これは余計なお世話かもしれないのですが、
カルトやおかしい指導者に引っかかって自分や家族を乱されないようにという観点の話です。
多くはこういう人はいないと思います。少ないからこそ隠れていて危ないと言いますか…。
そういう人を正す目的ではなく見抜いて距離を置きましょうという話。防衛力をつけましょう。
基本的にそういう人をどうにかしようとすると危ないです。関わらなければ独裁スイッチのように、自滅します。
またこのブログの読者年齢層が高いのもあり、結構、刺さるものがあるかもですが、今世間で親子や子育てでこうしたらいいのではと出てきていること研究されていることは、すでに教祖がなさっていたことが多分にあると思います。そのあたり勘違いを私たちしてきたんだなって思えたらそこからまた霊層界は上がると思います。
それで、
専従者は神様、明主様がお使いになるので実力を超えて不思議な現象で導かれたりします。時には分からないことが判断出来てうまくいくこともあります。
キリスト教でもペンテコステの聖霊によってキリストの弟子が知らないはずの外国語を話したりという記録が残っています。
これは世界救世教時代からもそうですね。
また特に護持委員会はこういう現象を認めて、総長の指導のもと布教をしていたわけでしょう?若い人が多かったための人材不足もあり、そのような方針になったとも聞きますがどうなんでしょうか?
でもね、資格を返上したり退職するとそういうのはなくなったりします。
そして、ただの専従、現場の一所長でさえ座によって、そうなのだから、教主の座への神様の絶対性は専従者なら分からないとおかしいわけです。
自分のたかが一支部の座ということを利用しつつ、最上位の座が信じられないということはその信仰には神様がいないわけですよね?
ようするに信仰は過去の実績ではなく、
今現在、
神様を信仰しているか?
なので、いくら知識があってもお導きをしても信仰をなくした瞬間なぜか神様がわからなくなり良識もなくすことがあるようです。
この点を多くの信徒は感じているわけです。
このことをアフリカの最初の本部長は口酸っぱく言っていたのでしょう。
私が教主様を信じなくなったら頭がおかしくなった時だ。その時の私の言うことは聞いてはいけない。
という意味のことをおっしゃっていたようですね。
これは神の核心というか善の性質を突く言葉なんですよ?主戦場は目に見える世界ではなく心の中ですからね。
教えにもありますけどね。
また冷静に考えたら、教主の座関係なくそういう奇跡の出し方をされたら危ないでしょ?あきらかな離脱思想への誘導です。神様よりか?悪魔よりか?はわかりやすいことです。
こういう立て分けや神様の試練というのに常に引っかからないのが本当の専従者だと思います。
また退職したりで、そういう奇跡や問題への気づきが無くなったり薄くなる経験を認めて神様に一からま向かわれるかたもいますね。
神様からの恩恵を賜っている間に自分の本体を養わないと不幸なわけでしょう。立場的にも神様扱いされるのだから、調子に乗っていると常識が無くなりますでしょう。
そうなっても誰も言ってくれません。今の時代は未信徒でさえはっきりは言ってくれないでしょう。
ただ同時に現役の専従者というのは、いくら歴戦の布教師と言えど、退職者から見てもあなどれない、かなわない点が神様の方にあるわけです。
でも経験とやってきた過去の判断は記憶に残っているので勘違いすることがあります。今それを当てはめようとしてしまったりね。
…知識と神様の判断、時期は違いますからね。タイミングが合わなかったりするでしょ?
また、野心や欲は徳を積んだりするだけでは消えないようです。これは自分で神様とま向かって昇華すべきことなのでしょう。神様の力を利用するのではなく、神様が人類を見守っているという信頼と信仰ですね。
それができたかどうかは教え「之も慢心」にある
”信仰に熱心のあまり自分の属している教会の会長始め、役員等の行り方が面白くないとか何とか非難して、それを改革しようと忠告したりしても、それがいれられない場合、非常に気を揉む人も時々ある”
”もし間違ったり、悪人であれば、神様がチャンとお裁きになられるから少しも心配はないのである、だから人間が心配や取越苦労などするのは、神様の御力を信じていないからという事になるではないか、その証拠には今迄間違った信仰のために、神様から裁かれ、人によっては命まで失った事実はたくさんあり、古い信者はいくども経験しているであろう、だから人の善悪を批判する前に、まず自分の腹の中の善悪を見る事である。”
精神年齢が低いと(この場合は信仰年齢もかな?)自分のいう事を聞いてくれないことに怒りを覚えたり子供が駄々をこねるような行動力を示したりしますが、自分の思想レベルの暴露に過ぎないわけです。
また仕事人間専従者であったなら、現役時代は家族に多大な負担や助けをいただいてきたわけですが、退職後仕事という言い訳がなくなったらどうしなければいけないのでしょうか?
