ぼくは占い師じゃない -29ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

ミケ様

にゃんこ先生です。

梅雨です。
いかがお過ごしですか。

だからどうだってわけじゃない。
だけど天気の話題は不滅ですね。

   ☆

用語の説明。

ふりかえってみますと「爻<コウ>」ぐらいしか出てきませんでした。

切れた線が「陰」をあらわします。
「陰爻」ともいいます。

つながった線が「陽」をあらわします。
「陽爻」ともいいます。

陰と陽は「ひとつのもの」にあらわれた差異です。
「ans003_03音」あたりで、お話させていただきました。
その話で出た絵をもう一度載せます。

【fig004つつかれた境界線】

ちょっとおさらいします。

透明なジェルで一杯のマル。
真ん中には境界があって、それをつつく。
マルはジェルで一杯だから、つつくと「同時に」境界の別の所がでっぱる。

そんなイメージでした。

つついて、でっぱる。

この動きをもう少し詳しくみてみたいとしたら……

どうしたらいいでしょうか?

   ☆

ひとつの爻であらわしていた、つつくという動作と、それに応じて起こる、でっぱるという動作。

爻をふたつ重ねたシンボルをつくって、つつく、でっぱるというプロセスの中間状態をあらわしてみてはどうでしょうか。

上の絵は、下の絵のようになるんではないでしょうか。

【fig018 fig004をさらにくわしく】

陰爻と陽爻ふたつだけだったシンボルは、4つのシンボルになる。

これを四象<ししょう>といいます。
「象」はカタチ、シンボルのこと。

術として易を使う場合には、あまりこの単位で観ることはないのでスルーされがち。

けど、シンボルの数が4つになっただけで、易という言語はずいぶん雄弁になります。

本筋ではないのでとくに説明はしませんが、観たての例を下の絵にならべてみました。

【fig020四象であらわせるイロイロ】

   ☆

もうひとつ大事なことがあります。

変化をあらわそうとするとき、陰爻と陽爻ひとつづつしか表現する文字がないと、スイッチみたいに、パタパタ切り替わる様子しか観てとることができません。

だけど、中間状態が表現できるようになると、よりなめらかな周期をそこに観て取ることができるようになります。

これは根源的な「時間」の出現ともえいえるのではないでしょうか。

【fig019根源的時間】

だれが「観て取る」の?

絵の中に答えを書いちゃってるけど、人間の意識が「観て取る」。

易経は別名「変化の書」と呼ばれているのに、おかしなことを言うようだけど、四象は静的な状態で常に在る……と、イメージしてみてください。

いや、四象のみならず「すべては」そこに在ると。
(「ans004_08対話」、「アカシック」参照)

そうすると運動や周期は、時間という「観て取り方の一種」が引き起こす感覚になります。

動いているのは相手じゃなくてこちらのとらえ方。
ある意味、「反転」ですね。

「ひとつのもの」のサブセットである人間の意識が、時間や運動や周期として、四象であらわされる、これまた「ひとつのもの」の別の部分、サブセットを、そのように、観る。

スピ系の話では手垢の付いたたとえ、フィルムのコマと、スクリーン上の映画のたとえをここでくりかえすのはやめておきます。

もし、完全なすべてが整然とスタティック(といっていいのかわからないけど)にあったとしたら、変化や運動、時間といったものは人間の意識の創作物だということになります。

もしそうだとすると易の別名「変化の書」は、タイトルを改めなければならないでしょう。

「意識の書」と。


今日はこんなところで。
つづきます。

   ☆

LINKS

→ミケさんの質問

 

 



「ans003_03音」

 

 



「ans004_08対話」

 

 

 

ミケ様

にゃんこ先生です。

満月!満月!!
とと、おどっちゃいけない。
タヌキじゃなかった、わし。

   ☆

「ans003_01ひとつのもの」で、「これからの話はずっと、『方便』なんだよ」というお話をしたかと思います。

「ひとつのもの」は認識することはできません。
「認識」には、「認識するもの」と「されるもの」の、ふたつが必要だからです。これでは「ふたつのもの」になってしまいます。

あえてそこはスルーして「ひとつのもの」をつかみとろうとする試み、それがここでいう「方便」です。

   ☆

易には64のシンボルがあります。

その中から無作為に一つのシンボルを選んで、質問の回答として観立てる。
簡単にいうとそれが易占です。

「易システム」はこの64のシンボルのさまざまな地図/マトリクスの集まりです。

地図によってシンボルの配置はちがっています。
占って無作為に選んだひとつのシンボルの「背景」が地図によって変わるということです。

伝統(周易)では回答として選ばれたシンボルと、必要に応じてそこから派生する数種類のシンボルに着目して占います。

易システムとしては、占って出たシンボルだけではなく、少なくとも背景として位は他の63のシンボルもマトリクスというカタチで考慮しようとしています。

無茶ではありますが、システムの方向性としてはそういうことです。

   ☆

「常に他の63のシンボルも考慮する」。

これはつきつめると「いつも回答は同じ」ってことにならないでしょうか。

何を質問しても目の前には、選んだひとつのシンボル+他の63のシンボル、合計64のシンボルが「いつも」並んでる。

タロットでいえば78枚スプレッドみたいなもので(そんなのあるのかな。よく知らない)……目の前には64のシンボルがある。
いつも。
「いつもかわらないそれ」。
どこかで聞いたことはないでしょうか?
そうです。
「ひとつのもの」そのものです。

