以前書いた「生まれ変わりは存在しない」の補足です。

 

 

この地上を去った後の見解の違いメモ

 

仏教=輪廻転生

   ただ本来は輪廻転生から解放されて生まれてこないために解脱することが目的。

   そのためにはどういう思想状態になるかを教えていると思われます。

   

キリスト教=永遠の命 生まれ変わらない死後は神様と共に生きている

 

グノーシス派=キリスト教からは異端とされたがその理由の一つは輪廻転生を認めたことと言われている。

 

世界救世教=生まれ変わりを認める。生まれ変わり死に変わりはてなの命

 

世界メシア教=生まれ変わるのではなく新しく生まれ永遠の命を獲得すること。人は本質的には生まれ変わる存在ではない。

 

参考の教え

「地上天国のある様に幽界においても神界がある。神界に上った者は現世には再生いたさない。」

「この修業によって、メシヤの下に働く者は神界人となる事が出来るのである。霊を主とし体を従として信仰に徹するなら、皆々が救われて行くのである。それによってわれわれも向上してどんどん上に昇って行くのである。この方の申した事は夢にも忘れてはならない。皆々が救われて行くのである。これもメシヤの思召しによって皆々に伝えるのである。」
地上天国25号 昭和二十六年六月二十五日

 

問 

本教信徒の祖霊は神界に入る事を許されましょうか。許されます場合その順序はいか様でしょうか。


教祖 

これは少し本教を侮辱してますね。本教の信徒こそ神界へ行く事が出来るんですよ。

御光話録17号 昭和二十五年二月二十八日

 

 

という記述があります。

 

ここからは余談です。

 

上でも書いてますが、

 

世界メシア教は「生まれ変わるのではなく新しく生まれる」と教祖はおっしゃったので、そのことを大切にしています。

 

世界救世教は生まれ変わりや輪廻転生を認める立場です。

 

ただメシア教も生まれ変わりを完全否定しているわけではありません。

本来生まれ変わるべきものではないわけですね。

 

正直キャッチーな言葉はね、対抗勢力に悪用されるのは常です。悪い意味であったらいいなっていう心の中の欲が具現化している。このことに気づく方が信仰的ですよね。

 

そのことからや、その他の発言からメシア教はグノーシス主義だと断定してしまう方もいました。ですが、どう考えてもこじつけに過ぎないので、そうなると、どうしてそうしたかったのか?という意図の方に多くの人の興味がうつることになりました。

 

ちなみに教えにこういうことがあります。

 

「悪を憎む――憎むのは感情だからよいが、行為に表はしてはいけない。憎むのはいけないが、その気持は起る。ある程度で制えるとかなくするという事である。(略) 怨み憎みは出来るだけ早く忘れた方がよい、自分に返ってくる。」(昭和23年8月4日)

 

問 電波は言霊界の力動によりて遠距離へ到達するのでしょうか。


教祖 地球全般に行き渉るのはラジオでわかる。悪い言霊を発すると地球上を曇らす。善い言霊を発すると曇りが減る。二十億の人間の言霊が地球上の空間へ活動している。言霊は発したものが全部空間へ行くと共に自分の方へかえってくる。因果応報はジキに表はれるもので、悪口をいえば還ってくるから厄介である。愚痴をいえば、そういう事が起ってくる。〇〇主義などは、不平を作り、それを言う様にするから、不平を言はなくてはならぬ事が起こって来る。悪口を言えば皆それが帰ってくるのである。     (S24・2・12)

教祖の言うように悪口は帰ってくるわけです。

 

個人の見解はともかくレッテル張りはただの悪口ですからね。

 

個人の主張というのは他人には判断基準にはなりませんよね。参考になるとしても、正しいと主張していることをベースにして、その人はいったいどういう手段にでるのか?ここを見るとその人の信仰、思想、目的が見えますね。どれだけ魅力的な教えを説いていても”ここ”が真実です。嘘や真実の度合いが分かるわけです。自分を正しいとしたときに小乗信仰的なことをすることがよくないので、それで分かるのは人ではなく自分の未熟さですからね。人は関係ないのです。

 

ただレッテル張で攻撃されている人は気の毒です。嘘でも事実にかすってたとしても、言いまわられた方にはショックであり苦しくもあり心にダメージを受けますし、時には死にたくなる人もいました。今回のことはメシア教信徒に余計な人為的な被害もありましたよね。誹謗中傷は心の殺人行為なのでそのことに気づくのも信仰ではないかと思います。

 

 

