結局、ここでは悪と手を切らないとうまくいかないよと言う話ですよね。


これは、現状維持:世界救世教、新体制:世界メシア教でも同じです。

明主様からみれば救世教もメシア教も同じ子であり、その親でしょう。

そもそも忘れているのはメシア教にいるのは岡田茂吉教祖の肉親です。血のつながりある孫達ですね。先祖は肉親である孫に対してどのように愛をかけますか?これがわからないと霊界が無いといっているのと同じなんですよ。

そうすると、あれ?ってなりませんか?神様が勝ってるのか負けてるのかわからないでしょ?

これも深く考えるといろいろ推察できますが、この辺も真摯に向かうがゆえにメシア教は大改革をしているようにも思えますね。

そして救世教とメシア教は課題が違うかもですね。

現状維持での救いの受け皿

新体制、本来すべき世界布教の部分を担う旅立つ力、悪に屈しない力


天照大神と大和民族や素戔嗚尊の本来の使命を思ったりもするし、最近あきらかにされてきつつあるスメラ族とスサ族そしてアシア族の合同による光の躍動、願いの発露とか勝手に思っています。というかそういうのもロマンですね(笑)

もしかしたら、本当は3つの種族の和合を弥勒三会とかいろいろなことで教えているのかもです。逆にこのことを知らしたくないし、なかったことにして夜を続けたい勢力もいるでしょうね。

現状維持としても代表権のあるいづのめ教団を中心に大改革が無いといけないわけですよね。

どう頑張ってもですね。今回の調査、休日の一個人を尾行して盗聴と盗撮行為をしているのは異常でしょ?いくら正当化してもこれに対して反感や不信感、嫌悪感は付きまとうわけです。

正しかろうが暴力を見て気分がいい人が人格高いとは思いませんけどね。

そうすると、このことに対しては責任を負わないといけないし正さないわけにはいかない。そうしないとレベルが本当に低いものにしかならない。

自身や自団体の行為の正当化のことではないですよ。そうしているようなら見当違いですよね。そういういいわけに付き合ってくれる人を集めているようではいけないように思います。

個人でも自分でもバツの悪いことを避けて何をしても、なんだかうまくいかないでしょ?だってそこにあるものを無視していたら論理は破綻していきます。論理的に深く考えない人はごまかせてもね。

だからメシア教がというのはもう終わっているので、内部で責任を果たさないといけない。あまりにひどいのは神様が裁かれるでしょうけれど、最大限には社会として責任をはたさないといけないし、果たさないなら信徒や一般専従者が自分の教団に対して厳重に抗議しないといけないようにも思いますよね。

なぜなら、この盗撮行為で得た情報を一般にリークした団体と、またそれを利用して主之光教団から脱退して非公式なある会を作ったところありますね。(変更前の取り決めでは東方之光、いづのめ教団、主之光教団以外の団体は創設できないはず)
これらは盗撮行為を正当化せざるおえないグループです。ここはその情報の正しさの有無ではなく、そうじゃないと困るわけです。

ちなみにあるグループは公式のメールアドレスから、個人のメールのやり取りなどを無許可で証拠として不特定多数にばらまいたりしていたので、個人情報の取り扱いやモラルなどで怪しい点はすでにあるわけです。

 

後戻りできないグループですね。

 

間違えていた場合も改められないので、その場合、自己正当化と責任転嫁で延命を図るしかなくなってしまいます。

 

知ってる人はいると思いますが、副守護神につながる悪魔の目的の一つがこれで、ここに追い込んで思想犯罪をさせるというところでしょうかね。人間を誤らせ正させず、魂の滅びを望むのですね。あとは野となれ山となれ、副霊としてはこれが使命なようですね。でも、この衝動を乗り越えて制御して善道をすると、共に助かるなんて話有名なある先生の布教体験にあるでしょう。

 

後戻りができない、つまり正邪の判別ができない選択権もない状態、それは果たして自分の中の何霊が望んでいるのでしょうか?

