幸福の秘訣等には自分を主としたとき、自分がどのような気持ちになり、それはどのような行動を生み、相手にどのような思いをもてるようになったのが、磨けた状態かを説いていますね。

これを逆に取る人もいるのは知っていますか?またそれを好む人もいるのです。

方法論で読み解く人は、思想性や想念、感情などの気持ちを読み解くことができません。

それが、浄霊や活動の陰に隠れて「幸福」の種をつぶしている場合や、またつぶされている場合もあると思います。

一例としては「幸福の秘訣」や「私というもの」の結論だけをとり、家族や周りに強制する人です。

結構いるように思いますよ。

例えば今の時代では子供に同意なく理解無く習い事などを休ませて参拝させたりすると虐待になりますね?同意ではなく強制、この家ではあたりまえと決まりにすること。この違いが分かるか分からないかは今の時代、重要です。

これは、もともと虐待なのですが、やっと最近おかしいという声が強くなっただけです。昔はこうだった許されたのではなく、昔がおかしかった、やっと正されたという感覚持ててますか?


それで、教祖のこの系統の教えを実践したら、本当にその日から天国化も不可能ではありませんが、やってもやっても御用してもしてもというのは、実はこれを巧妙に実践させない罠があるからです。

この教えには明主様が自分はこのような思いがあり、それがこういう行動になることを書いているのです。

決してこのようになるようお前たち気を遣え!このように見えるように私に対して平和的に行動せよ!ではないのです。

でも↑のような人いたでしょう?

教えを盾にして、しんどくて辛い顔をしている人に、不機嫌そうな顔するな!気分悪い!ご機嫌で居ろ!という事を言っている人いましたよ。

これも逆でしょう?どうしたの?調子悪いの?とかの方ではないかな?

幸せを分け与えるのではなく、自分に献上させようとしているわけですね。いわゆる支配です。

これはね、自分にしてもらう事や自分の損得が優先される獣性とかパーソナリティ障害的な発想ですよね?

同じ言葉、同じ論文を使っているのに、教えを逆に説いているのですよね。


で、これに「あっ」と気付ける人は治りますけれど、この感覚が無い人とは治療の専門家でもない限り逃げるか、専門家にかけるか、信仰活動を勧めるかしないと思います。基本は逃げることです。

自分の幸せを犠牲にすり減らすのではなく、幸せを分け与える方が利に叶っていると思うんですね。

実は利他に溢れる幸せな人って自分が幸せに満たされているでしょう?

相手が地獄でもこちらは天国でないといけないと思います。自分が地獄に引きずり込まれたりするような荷が重いものは専門家に任せたほうが良いです。


実践についても自分の意識は自分にしかありませんね?明日になったら別の人の体に入っているなんてことはありません。私の体を明日は誰かが使っているなんてこともないでしょう?

意識的に変えられるのは自分しかないです。つまり自分がすることなのです。

それを逆にこの論文のようにせよというのであれば…わかるでしょう?これが光を遮るテクニックなのです。でも、これは夜の時代の支配テクニックなので、これが好ましい、これがいいと思う人もいるのです。

相手を変えようとするテクニックですね。もちろん教えにあるようにアドバイスはいいんですけれどね。

ここを夜昼転換によって出た光によって暴かれ許され徐々に現界的にも自然と正されていくのですよね。そうなる過程が最後の審判の現界的な執行猶予ともいえるのではないでしょうか?昔はとしていたらその猶予を無駄遣いすることになります。

またそれが問題を起こしていることも多くありませんか?

支配する先にあるのは最期の時の崩壊ですよ。誤魔化せても自分が現役だったり元気な間だけです。力で支配していても最期までそれが続くわけではないのです。

また支配されていた人は支配者がいなくなって、今までのようにできるかというとできません。なぜなら支配されているということは思考力を奪われているからです。同じようにはできず、支配者の亡くなった時の方法を劣化コピーして延々と繰り返すだけですよね。

これは、何か他の事でも思い当たりませんか?

信仰は進化してますか?新しくなっていますか?


ちなみに余談ですが思想が原因で身体が病気になったりするという本があったりしますし、教祖の教えにそれを匂わせるものがあったりしますね。

間違えた教えの理解をするとどういう状態になるか、それはいろいろな愛が欠乏しちゃうと思います。その欠乏した愛によって現れる体の不調なんてものもあるようですね。

分かりやすいのは心臓、肺、腎臓などでしょうか。心臓や肺は主体的というか自分で自分を傷つけている感じがしますし、腎臓は外部からの攻撃による被害な感じもします。

もちろん病気は食べ物などの原因もあるので一概にはいけないのですけれどね。

これは自然の摂理だし、警告でもあるし、愛でもあるのですけれど、そのことも書けたら良いなと思います。


また、信仰しているのに誹謗中傷してとか比較してけなす中で布教するとかは、愛が極端に欠乏しているというのがなんだかしっくりくるように思います。

欠乏している人に攻撃されると、それを通して被害者は愛など心が傷ついたり奪われるから、うっかりやり返したくなりますけれど、その時の精神状態は相手と同じです。以前もお話ししたように自分の霊層界を下げてしまいますし、下げられているから地獄的な思いが湧き起こったりします。相手はそれを待っているのでほおっておく方がいいのですね。

こちらの愛、こちらの幸せ、こちらの権利をむざむざ相手のために下げたり、また相手にあげる必要はないのです。
こう考えると教祖はどういうときに裁判していたり戦っているかが分かると思います。あくまで防衛であり、不条理な権利の侵略行為に対して断固としていますが、ほしいものを手に入れるために手段を択ばずテクニックを駆使して相手を攻撃したり勝ち取ったりということではないと思います。なぜ美術品などをこちらから値切ることがなかったか?これはよくわかると思います。

ですので、欠乏している人を相手にするとどんどんこちらの霊層界は下がり運が悪くなります。負けるが勝ちですけど、負けていても肝心なものは握っていたらいいと思います。

いったん落ち着いて、自分が与えられているもの、持っている幸せを見つめると、そういう人は実は肝心なものを持っていないか、大事にすべきものが分かっていないことに気づけると思います。

持っていてもそれを大事にしていない。気づいていない幸せが分からないということでもあると思います。

 

そもそも攻撃してくる人はあなたのことを大切にしていないでしょう?だからそこに幸福は存在しないわけです。


逆にここではあまり書かないのですが、これくらいでいいじゃない、ゆるく仲良くというのも実は場合によっては諦めをといているので神様の意に添わなかったりします。幼稚なわがままぼっちゃんの場合もあるのですね。それは自由ですけれど、付き合う必要はないと思います。

自分の都合の良いレベルに制限して布教したり指導する人は実は間違った思想の一種だったりします。

なぜなら制限を強制しているからです。
ある一定のレベル以上の向上を制限するということは何主義か分かるでしょう。教祖の教えにはないことです。

それぞれの一生懸命なので、そのラインを決めるのは間違いです。これもひとつの自由の侵害です。

自分一人の精いっぱいはいいのです。それは自由ですけれど、相手にそのレベルで頭を押さえるようなことはいけないわけです。

自由で制限のないもの、道理はありますけれどね。その辺を感覚としてつかむと中庸とか中心とか急所とかが見えてくるのかなと思っています。
方法を決めると間違うという教祖の言葉もこの融通無碍、自由自在に心を置くことを言っているのだと思います。

思想を中心に置くとやり方がどれだけ変わっても問題がなかったりします。時代がすすめば全部変わりますからね。変わらないのは中心の思想です。表面の思想やさらに表面の方法論ではないと思います。