   ☆

伝統的な易でどこかにそのように明示的に書いてあるかどうかはわからないけど、64のシンボルは森羅万象をあらわすってことになってます。
漏れがあるのでは人事百般(あらゆること)は、占えませんよね。

易システムでは64のシンボルでできたマトリクスは「ひとつのもの」と対応している……と、さらにそれを拡大解釈しようとしています。
ムチャです。
方便全開です。
そのムチャな様子を絵にしました。

【fig017 マトリクス】

たった64だから網の目はとても粗い。
だからせめて何種類か地図を用意したというわけです。

「ひとつの地球」を把握するのに、メルカトル図法があったり、等距離図法があったり、ダイマクション地図があったりするのと同じことです。

   ☆

ところで「空間」にある座標は数えることができます。その数の多い少ないは別にして。

それはコミュニケーション・スペースも同じです。
たとえ無数に座標点があったとしても数えることはできます。

「ひとつのもの」ものは数えられません。
数えるという概念を持ちません。
そこに座標を設定することもできません。

だから空間であるコミュニケーション・スペースと、「ひとつのもの」は完全に同じじゃない。
今まで「ほぼ同じ」と言ってきたのはそういう意味です。

「空間」は「ひとつのもの」を近似的にとらえたもので、まさに方便です。

言語も空間です。

今、にゃんこ先生は日本語という言語空間から、コトバを選んでこうしてブログを書いています。

「ひとつのもの」を直接認識することはできません。「認識」が成り立つには、「認識するもの」と「認識されるもの」が必要です。
それは最初に書いたとおりです。

もうひとつ必要なものがあるような気がします。
「認識」が成立する「場」です。
それがここでいう空間です。
方便としてではありますが、空間をつかって「ひとつのもの」を描写することもできるのではないでしょうか。

   ☆

易のシンボル・セットのすばらしいところは、その空間を成立させている座標点が少ないところだと思います。
確かにその分、ものすごく粗くはなります。
易システムではそれを欠点とはとらえません。

64の参照点というのはにゃんこ先生のような凡人の顕在意識がぱっと把握できる、ぎりぎりのところなんじゃないかとも思います。

これってつまり、慣れれば「ひとつのもの」を普段使っている顕在意識という手のひらにのせることができるってことではないでしょうか?
近似的にではありますが。

「ひとつのもの」はすべてです。
別れた恋人も、今は没交渉の同僚も、亡くなってしまったバーのマスターも、なにもかも、です。

一方、易のひとつのシンボルの情報量はたったの6ビットです。6という数が記憶のマジックナンバー7に近いのは、偶然ではなかろうとも思います。

何千年の時を経ても易のシンボル・セットが残っているということも。

つづく。

   ☆

タイトルは好きだった(というわりに内容は忘れてる)フレドリック・ブラウンのSF小説のタイトルをパクリました。

   ☆

LINKS

→「ans003_01ひとつのもの」
→ミケさんの質問
 

ミケ様

にゃんこ先生です。

たいがいの猫は人語を解します。
そして人語を話すことができます。
話すのは掟で禁じられています。
まれに掟やぶりの猫もいます。

   ☆

質問があとひとつ。

だけどこの質問の答えが一番長くなるでしょう。

「(Q005)たくさんの特定の用語(名称)が出てきますが、整理して教えていただけますか?」

これについては、にゃんこ先生も反省してます。
ちょっと独自用語が増えすぎました。
でも言葉って便利ですよね。
一度定義づけてしまえば同じ説明をくりかえさなくても済むから、ついつい調子に乗って増えてしまいました。

「易のもともとの概念の、どこを指しているのか?
またはどこを発展させた名称なのか?その名前がつけられた視点がわかるとありがたいです。土台の概念の部分なので、言葉での一覧だけでなく図解してあると、今後の学びの時に使えるリファレンスになると思います」

はい。おっしゃるとおりです。

ただ、今は使ってない用語とか、そこまで「用語化」する必要はないんじゃないか……と思われる用語も多々あります。

にゃので、ここからは主要な用語について「あいうえお」順とかじゃなくて、易システム全体がわかるような話に沿って説明していきたいと思います。

その前に。

今回は易システムを構成するドキュメント(著作(私家版コピー(PDF)本))をざっとふりかえります。

たぶんこれから先、易システムに関するドキュメントが大幅に追加されることはないと思います。
付け加えておくと、これらのドキュメントはTeXで書いたのですが、もうソース環境もなく修正もできません。「予告なく修正」もできないというわけです。