つまり都合の良い部分ではなく、

都合の悪い部分をも認めてもらうと結構問題なことがあります。

差し引きしてプラスになるかどうかをきちんと信徒に委ねているかどうかですね。

個人情報の頒布を公式が表立ってしているということは、団体内でコンプライアンスが順守されていない可能性が見られるわけです。


このことは神様への真摯な態度をとるか、人間の立場をとるかを天秤にかけて決められたことでしょう。

これ気にならなくされているならまだしも、そもそも気にならないとしたら、それは今話題になるサイコパスや、自己愛性パーソナリティ障害にもなるでしょう。普通ためらうし嫌悪感をいだくものです。

だから、その場合気にかかる人は、全然気にしない人を注視して行動を観察していくとよいですよ。本当にそういう信仰になりたいかどうかが見えてくるでしょう。


つまり、そういう姿を見せる人はどうでもいいので、

それをみて違和感を感じる人が流されないことが大事ですよね。

 

そのために、レベルアップが可能な人のために、そういう人を用意しているという説もあったりします。神様は目的のため邪神のすることを容認し利用することがあるようです。そして用事がなくなるといなくなったり急にいろいろになったりもするようです。経験がある人いるでしょう。執着をとったり、祈ったりして神様にお任せしたり気にならないようにしたり、または精神的に成長したとき、さまざまな方法でいなくならないですか?または邪魔できなくなる。

ですが、流されてついて行っているようでは結果において信仰してないのと同じですし、ご家庭でも同じようなことをしてしまう無意識にそうなる可能性、無きにしも非ずでしょう?

 

方法が行動を決定しているのではなく、その前の判断しているのは心、想念、思想でしょう。またそれを誘導しているのは、正守護神という守護霊・先祖、そして副守護神という欲による判断をする動物霊ですね。そして本守護神という神様の魂ですよね。

 

人間が最終出す決断はこの三つの複合とお説きですよね。

 

ここが完全な働きをしているかしていないか、その時々の結論や趣味趣向は自分の今の状況を知る指針にはなりますね。

流されてついて行くと何気なくプライベートで家庭で、親が子に同じ意味のことをしていて気付かなかったりします。

子が親にさせようという支配になっていてそれがよいように感じる人もでてきます。この辺り隙が多くあまいですよね。

そういう人は一見まともで理屈が通っているように見えて、対話するほどに非常識な変なところが見えたりするものです。本人は気づいていません。こっちが気づいて避けるべき事ですね。

この辺りのヒントはまた書いてもいいですね。著作権、個人情報、デジタルコピー、毒親、家族と共同生活者との違い、人権感覚の勘違い等

ほおっておいたら絶対に正されるわけがないところです。



メシア教じゃない側は現状維持派でもありますよね?

だから、すでにしたこと、公開した情報を引っ込めたり、それを正すなんてことはなかなかあり得ないように思います。それをしたらぶれてしまうからですよね。逆にそれをしたら改革が始まったとも思えます。

それよりもまずは盗撮理由を前面に出すでしょうけれど、それが通じるのはうちうちだけの話ですよね。うちうちでも通じてないから割れてるわけなのですが、残った人を引き留めようとするならそうなります。

それより、何をしているんだまったくと思う人がまたまた増えるだけではないかと思いますけれどね。

だからメシア教を信じた人を本当に連れ戻したいなら違うことをすると思います。メシア教に訴えているようでいて、内部への言い訳と、メシア教から都合悪くて救世教に戻りたい一部の人へのものかもですね。

ただこの調査情報を使った、いづのめ教団。そのせいで過半数の信徒と職員がでていったわけですけれど、信徒の感情を勘違いしていたのはまちがいないわけでしょう?それを無視して相手にもうすでに洗脳されてたとかそんなこと言ってたら、それこそ救世教の方のカルト化を世間に認めているようなものなのでやめてほしいのですよね。事実は自分がしたアクション、情報の提示し方によって信用を失って出て行ったので、それ以外に求めるようだと酸っぱいブドウの狐になってしまいます。

自分が信じた団体をそう簡単にやめれませんよ。信仰である以上神様は怖いのです。そのうえでの判断ですよね。

出ていく判断をさせたのは誰なのかですよ。

その状況で他の何かのカルトを批判しても、それがとても滑稽にうつるのは分かるでしょう。「おまいう」ですね(笑)分かっていてもしないといけないとしたら結構組織として危ないのかもしれません。

いつもいうように、相手が悪いからこちらが正しいとは限らない。

だいたい世の中には主張が正しいとは限らないわけです。

相手がカルトなら自分はカルトじゃないという発想自体が危ないんですよ。

例えばあるカルト宗教が相手団体をカルトということで対比的にこっちはカルトじゃないと思わせたいのかもしれない。もしかしたら、カルト同士がつまり手口が違うもの同士がカルトカルトと言い合ってるだけかもしれない。

