういう人いますよね?これは以前の信仰がそうだったから、この後遺症がなかなか取れてないですね。だから、この思想の方向性はだれもが知っている必要がありますよね?現れてくることは自分のことなんですよね?至らない足りない未熟力不足はあってもね?方向が逆だと罪を構成する。だから力が足りてる人、専門知識に優れる人、社長などを務めあげているリーダー力のある人などは敬意を持つべきです。その人のたゆまぬ努力がみえず才能の一口で片づける人は、いっぱい何かをしていても忙しくても努力にはなってない。仕事をこなしてはいますが力にならないのです。知ってるレベルでやり続けているだけですよ。それは自分がこれしかできない、これで御用の一端にでもお仕えするという謙虚な下座の行ともちがうんですよ。思考停止なので悪の思想になります。こういうのがわからないと、そういう指導者が邪魔してる場合がありますね。家でもねお母さんが食事を用意してくれて当たり前だっていうんならどうでしょう?もちろん親の立場としては当たり前で称賛をえるべきものでもないですけどね(笑)。ただそういう様々な人たちの中で、それぞれのレベルで神様に向かってる人を見ると感化を受けたり気づいて前に進むことあるんですよね。歌だってプロの歌を聞くより、ちょっとうまい人とカラオケ行ったほうが参考になったりするでしょ(笑)そして真によいこととは何か?を神様目線での善を学ぶのが信仰であろうと思います。なので信仰者がボランティアとかも大事ですけどそのレベルで終わっていてはいけないのですね。ちなみに天皇陛下が国民のためにしているのはなんでしょうか?神への礼拝儀礼ではないのでしょうか?そのうえでの象徴としての尊いお姿行動があるように思われます。そうして主神の万能の力を信じず自分で人や団体を正そうとする姿は教祖の教えにはないんですねえ。ほんとうに教祖が教主の命令として当時の専従者が素直に実行してたら、もっとやってたことがあるんでしょ?