まあなんか、やっとある程度、全体が見通せるようになったということでしょうか。

   ☆

ドキュメントの数としてはそんなに多くありません。たった4つです。

(1)易システムハンドブックV2.03
(2)風と羅針盤
(3)MAP13
(4)後天動因図

この順番で書いていきました。

最初の「ハンドブック」が2010年で、最後の「後天動因図」が2015年だから、だいたい1年半につき1冊というペースで追加していったことになります。

カンタンにコメントします。

(1)易システムハンドブックV2.03
主要な概念はこのドキュメントに。
ただ正直、まだこの段階では今までこのブログでお話してきたような世界観(コスモロジー)はありませんでした。
今となっては古い試論(私論?)もあります。
だけどこのドキュメントがすべての基本であることに変わりはありません。
B5で400ページ以上の本ですが、その半分は八卦や六四卦、ツイストペア(後述)のリファレンスになっていて、正味は190ページくらい。

(2)風と羅針盤
ハンドブックの続編。
「人間から観た」宇宙の法則として冒頭に10の項目をあげています。「ひとつのもの」はその筆頭で登場。対称性、相互依存のコトバもみえます。
「人間から観た」とことわっているように、この段階では三次元時空を一歩も出ていません。
自己の境界の拡張、バリアント・マトリクスなどのモデルを通じて、「ひとつのもの」に対応した空間として、64のシンボル(64卦)を意識し始めた頃のドキュメントです。
ボリュームはB5で290ページくらい。

連続しているのはここまで。

(3)MAP13
(4)後天動因図

このふたつのドキュメントには個別のトピックについて書かれています。

(3)MAP13は、日常的な時間とその節目をあらわすシンボルと、各節目の背後の高次元にあらわれるシンボルのマトリクス、「MAP13」のお話です。このドキュメントのおわりの方で、はじめて「反転」についてふれています。

【fig009 反転】

いってみいれば、(1)(2)を書いた頃はまだ「反転」という視座は意識されておらず、Aの視座であったわけです。

で、

(3)で反転した視座に気づいて(すぐもどっちゃうんだけどね)、Bの視座も意識しはじめ(すぐもどるんだけど)、(4)では完全に反転したBの視座で書いたつもり……(くりかえします。すぐもどります)そんな感じでしょうか。

(4)後天動因図は、形而上学的な宇宙、コミュニケーション・スペースにおける、創作神話です。

(3)MAP13はB5で120ページくらい、(4)後天動因図は、B5ヨコで60ページくらいです。

う〜ん、今回は結局コマーシャルに終始してしまいましたが珍しくキレがよさそうなのでこのへんで。

それではまた。

   ☆

LINKS

→ミケさんの質問

→易システム関連ドキュメントはブログトップ(PC版)のメッセージボードから参照してください。
PDFドキュメントです。
すべて無料、閲覧、複製、配布自由です。
→こちらから。

「(1)易システムハンドブックV2.03」は猫乃電子出版の田邉さんが根性で作成してくれたRomancer版もあります(すいませんねえ)。
→こちら

ミケ様

にゃんこ先生です。

こんのカラス野郎!
そこに巣作るんじゃねい!
ったくサイキンの若えカラスは……
あ、すいません。
ちょっと取り乱しておりました。
ここらでちょっと今までの回答をまとめます。

   ☆

(Q001) 易って何ですか?

易は言語です。

コトバの大本にはまず「音」があります。
可能性の海に生じた根源的な差異が、易というコトバの「音」です。

コトバですから、文字があります。
易では、最初の音と、それに応じて生じた音に、つながった線という文字(陽)と、切れた線という文字(陰)をあてはめます。これらの線を「爻<コウ>」といいます。

言語は世界観(コスモロジー)を形成する重要な要素です。易は言語です……
てか、これは本当は「世界観を構成する主要な仕組み」を「言語」という言葉でひっくるめたかったんです。

どんなカタチのものであれ、世界観をなりたたせるのに重要な役割を担っているものは、とりあえず「言語」と呼んでみてはどうかなあ……ってそんな感じ。まあ、乱暴、雑駁、アバウト……な話です。

   ☆

(Q002) そもそもの易の世界観を教えてください。

伝統の説明では(だいたい)こうなります。

「まず一大「元気」があった。それが陰(地)の気と陽(天)の気に分かれ、それらがいろんな比率で混じり合って、万物が生じた」

この説明ではわからにゃ〜いことが多い。
なので、にゃんこ先生の独自解釈ということで、「易システム」というのができてきました。

   ☆

(Q003) この世界とはどんなものなのでしょうか?
捉えているスタンス(視点・出発点)を明確にしてもらえますか?