もしかしたら、両方カルトじゃないかもしれない。

 

もっとひどいのはカルト化に気づいていなくて自分はまともだと思っていて、まともな団体をカルトだといっている場合もあります。そういう団体は相手を批判しがちですよね。

そんな感じでね、世界メシア教は世界救世教が堕ちていくのを望んでいませんね。逆はわかりませんけどね(笑)。メシア教はどちらかというと世間でいうカルト化を嫌っていたのです。以前ここでもカルトの基準をだしましたけれどね。

ちなみに、何とは言わないけれど、弁護士情報はその雇っている団体の弁護が仕事なので、第三者的なところ、誰が相手でも同じ判断答えを出すところを情報源としないといけないと思います。

これはね結果的に、いづのめ教団は世界メシア教というか4代教主様への加害者であると同時に情報リーク元からの被害者に見えるわけでしょう。またそういう立場なのはいづのめ教団だけでしょ?被害の立場の方を認めていないか、認めれない状況にあるんじゃないかなって見えてしまうんですね。

親子関係で言ったら、虐待されたので家を出たら、親は虐待を認めないで、俺は虐待していない出ていったこいつがおかしいのだって言っているのと似てませんか?

この場合はこれを見て親を正しいと即座に判断するのは、同じ毒親か毒親に洗脳されている家族くらいなものです。親が親をするのを放棄して誰に対しても何かを要求する子供な立場をとっているわけですからね。

いづのめ教団はお前の言うとおりにしたらこうなったじゃないか、信徒が過半数出ていったじゃないか、どれだけ被害を受けたと思うんだっていうのはメシア教には言えないわけです。相手が違いますね。また対応も違うように思いますね。

勘違いしているのか、すでにそうできない状況にあるのかわかりませんけれどね。

信仰は自由ですし、そもそも何かのサービスとしてもお客様の賛同が無ければサービス終了なのです。それをお客は分かってない、とかにして何かの食品業界でもあった「食べたくないという人は、食べなければいいのではないか」と俺たちの判断が正しいなぜわからないみたいなひとりよがりに感じる発想で話しているように見える。

言葉っていくら整えても、その発信源、思い、願い、目的は変えられないので、意味は変わらないんですよね。これは言葉というより言霊の方の基礎でしょ。

だからそう受け止められたという事実を本当に受け止めると、自分が批判して使っている言葉のとおりに自分自身がなっていたのかもしれない。と思ってみるのも大事ですよね。

言霊としては、そうなるような念がこもってしまっているわけですよね。

そうすると相手を憎むあまり、その話している姿に自身がなっていた。なんてことに気づくこともあるわけです。

もし相手がそこまででもなかった場合は妄想をつくり、自分が妄想の人物になっていたとしたらこれが邪神の力なんですよ。ここにとらわれないためには欲を判断にしない努力がいるわけですよね。

 

そういう欲の心は湧くようになっているので、そこを判断して自制するのが基本的な修行なんですけどね。

とらわれてしまうと、何かの拍子に一瞬正気に戻るのはもう引き返せない時です。その時に勇気を出して戻れるか否かですよね。勇気を出せばわかるのは、引き返せないのではなく、すべてを犠牲にすれば引き返して戻れるギリギリだったりもしますよね。

信徒はそういうとき、よくお気づけだといって、慌てて献金したり、御用したり、神様に祈ったり、していなかったことをするでしょ?確かにそういう意味では危ない方向に向かっていたわけなのでそれで正気に戻る人もいるわけです。

それを逆に利用してとらわれを継続させる人もいるので注意が要りますけれどね。

それで、もっと大きく考えたら、今回この情報で起きた騒動、得したのはリーク元と世界メシア教でしょ?

