この表現がメシア教教主様より出て、戸惑いが走ったことがあります。
ちなみに聖徳太子を明主様の前世の一人と思っていると思いますが、厳密にはそうとは言っていません。観音様の働きをしたので、生まれ変わりとか表現といってよいと言っています。そのうちの一つを引用しますね。
ですから聖徳太子は、矢張り観音様が日本に経綸をされる為に、聖徳太子に生まれられたと言っても良いし、聖徳太子を使われたと言っても良いですね。ですから結局観音様が聖徳太子になられて、で今度は聖徳太子が私に生れて来て、そうしてあの時代の――それは日本丈ですからね。日本に対する仏教を弘めた。その手段として芸術ですね。それを作られた(御教え集10号 昭和二十七年五月五日)
実は人づてだったり、いつの間にかそういう解釈になっていることってあるんですね。だからきちんと資料を当たるのは大事なのです。あるところでは牛乳を飲むのは体に良いと教祖は言っているという、教典のどこにも載っていないことが通っていたりしたこともあります。逆の表現はありますけどね。
また、ここで明主様の美術館や芸術の意義的なことを言っています。実は美術館の本当の目的も勘違いしている人が多かったりします。
きちんと読んでいくと生まれ変わりがないのは実は読み解けます。
ちなみにそのものずばりの表現としては、地上天国25号 昭和二十六年六月二十五日に記載の明主様へのご質問事項で、信徒がある天国に上がった霊のお話を明主様に報告しています。信徒は話の内容とともにこの霊は本物ですか?と聞いています。明主様は「その霊は本物である。貴男の祖霊の一人で、正守護神になつていた者が、本教の信仰によって、神格が上ったのである。」と答えています。そして、その霊が語ったことの中に、
「地上天国のある様に幽界に於ても神界がある。神界に上つた者は現世には再生致さない。」
「此修業に依つて、メシヤの下に働く者は神界人となる事が出来るのである。霊を主とし体を従として信仰に徹するなら、皆々が救われて行くのである。それに依つて吾々も向上してどんどん上に昇つて行くのである。此方の申した事は夢にも忘れてはならない。皆々が救われて行くのである。之もメシヤの思召しに依って皆々に伝えるのである。」
という記述があります。明主様はこのことを認めていたということですね。
そもそも輪廻転生や生まれ変わりはどちらかというと「やり直し」という意味合いが本来ではないのかなと私は思います。で、このやり直しが許されなくなる期日が迫っているというのは明主様だけでなく、いろいろな宗教や神託などにでてきているように思います。
というのは、御教え集33号 昭和二十九年四月六日にこのような記述があるのです。
「それともう一つは、今度罪を消されないと永遠に残るのです。」
「それは軽い罪は昼間になると消えますが、しかし軽い罪の人は殆んどないので、みんな重い罪の人です。丁度あなた方が浄霊して、幾らでも毒があるようなもので、チットやソットのものではないのです。重い罪の人は永遠に消えないのです。今の内に早く光に浴して助からなければならないというので、あせって急いでいるわけです。」
罪が消えないとなると、私たちはどこに行くのでしょう?天国いけますか?
だから実は人の罪を暴いていたりする場合じゃなくて、自分の罪を認めて悔い改める。そもそもそれができると相手を攻撃したくなるような出来事ってなくなったり、出合わなくなったり、気にならなくなります。気になるっていうのは別で話したいのですが「日本人と精神病」の論文に書いてあります。
そういう性質を浄化するため引き寄せてしまうのだと思います。だから、実際何を中心とした集団なのか?というのは大事なのです。
また生まれ変わりがあったとしても、実は今の自分というか、個人を特定している個性、現世の私には関係ないかもしれないのです。
明主様は応神天皇も生まれ変わりと言われていますが、応神天皇は最初明主様の邪魔をしていたという記録もあります。おかしくないですか?自分で自分の足を引っ張っていることになるのです。
でもそこでも、前世というより前世と関係があると書いています。
以下は引用です。
「地上天国第二十九号の『教えの光』に、応神天皇の事が出て居りましたが、何う言う事で御座いましようか」
解答はそれで良いじやないですか。
「前に応神天皇が明主様の御前世と――」
関係があります。
「邪魔するのがおかしいと言うので御座いますが」
そんな事がありますよ。私だつて、生まれてから、今の様ではなかつた。
思うまま、殴り書き程度で書いています。
ただ、これを知って信仰ができたり救われるわけじゃないと思います。それを踏まえて何をするか?それを説いているのが世界メシア教だと思います。