◎ 易システムでは世界は「ひとつのもの」だととらえています。

◎ 陰陽はこの「ひとつのもの」に現れた根源的な差異。

◎ 易システムでは三次元時空(日常世界)に現れる万象はすべて、その差異から成り立っているととらえます。

◎ 陰陽はかならず対称に現れます。易システムからいえば、世界は認識というものが起きる根源のレベルから、すべからく対称であるということになります。

……と、この辺までは、伝統的な易とそんなに大きくはズレていないと思います。
なんだけど、ここから下の話は、伝統からは読み取れません。

だけどまあ、道教におけるタオと、「ひとつのもの」または「コミュニケーション・スペース」はほぼ同義と思ってもらっていいと思いマス。

◎ 三次元時空は人間または人間と同等か、それ以上の複雑さを持った存在の集合によって支えられている「作品」ともいえます。これはまた「合意的現実」とも呼ばれます。

◎ 「合意的現実」は実際はココロによって所有されている、ココロによる構築物、ともいえそうです。

◎ ここでいうココロは、個人的なものではなく、「ひとつのもの」そのものか、あるいはそれにほぼ近い、場、空間、ひろがりのことです。

◎ 易システムでは、これを「コミュニケーション・スペース」と呼びます。

人間の意識は「コミュニケーション・スペース」のフラクタルなサブセット(一部分、真部分集合)です。この前提があるので、人間を探求することは、すなわち、宇宙を探求すること、という照応が成り立ちます。
この照応のもとに、各人の意識が、日常的な時間や空間(もっといえば物質も)の創出に参加しているともいえそうです。その様子を下の絵に示しておきます。


【fig016 ほんとはぜんぶ「ひとつのもの」】

   ☆

(Q004) 「易システム」がわかることで、どんなことができるのですか?
私たちの生活に何か利点がありますか?
どんな風に活かしていくことができますか?

占いができます。

拍子抜けする答えかもしれませんが、システムと「対話」することができるようになるということです。
ただし、それによる万人共通的御利益は約束できません。

なぜなら、個別の、個々人として生きることは「ひとつのもの」が欲する基本的な目的だからです。
したがって、具体的な利点とか活かし方というのは個別にならざるを得ません。

「ばらばらの個人」というのは「ひとつのもの」が「ひとつのもの」である限り「絶対に」得られない経験です。

言い換えると「人それぞれ、あなた次第、ということ自体」が「ひとつのもの」の目的なわけです。

それを踏まえた上で答えるなら、易システムは、「原初の衝動」に気づいた個人が、自己の境界を拡張する道を選んだ場合に、そのガイドとなる枠組みを提供できる……かもしれません。

また、システムを利用する(「対話」する)ことによって、「ひとつのもの」に気づくようになる……かもしれません。

この方向に気づけば、易システムは、

「自分とは、広大な三次元時空内で、肉体という『瓶』に閉じ込められた、その『瓶』の中で、『瓶』の偶然による形成に伴って、これまた偶然に一時的に発生した、はかなく、よくわからないもので、同じような事情の無数の『瓶』……個別的存在どうしが、互いに争い、傷つけ合い、奪い合い、強い『瓶』が勝ち残るという世界に、気がついたら仕方なしに住まわされていて、でも勝ち残っても結局、勝ち残った『瓶』もやがていずれは壊れて消えていくわけで、最後に残るのは、冷たくただただ無限に広がる三次元時空だけで、えーと、えーと、やっぱりいくら考えてもわからないもので、仕事や学校もあるし、そんなことは考えてもしょ〜がないので、とりあえず今が楽しきゃそれでいいや、という、なんかやっぱりよくわからなもの」

といったようなコスモロジー(ばらばらコスモロジー)またはニヒリズム(*1)がひきおこすさまざまな課題を、解決する糸口の、方向性くらいにはなる……かもしれません。

「システムを使用」する方法としては、今のところ、「占う」という方法しか示せていません。
他のシステムには瞑想法や(銀河ツール)、錬金術的な方法(周易参同契)もあるようです。

   ☆

長い道のりでした。

だけど……
まだ質問が残っています。

つづく。

   ☆

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→ミケさんの質問

(*1) ニヒリズム
「信じるものなど、なにもない」
とつぶやきたくなる考えのこと。
ただし、そう言ってる自分の言葉はしっかり信じているのが特徴。
これをつぶやくと、ちょっとカッコいい。
「信じるものなど、なにもない……信じるものなど。」
と、反復法を使うと、よりカッコよさがアップするようです。

ミケ様

にゃんこ先生です。
いや、あったかい。
そして……眠い。
うにゃっ。

   ☆

前回は記憶の話でした。
なにか連想しなかった?
アカシック・レコードとか。

アカシック・レコードは、一般的にイメージされているような、どこか「あっち」の方にある、データバンクや図書館のようなものじゃない……と思う。

データバンク、図書館というのは、おそらくは、アクセスのための「方便」としてのイメージでしょう。

アカシック・レコードそのものは、想像も視覚化も不可能な情報空間だと思います。

なぜ不可能かというと、三次元時空(日常世界)的視座から観ると、あまりに無限で、あまりに階層どうしが入り組んでいて、あまりに浸透しあっていて、とらえようがないから。

「想像も視覚化も不可能」ってのは、どこかで聞いたことがあるよね。

そう。
「ひとつのもの」。

アカシック・レコードというのは「ひとつのもの」の別の側面だと感じます。

ぼくたち個人として生きる『ひとつのもの』は、自分たちをも含む全体としての「アカシック・レコード」に、個人的な「物語」を貢<みつ>ぎ続けている。
それが、三次元時空におけるぼくたち個人という存在の基本的な役割だからです。