 

両社は目的においては達していますね。打算的に言えばですが、一番は全体の掌握を伴ってできればよかったのでしょうけれど、そもそもの目的は達しています。リーク元は救世教内での発言権が増せばいいのですよ。そうなるといづのめ教団が盗撮情報で成功してもしなくてもメリットはありますよね。一番は4代教主様派をなんとかしたいように見えませんか?そうなるとそれ以外の思想体系で統一したいように見えます。メシア教は教主様を大切に中心とした新体制が確立できるのが大事ですね。もちろんそこに元の救世教が含まれているとなおよいわけです。

そう考えると気を付けて改めないといけないし、何が大切かもわかるように思います。だからいづのめ教団が世界メシア教に目を向けさせられていること自体が良くないと思うのです。もしそれをいづのめ教団内部ではなく外部から誘導されていたとしたら、すでに裏では一元化していることにはなりますけれどね。そうなるといづのめ教団がどうなっても良いことになるので、それは考えたくないですよね。

だからね、どちらかというと世界救世教内部の方を注視し、そちらに全力を傾けたほうが良かったのではないかと思いますね。

論点が違うわけですよ。情報が正しいとか、やっぱりそうだったではなくて、そういう悪につながる行為の部分へのアクションが無いのが問題です。これでは、まともな人の信頼は得られませんし、霊界が無防備に感じてしまいます。

だって証明出来て勝ったとしてもそのあとが続かないでしょ。次責められるのは自分ですからね。

スポーツでも記録は大事ですが、記録だけ見ているとドーピングしてでも結果出したらということにもなります。それ意味ないでしょ?後ではく奪ですよ。でもね欲に駆られて魔がさして副霊に支配されたらそういうカンフル剤的なものに手を出すのが人間でもあるでしょ。

そうならないで、それより日々の努力がスポーツを道として捉えたら大事で、それによる最高の結果が大事ですね。

そうすると、結果より普段の生き方の問題になります。その日々の生き方が曲がっていなかったら今回のようなこと、起きないように思うんですね。

だから宗教的な話は一切きかないと思うんですね。引用されてもね。テストの答え合わせをしているのではない。中国である時期から科挙(過去の中国における高級官僚を登用するための試験制度)が機能しなくなったことをある本で書いていますね。科挙自体は立派なことなのですけれど、テストのためで、実行するために学ばないと意味がなかったわけでしょう。

教祖のお言葉でも丸暗記したところで、それを実践しないようではそれの本当の意味を勘違いします。

知っていたらいいんだ、しなくてもいいんだということを実は心が覚えてしまうわけです。

そのごとく話すこと、伝えることが目的ならそれは学問と同じでしょう。思想を学びたいわけです。

この点を思っている信者さんも結構いるんだけど、その辺が分からないようです。

今回の事だけでなく、いろいろなところにそういうドーピング的なものがあったんじゃないかと思われてしまいますよね。

分かっててもやってるんなら、引き留め政策でしかないのでもう先への希望が持てないわけです。

そもそも悪魔、邪神、副霊の影響を受けない思想で活動しないといけないのですよね私たちは。教義がとかやり方がではないのですね。そうならないようにしていたら自然そのごとくしています。逆ならやり方を話せてもその人はしていません。

教義はそのためのひとつの基準です。

教祖は教義のような基準があるようでは本当ではないと言っているのですが、最初からそうは行かないから用意をしただけですよね。戒律も同じ意味ですね。戒律を拠り所にしているようではだめで、そういう邪な感情が起きなかったり、気を付けられるようになるよう神様と繋がるのが信仰です。明主様の目指すものです。そこを目指したい団体としては盗撮行為そのものが神様を信じていない行為になってしまうわけなのはわかるでしょう。

 

また神様は死んだっていってしまっていることになりませんか?

 

だから論点が違うのでメシア教にほとんど通じていないわけです。で、なぜその通じないところの話をしているのか、だれにしているのか?ですよ。

何とは言いませんが、ここがそもそもわかってないような発言が目に付くんですね。

その点では主之光教団が教主不要論を改めて、教主様に倣うとしたのは、失格の烙印を押されていた側が再び神様とつながるための革新的なことで、やり直し、神様の許しの代表的なことだと思うんですよね。これは、もれなく全人類を救いたい神様の象徴的な事じゃないかと思うんですよね。

だから私が思っていた以上に今回は望み薄なのかなあと最近感じていて、そこは落胆しています。

ですのでね、正直あまりこの辺り、思っていても書きたくないのだけれど、書くようなぜか促されるので必要な人もいるのかもしれないですね。

何回もこの文章破棄しているんですよ。そこまで伝える意味が分からない。ここまで説明が必要ならもう意味がないんじゃないかとも思うんですよね。

ただ、内部にいたらもっと絶望感を味わっている人もいるんでしょうね。共感を得たり勇気づけることもあるのかなと思ってたりします。

いづのめ教団はメシア教からいづのめ教団に戻った人の証言をとりあげていたりしますけれど、これは逆もまたしかりなんですよね。最近、いづのめ教団からメシア教に来た人はいづのめ教団に否定的になるでしょ?