自分のことしか考えていないと、家族への感謝がないから行動にでてきますね。
他人を信じていないし神様や先祖の意志を信じていないと、子にたくすということもできません。
そうなると自分が常に称賛を浴びてたりしないと不安で仕方なかったりもするようです。
つまりは、老いては子に従え、ということができなかったりしますね。
また別の親子関係でも、よく虐待親が虐待をしておいて人前では「愛している」「あなたのためを思って」と言って周りがそれにだまされる話があるでしょう?言葉も大事かもだけど、言葉と行動がズレてるってことは心であるパーソナリティに障害があるかもしれないわけです。教祖のもっとも正したかった病気はこれなんじゃないかと思っています。
ちなみにそういう親はごめんね等やりすぎを謝罪したりしません。別の言葉を使います。うまく子供つまり相手に罪悪感を与え非を与えようとします。劣等感を子供が感じていたら、子供の責任ではなく親がそうなるようにしているということですよ。
それは親自身が自らの非を認めて事を納められるほど、自分と他人との分離ができていないのと、自分以外のまして子供にも生まれた時から心があることを認められない、つまり親の精神年齢が小学生以下だからです。またこういう人がいくら教祖の教えをうまくまとめても支配的に使うだけなので平和は実現しません。
よく昔はこうだったといって体罰などがなくなったことを言う人がいますが、これは子供の自我の成長を止めることが分かったからです。しつけをするなということではないのですけど、暴力や支配では動作を覚えても心が成長しないのです。またパーソナリティに障害を抱えている人は、人に対しては暴力や支配が好きな場合もあるのです。頭が良ければ知略になるし、そうでなければ体的な暴力になるかの違いで意味するところ相手への支配と虐待なので意味は同じです。
主観のみで客観性が薄く自分が何をしているかわからないのです。自分がされたら耐えられないようなことを平気で他人にしてしまうのです。
それには論文「日本人と精神病」が大事ですね。
座の勘違いも親の立場の勘違いも同じ事でしょう。
未熟だと自分を中心にします。座に力を授けている神様の力も自分の力だと思ってしまいます。
たかが所長の座、役員の座が一番上に思ったりしますよね。
日本だと天皇陛下より総理大臣が上に立つような思いだと内戦がおきるでしょ?
まるで今の教団のように。
それも親子がわかりやすいのですが、親が未熟だと自分の親は親だけど、妻や子供にも親を求めていうことを聞かせたがるんですね。与えるほうにならない、与えたふり(言い訳になる行動をしておく/だからこうしていいんだ)をするやばいのもいますけどね。
どちらにせよ最終的に目的は自分をトップに置いた支配やわがままなので、よくよく見つめればわかるはずです。
だから似たようなものですよ。人を人と思ってないとできちゃうんですよ。ここが教育ではできなくて信仰で培うべきことでしょう?ここは一つの基準ですよね。
目に見えない神様を認めないと、人も認めれない。人を認めてないと相手の自由を認めることができない。相手も自分も尊重するとそれはわがまま主義にはできない。そういう人が神様の存在を本当に見つめる道に進めているわけがないと思います。
またね、先祖の願いと親の使命は家系の繁栄なので、本来は子の方に主導権があるわけです。子がそうならないと繁栄しない、家族全体の幸せはないからね。
先祖はどういう子孫を大事にしますか?
だから専従者も現役に主導権ないと生い先短い人間が何かできたところで永続性がないわけですよ。自分の生きてる間だけ都合よかったらいいという信仰で年寄りばかりが集まるならそれはもう生きた宗教とは言えないですよね?
信仰の継承ができないそもそもの原因は悪魔が神様とのつながりをとくために用意した支配的思想から脱せていないから、神様とのつながりが希薄な自分が原因かもしれないですよね。
ただこれも見た感じではわからないのです。
逆説的に言うと
例えば親から子供にとして、
悪魔の信仰継承は支配の継続ですね。
分かりやすくは子が親の誘導に乗ってしまう状態。いいようにされる状態。これは親を大事にするというのではない、病的なマザコンやファザコンも含まれると思います。
これは二つパターンがあって、分かりやすいのは夫がマザコンとした場合、妻や子供より母親を優先しすぎるやつですね。自分の守るべきもの大切にすべきものの順序を逆にさせる。
もう一つは逆にさせられた親に育てられた子供です。
これも違う意味のマザコンになりますが、親により自分の好きかってを思うままにしてきたので、自分の考えや説、したいことを優先してくれない人物を例え家族でも敵視したり嫌ったり怒鳴ったり否定する類のものですね。
このあたりが精神の病気なのを分からないとしたら、その人は思考を奪われ支配下にあるわけです。
でもそれを拒否して子供が自由を求め神様に求めたら悪の信仰から言えば継承失敗です。
また神様の信仰継承をしようとして、自由を捨てて何かの支配下に入ればそれは神様側から言えば継承失敗になります。
後を継いでいるから成功とも限らないのですけどね、難しいでしょうか?
自由か不自由かはほかにも今の時代に妻が夫の許可がなければ何もできないとか出かけれないとか、子供にさえ会いに行ったり助けれないとかならそれは夫の支配でしょ。相談ではないからね。正直ね夫が嫌っても妻が誰かと交流するのは自由だし、また別に親同士が中悪いからって子供同士まで交流をやめさせるのは良くないわけです。もちろん危険度によりますけど、わがままではいけないわけです。
ただね、まともな家なら強制とかしなくても、それぞれが個人個人同じような判断をして危険から距離を置く場合もあります。あくまで自分の判断ですよ。それぞれが自分で判断できる家は結局において支配せずに考えが一致したりもするもんです。
まあ夫からしたら今さら自由にしたら捨てられるって人もあるかもしれませんが…。
自分が神様とつながってこそ真の継承ができるので、子供や妻などに何かを強制するなら神様は継承できないように思います。
だからどういう考えの人が宗教も家族をバラバラにし不幸にしているか?わかりますね。言葉に騙されてはいけないのです。心と行動に線を引いてみましょう。
支配を受け入れても支配者だけがうれしいだけですよ。
社会に責任を果たしているなら、良識をもってですが、たとえ誰が反対しようとも自分は自分の幸せを求めていいと思います。