もっといえば、そのぼくら自身も、実は、アカシック・レコード(記憶)で出来ているといってもいいんじゃないか。
アカシック・レコードは、遠くにありて思うものではなくて……
ある意味、すべてがアカシック・レコードだということができるのでないかと。

   ☆

さて。

お話は夢物語の様相を呈してまいりました。

これが「夢」ではなさそうだな……

そういうこともありそうだな……

って、

確認する方法はあるのでしょうか。

それにはやっぱりね、「占ってみる」しかないんですわ。

「システムを使う」ってことね。

今のところ、易システムとしては、「占う」という方法でしか、その入口を示すことができません。

他システム、たとえば銀河ツールには「コドン立方体の瞑想」とか、「周易参同契」という古典では易の錬金術的応用について書かれているようですが……

ま、他システムなんでね。

   ☆

占う、といっても、ただ占うのではなくて……

しつこいようですが、もう一度「反転」の図を見てください。

【fig009 反転】

ただ単に、近い将来の行為を安全にするため、とか、目先の損得のために占うことを繰り返しているだけでは(それが悪いわけではありません。それでもシステムは返事をくれます)Aの視座を一歩も出ることはないでしょう。

というより、ますます、Aの視座にのめり込んでいくことになるのではないでしょうか。

Aの視座「しかない、それだけが真実」ということが、無意識の前提になっていくわけです。

ますます強く。

無意識の前提だから、その視座を疑うということすらありません。

疑念も問いも上がってきません。

こうなるとバラバラ・コスモロジーにまっしぐら。

そこから出てくる結論は、ニヒリズム以外にないんじゃないでしょうか。

そうではなくて、Bの視座も踏まえて、念頭において、あるいはそのつもりで、「占う」。
というより、AとBをスイッチするために「占う」。

この辺のことについては、易システムのドキュメントである「MAP13」の終わりの方に書かせていただきました。

このような、「占う」という行為に、ふつうの意味での占うという言葉を使うことは妥当ではないかもしれません。

システムとの「対話」をくりかえす、といった方が適切かもしれません。

ミケさんの質問、「易システムを知ると、なにができるようになるか?」の第一の答えは、「占うことができるようになります」でした。

この答えの別バージョンの答えは、システムと「対話」することができるようになる、ってことだと思います。

「対話」が深まれば、「ひとつのもの」が姿を現す……かもしれません。

   ☆

その「対話」のためのツールも「易システム」の一環として作りました。

それが「WINDWATCHER」というカードです。

カードに答えが書いてあるわけではありません。
残念ながら。

基本的に白紙のカードです。

答えは自分でみつけてください。
そういうスタンスで作ったカードです。

コマーシャルが入ったところで……

じゃ、またね。

   ☆

LINKS

→ミケさんの質問


→風を観るもの
 「WINDWATCHER」カードに関する記事

→「WINDWATCHER」カードを含む、易システム関連ドキュメントは、PC版ブログトップのメッセージボードから参照してください。PDFドキュメントです。
すべて無料です。→こちらから。

ミケ様

にゃんこ先生です。

例のオッドアイの彼女とお話ができました。
こないだ初めて。

「にゃあ(おはようございます)」
「にゃあ(いい天気ですね)」

まあ……そんだけのことなんだけどね。

   ☆

今一度、この図です。

【fig009反転】

AとBを自由に、行ったり来たりできるようになることが目標……てな話をしました。
これは、振り子かシーソーのようにパタパタと状態を変えるという意味ではありません。
「行ったり来たり」という言葉がよくない。

そうじゃなくて、AとBの両方のステータスに同時に居る……といったらいいのか、「統合する」といったらいいのか。

そういうことでございます。

と言われても困るだろうから、絵を描きました。

【fig015統合】

【fig009反転】の絵とあわせて観てください。
同じことを別の表現で描いたものです。
有名なメビウスの輪です。
AはBであり、BはAである。
「表(裏)はどこから?」という明確な境界はありません。そもそも裏表がない。

ということは実は、AもBもないということです。
もとをただせば「ひとつのもの」ってこと。

AとBは立ち位置、またはパースペクティブ、観え方の違いであって、AとかBという実体があるわけではありません。

   ☆

この「反転」と「統合」については、易システムのドキュメントのひとつである「MAP13」の後の方で言及「しかけて」います。

そこでは、反転しながら循環する世界を描こうとしていました。

私たちの経験はすべて「陰」と「陽」に「パッケージング」されて、それが反転した次の宇宙を創造する材料を提供する……で、全体はこれを繰り返す。

今はそんなふうにとらえていなくて、反転は人間の根本的な機能に起因していて(個別化は宇宙の願いで、その行き着く先に反転がある)、循環はこの宇宙の根本的な運動(衝動)として、常時起きていることだととらえています(「ans003_03音」で書いた宇宙が宇宙を「つつく」動作)。

ま、それが「正しい」ことかどうかは別にして。

AとBとの「境界」はない、と書きました。

でも、Aの方向から観た風景と、Bの方向から観た風景をつなぐものはあると思います。

それが、「記憶」です。

   ☆

ここでいう「記憶」は、こないだ魚食ったのはいつだっけかなあ……とか、そういう記憶ではなくて、パターンのようなものです。
テンプレート・鋳型といった方がいいかもしれません。