だからね、そこにあまり意味はないですよね。都合がよいと人は本当に手のひら返したように言いますからね(笑)。このサブ的な情報を証言とか証拠にしても仕方がないわけですし、それしかないの?ってなるわけです。

なので私の見ていた以前のいづのめ教団とは最初に世界メシア教に来たいづのめ教団の人たちだったんだなと感じてしまうんですね。

繰り返しですが、教祖は救世教には教義がないことを言っていますし、神様を信じる人になればよいのが根本なのですよね。教義はわからない人向けのとっかかりで、そこを目指してるようではいけないようにも感じます。そこの先というか、そこが問題にならないくらいの善性がいるわけです。あまりいうとレベルが高すぎて引くからぼかしているくらいなものですよね。ぼかしているところを真に受けていると教義がとかになってくるわけです(笑)。

悪人は厳しくするとあきらめる。でしたか?

そうして、大悪魔は善人を装うのです。簡単そうなできそうで人が信じそうな満足しそうなうまい話につながる方法を提示しますよね。


そういえば、
詐欺の手口も同じですよね。オレオレ詐欺とか効果証明されてない健康グッズ販売とかね。

満足するときの感覚を心穏やかに思い出してみたらいいと思います。
なにかほしいものが手に入ったり、おいしいもの食べたり、欲がかなえられた時と、人のためになったり、神様の願いが叶ったり、人が救われた時の喜び満足の感覚は違うでしょ?

言葉は一緒かもしれないけれど、全然角度が違うと思います。

前者は副守護神はじめ悪魔側の喜びであり、後者は自分の魂、主神の分霊の喜びですよね。

悪魔側も生存のために必要だけれど、信仰者が意識して得たいのは後者の喜びですね。


ベースと結論が違う。原因と結果が違う。そこを見つけるのが覚者でしょ?

覚り、直感的に悪を見抜く力をうばってくるんですよね。

だからそういう意味では覚者は時々に時代時代に適切な方法を提示できるのです。

過去の事例にとどまってずっと昭和の方法を提示しているようでは覚者ではないでしょ。

このへんですよね。ベースのところを狙われたという感じがします。

正せるとしたら、責任あるのはいづのめ教団だけなんでしょうけれどね。今の世界メシア教には関係ないことですからね。

いづのめ教団の主張は基本がメシア教の”拒絶”から入っているので、そこがまず間違いに感じます。パワーかフォースかという書籍でいうと、フォース側のレベルになってしまいます。それなら逆にもうメシア教のことは忘れて話題にも出さないくらいの方がましになると思いませんか。

 

方法や悪かった探しをしていても「はっ」としないでしょう?覚りを得たり革新的な何かに目覚め、心も頭も晴れていくときは論理が組み立った時より、考えてるベースの思いが切り替わったときでしょう。切り替わるからこそ論理が成り立っていくのですよね。

 

拒絶ではなく、寛容とか別の神様よりの思いで見てみると、霧が晴れて気づくことがあるかもしれませんね。そのための宗教儀礼なのですけれどね。

善と悪を作られた神様は、という事にもなっていないように思います。教義というならその辺に違和感を感じませんか?対比的対立的に説いて、どっちかにしてしまっていますでしょ。

善と悪の両方を作られ、その上におられる主神

そこに話が行かないについては何をしているのかな?と思ってはいるんですね。

もとのいづのめ教団はもっと中庸的で中立的で、悪く言えば適当でしょうし、よく言えばちょうどよいのではなかったのでしょうか?”いづのめ”という言葉通りにですよね。

…これ、ここで3分の2くらいなのですよ。神様なのか祖霊なのかわかりませんが、ここで勘弁していただいて、必要なら後半も出したいと思います。(基本出しません)

無理やり終わります。あまりこういうのは書きたくないので、いやそうならすぐ消そう。

どちらかというと、教祖のあまり出ていない情報を紹介したり、私はこう考えるよって書くほうが楽しいですよね。