また世界救世教や教祖の思想とは違うのがグノーシス主義としたわけですが、

ちなみにキリスト教がローマの国教となり整理したりした中で異端としたグノーシス主義の問題とした点ですが、グノーシスの研究ではグノーシス派は輪廻転生を認める立場をとっていたそうです。この段階でメシア教は輪廻転生を認めない側なので、グノーシスとレッテルを張ったことが逆にメシア教を陥れようとしている動きがあることに説得力を持たせてしまった部分もあるようです。

 

世界救世教と世界メシア教の何が違うのかがわかるヒントでもありますし、世界メシア教が教祖の時代から失われた何を思い出させ復活させたがっているのかも見えてきたりもします。

 

そもそもグノーシス主義だけではなく、キリスト教が成立するにあたり異端とした派閥がいくつかあります。それがグノーシス主義であったり、ネストリウス派だったりします。

 

ちなみに上でも書いてますが、仏教も輪廻転生か?と言われると、どうもそう断定してしまうと違うようです。輪廻転生から解脱して生まれてこないのが一つの目的ですからね。生まれ変わるのを前提とすると覚りがひらけないでしょう?

 

生まれ変わりを悪用したら、次があるからいいとかになりますね。次の自分にまかせるということにもなります。

 

どうもね、どういう行いをしたか?ではなくて、自然そのような行いや怒らないような裁かないような心になり、それをもって正しい行為が現れる人になることが信仰の本義のようですし、そのレベルに応じて霊界でよいところにいるようです。良いことをするということはそこにそういう気持ちが少しはあるわけですが、中には行為だけの人もいるってことだと思われます。

 

心を覚らないで、知識としての行為には意味がないとは言わないまでも薄いように思われます。またそのようにもおときですね。

 

 

また教祖の時代背景上、戦前は誤魔化してながら、その中で本質的に説いていたのはなにか?が分かるような気もします。

 

戦後段々と生まれ変わりに対して変化が出てきます。

そして中村先生が亡くなられた時に仏滅について説かれています。

 

その時の日本仏教が輪廻転生の象徴としたら、仏滅となったら生まれ変わりも終わりということではないかと思います。

これが意外にスピリチア系でも言われていたりします。要するにある時期から生まれ変わりが無くなりそうということです。

 

メシア教となってすぐに教祖が本物の霊と認める神格を得たある信者の守護神から「地上天国のある様に幽界に於ても神界がある。神界に上つた者は現世には再生致さない。」という発言があったり、晩年の昭和29年4月6日には「それともう一つは、今度罪を消されないと永遠に残るのです。」というお言葉があります。

 

仏教でもキリスト教でも、教祖の教えでも最終的には「生まれ変わらない」のが目的なのですね。ここは修行の場、修行場なので天界に戻るにふさわしい教養というか霊養を得る必要があるわけです。これが宗教で大事なところです。もし永遠の命がないのであれば、この世に何かを残すとかそういう物質的なことが主になります。意味を残すのではなく偉業を残すよう意味になってしまいます。そうではなく天国に行けるような、そのきっかけとなるものを残すんですね。思考の象徴ですね。個人の業績、例えば教祖をたたえるのは礼儀だけれど、それは本質ではないわけです。神様を讃え、教祖がなしたことの万分の一でも継がせていただく、それを思い出させるようなものが必要なわけですね。

 

そして永遠に魂は存続し、その一人一人の意思が地上にも大きく影響し、時と経路を経て形として現れるとなると自分の人格の向上が至上命題になります。行いの向上ではなく、人格の向上からなる行いですね。それは自然に物質的にも残りますが目線というかその表現は時々に代わってきます。自分と神様との関係、自分の良心の関係ですね。

 

さらなる余談ですが、

ネストリウス派は異端とされて以後、東へ布教し中国や朝鮮半島にまで来ていた記述は残ってます。そこではキリスト教という名前ではなく景教とされていました。日本にも来ていたのでは?と調べられているところです。奈良時代には、もしくはもっと前から日本に入っていたのではないだろうかともいわれていたり、仏教とも融合していないかと研究がなされています。

 

また空海が中国に渡ったさいにはすでに景教があったわけで、景教も学んでいたのではないか?という研究もあります。真言密教に融合されたものはないかということですね。

 

また光明皇后のお考えや行動にキリスト教的悔い改めのような思想があるそうです。

 

なぜこのお二人を上げたかというと、空海は教祖が極楽にいると断定したお方です。また光明皇后は観音の化身とおっしゃったので観音のお働きをなされたうちの一人だと思われるからですね。

 

興味深いし、そういうことが開示される時代になっているのも水晶世界ということかなと思っています。