「ひとつのもの」においては、すべてが「同時に」あるわけですが、鋳型には無数の階層があり、動的に変化します。

「動的に変化」といったところで、時間の要素が入り込んできています。
時間そのものにも鋳型があります。
時間を生み出す人間の意識にも鋳型があります。

そんなお膳立てのもと、無数の個別的存在が、つまるところ自作自演の三次元時空で織りなす経験は、すべて新たな鋳型として、「ひとつのもの」に登録されます。
鋳型(データ・パターン)が登録される。
経験そのもの(データ)じゃなく。

個別的経験に根ざしたパターンは、「ひとつのもの」が「ひとつのもの」である限り、絶対に得ることのできない「パターン」です。

易システムではこの鋳型を「物語」と呼びます。

つづく。

   ☆

LINKS

→ミケさんの質問


→ans003_03音

ミケ様

にゃんこ先生です。

お元気ですか。
億万長者より時間長者の方がいいなあ……と思う、今日この頃です。

   ☆

ところで、前回の絵には説明していないところがありました。

【fig014自己の境界の拡張】

「三次元時空」と「反転」ってとこを見てください。
下線が引いてあります。

真ん中の☆は「原初の衝動」。

「ひとつのもの」が、それ自身をつつく。
その「つつこう」とする思い、です。

大幅にはしょって、それが生命を生み、さらに大幅にはしょって、個人を成立させる。

その段階で「卒業」していく人も多いけど、個人、人格というレベルを超えて、自己の境界を拡張していこうとする人たちもいる……

というのは、前回説明したとおりです(→「ans004_04個人を超えて」)。

この後者の人たちの話ですが、この人たちはやがて、上の絵では「反転」と描かれた「境界」に達するわけです。
この部分には黒く太い双方向の矢印が描かれています。

なにが反転するん?

   ☆

反転については、

「ans003_05作リモノ」
「ans003_06ココロという広がり」

で、ちょっとふれました。

もう一度、絵を載せておきます。

【fig009反転】

一般的にはAの世界観が信じられていて、皆、そのような合意のもとに暮らしています。

でもそれはまったく逆で、Bの様にココロという空間がこの三次元時空を構築し、支えているという観方もできます。

そんな話でした。

全く同じかは断言はできないけど、Bの空間は「ひとつのもの」と「ほぼ」同じと思ってよろしいかと思います。

Bの空間は、現代の一般的な世界観(A)からすれば、未踏の空間です。

Aが悪くてBがいいという、そういう話ではありません。

Aが錯覚でBが真理とかいう、そういう話でもありません。

大事なのは、「両方とも」ってこと。

最初は頭で解ることも大事だけど、最終的には、実感として、自由自在にAとBの両方を行ったり来たりすることができるようになることが、まあ、当面の目標ということになるのでしょう。

だから、「fig014自己の境界の拡張」と「fig009反転」の絵には反転の所に「双方向の」矢印を描いたわけです。

このふたつの絵は、結局同じことを言ってるんですね。

「fig014自己の境界の拡張」の絵でいうなら、易システム的には、個人のレベルから自己の境界を拡張していって、「3次元時空」の淵くらいまでの「枠組み」があると思います。

「fig009反転」のBの空間の枠組みも、ちょっとだけあります。

ミケさんの質問はこうでした。

(Q004)「易システム」がわかることで、どんなことができるのですか?
私たちの生活に何か利点がありますか?
どんな風に活かしていくことができますか?

「易システム」がわかると、さっきの「当面の目標」、AとBを自由自在に行ったり来たりすることが、できるようになる……「かもしれません」。

で、その目標を達成したら、生活にどんないいことがあるのか?

答えはありません。

それは、にゃんこ先生も含めた、皆の宿題。

以下のようなキーワードがヒントになるかもしれません。

Aは局在。Bは遍在。
Aに時間はあり、Bに時間はない。
Aは部分、Bはすべて。
Aは粗大(グロス)。Bは微細(サトル)。
Aは具体。Bは抽象。
Aは低次。Bは高次。
Aはマクロ。Bはミクロ。
etc,etc……

そう、お気づきのとおり、質問の答えは、にゃんこ先生が、あるいは皆が、この宇宙をどうとらえているか(コスモロジー)ということと表裏一体です。

だけど、あくまでも「枠組み」なので、「易システム」を知ったからといって、自動的に「そうなる」わけではありません。

結局はやっぱり「その人次第!」なのかな。
ずるいようだけど。

それいったら、なんでもそうだけどね。

じゃ、また。

つづく。


   ☆

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→ミケさんの質問

→ans004_04個人を超えて

→ans003_05作リモノ

→ans003_06ココロという広がり

ミケ様

にゃんこ先生です。

今日は植え込みの中を散歩。

猫道はツツジの花に彩られ、
あきれるほど華やかです。

   ☆

さて。

すいぶんと話がそれてしまっているように思われているかもしれません。

なんか突然、輪廻の話なんか始めちゃってね。

もとの質問はこうでした。

(Q004)「易システム」がわかることで、どんなことができるのですか?
私たちの生活に何か利点がありますか?
どんな風に活かしていくことができますか?

で、いいたかったのは、

易システムは、「原初の衝動」に気づいた個人が「自己の境界」を拡張する道を選んだ場合に、そのガイドとなる枠組みを提供できる……かも知れない。

ということなのでした。

この答えを言いたかったので、これまでの説明、

ans004_03死ぬのはいやだ
ans004_04個人を超えて

が、必要だったわけです。


【fig014自己の境界の拡張】

なにをもって「自己の境界の拡張」になるのか。

これについては、具体的には答えることができません。
なぜなら、具体的な活動は、個々人によって異なるからです。

言い換えると、「易システム」に観るものは、人によってちがうということです。

易の根本からいってそうなります。

易の根本は陰陽ですが、なにを陰と観て、なにを陽と観るか。

これは、個々人ごとに別、さらに、ケースバイケースだからです。

加えて、易システム自体がまだ不完全だから、ちゃんと答えることができない、ということもあります。
不完全というのは、現在進行形ということ。

ひょっとしたら、ずっと「不完全」なままかもしれませんが。

   ☆

「自己の境界」という話には、さまざまな重要な答えが、隠れている可能性があります。

たとえば、なにをもって「真の自分」とするのか、とか、その自分が生きてる目的はあるのか。あるとしたらどんな目的なのか。

まあ、スピでよくいう「使命」とか「役目」ってやつですね。

あるいはもっと俗っぽく、「死ぬ」なにがおこるの?とか。

   ☆

後者の件については、にゃんこ先生はもちろん、死んだことがないから、わかりません。

いやまあ……死んだことくらいあるのかもしれないけど、覚えてない。

今まで説明してきたモデルの文脈で答えるなら、おそらくは、「自己の境界の変更」が起きるんじゃないかなあ……と、今のところ、曖昧にそんなことを想像しています。

前にも言いましたが、普通の意味でいう個人は、たぶん輪廻なんかしないでしょう。

かといって、失われるわけじゃありません。

「ひとつのもの」はたぶん、そんなもったいないことはしないと思います。

死によって、個人は「含んで超えられる」んじゃないでしょうか。

含んで超えた「ナニモノカ」になるわけで、それはもう普通の意味で言う個人ではありません。

そういう意味で個人は輪廻しない、と言ったわけです。

だけど、なくなるわけじゃない。

含んで超えた状態から観る「個人」は、どこか他人のような、夢の中の自分のような、そんな感じがするんじゃないでしょうか。

真偽はともかく。

そういうこともありうるということを、「まったく」認めていないとですね、いつまでも、いつまでも、三次元時空にいた従来の個人という感覚と、自己の境界を重ね合わせようとする……ということになるでしょう。

その人にとってはその在り方「しかない」から、他の在り方は考えられなくなってしまう……ていうか、ハナっからアリエナイわけです。

そんなようなままですと、三次元時空から離れて(死んでから)、ココロの領域になじむまで、固定的な観方がひっくり返るまで、ちょいと時間がかかるかもしれない。

だから、予行演習的に今のうちから、それをやっておこうという気持ちは、たしかに、にゃんこ先生の中にはあります。

え?なに?

「易システム」って、死への準備なの??

ま、そうかもね。

つづく。

   ☆

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→ミケさんの質問
→ans004_03死ぬのはいやだ
→ans004_04個人を超えて

ミケ様

にゃんこ先生です。

居酒屋の前の看板代わりのフェイクの樽の上。
すばらしく居心地はいい。
でもいいことづくめじゃありません。
寝ているワシに、タバコの煙を吹きかけるイタズラをする酔っぱらいがいましてな。
なんか知らんけど、最近は店もやってないので、奴も来ませんが。

   ☆

さて、個人はコミュニケーション・スペース、すなわち、「ひとつのもの」から現れては、「ひとつのもの」へと消えてゆく……そんな話でした。

現れては消えるといっても、泡みたいにブクブク、パチパチ、現れたり消えたりするわけじゃなくて、現れるのも消えるのも、段階っていうか、グラデーションがあります。

そこんとこを含めて、前の図を描き直したのが下の絵。とりあえずひとつの個、個人にフォーカスしてます。


【fig013コミュニケーション・スペースから現れては消える個人2】

現れては消える過程を、仮に、三段階に分けて描きました。

(1)はまあ、オギャアと産まれて、歩き始めた頃まで。

(2)はまあ、人格の完成というか、個人として完成される頃まで。

ふつうは(2)の状態で、そのまま最期までいきます。

それでいいんです。
なんら問題はない。

だって、「ひとつのもの」の最大の目的は、この三次元時空で「個人として生きる」という経験をすることなんだもん。

それさえできれば、「ひとつのもの」の目的は、達したということになります。

「それさえできれば」。

書くのはカンタン。

だけど、人格が完成されて、一個人として、ちゃんとできあがる、というのは、おそらくは、ちょっと想像するよりは、はるかに大変なことでしょう。

そこまで行かないで終わってしまう人もたくさんいると思います。

   ☆

上の絵、○のまんなかに☆が入れてあります。

これは、「ひとつのもの」の「原初の衝動」。

個別化された「原初の衝動」ではありません。
「原初の衝動」そのものです。
「原初の衝動」は分割することはできません。

ちゅうわけで、この☆は「ans003_02まずそれがなければ」で書いた「なにかしたい」という宇宙の衝動そのものです。

これはまた、陰と陽を生む動因である、「ひとつのもの」が、「ひとつのもの」自身を指でつつく動作としてお話ししたものです(「ans003_04差異と流れ」参照)。

そう、猫になろうが、ペンギンになろうが、外苑のイチョウの木になろうが、この☆=「原初の衝動」はそれらの中で連綿と生き続けています。

もとをただせば、すべては「ひとつのもの」なわけですからね。

   ☆

にゃんこ先生は、完成された個人は、大きく二つに分かれるんじゃないかニャア、と思っています(雑駁です)。

ひとつは個人として完成して、きちんと最期まで行く人たち。

この人たちは自分の内奥の☆、「原初の衝動」に気づいていないか、気づいていたとしても、それを、あくまで、個人の完成の延長として表現する人たちです。

もうひとつは、「原初の衝動」に気付いて、それを自己の境界の拡張として表現・実現しようとする人たちです。

これが、絵の中の(3)として描いた個人です。

「自己の境界」というのは、どこまでを「自分」のうちに含めるか、という、その境界のことです。

「原初の衝動」に気づいたときに起こる葛藤は、この分岐点にさしかかる状況とか時期によって、「魂の闇夜」とか「中年の危機」とか言われたりすることもあります。

聞いたことあるよね、このコトバ。

ひょっとしたら経験済みで、それを乗り越えてきたのかもしれませんが。

まあ人生イロイロあるよね(猫生か)。

ああ……また長くなっちゃった。

次回につづきます。

   ☆

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→ミケさんの質問

→ans003_02まずそれがなければ

→ans003_04差異と流れ

ミケ様

にゃんこ先生です。

さて今回は、ちょっと毛色の変わったところから質問に答えてみたいと思います。

猫だけにね!
(おもしろくもなんともないや)

   ☆

輪廻転生っていう話がある。

いつも疑問に思うのは、いったい「誰が」あるいは「何が」、転生するんですか、ということ。

静岡の長老猫ともよくそんな話になって、

「結局さあ、『個』つうのを、どうとらえるかだよね」

な〜んて、話し合ってた。

たいがい最後には、べろんべろんになったオレが、失礼なコト言って終わるんだけどね(静岡の長老はお酒はほとんど飲まない)。
長老は笑って許してくれますが……

一般的な輪廻のモデルって下のような具合じゃないだろうか。

あくまで「だいたい」ね。


【fig012輪廻転生】

ここでのポイントは、いつも変わらない「あなた」、もしくは「オレ」、というのがいるということ。

これがすべての記憶を携えたまま、「あの世」と「この世」を行ったり来たりする。

そんな図式。

でまあ生まれ変わるたびに、どっかの国の王様だったり農民だったり庶民だったりする(RPGみたいやな)。

前世ってやつ。

持続する何かがあるってことはOK。

だけど持続するもんが、今、この時点で、オレがオレだって、「顕在意識的」に感じている、このオレであって、それが「そのまま」輪廻する……ってところが、どうもいただけない。

オレオレ詐欺みたいだ。
(ちがうね)

   ☆

たいがいの宗教やそれに類する思想は、上述のような自我の存続を保証する、何らかの教義を必ず持っていて、それが人を惹きつけてやまない理由のひとつになっている。

だってそうだよね〜

死ぬの怖いじゃん。

なにが怖いか。

よおく、つきつめてみると……

この自分!

今ここで、居酒屋の店先に置かれた、看板代わりのフェイクの樽(中身はからっぽ。だからかえって暖かい)の上で、ぼけぇっと、半眼でまどろんでる、この自分(自我)つうものが、消滅する!

無になってしまう!

……ってところが怖いんですよ。

これがさ、だれかが来てだね、

「いいえ。にゃんこさん。死んでもあなたは、無になったりはしません。死んでも今のあなたは、あなたのまま。魂はうまれかわって、また、次の人生にむかうのです」

な〜んて言われれば、とたんに死は怖いものじゃなくなる。死後の自己存在を保証されれば、死刑は極刑じゃなくなる。

死を恐れない戦士は無敵だ!

で、その話しかけてくれた人、あいや、猫についていっちゃおうかなあ……と、思ったりする。

とくに、ミケさんみたいな、きれいなオネーサンだったりしたら、なおさら。

え〜、ニャホン(咳払い)

スピでよく言われる「死は通過点」という言葉も、同じメカニズムを含んでいる。

だけどさ。

樽の上で前足たくしこんで、ぼ〜っと丸まってるこの自分、「いつから『この自分』」だった?

うーんと、うーんと、ドブ川のほとりの箱の中でニャ〜ニャ〜ないてたのは、うすらぼんやり覚えてる。

さらにその前は?

誰か人間と一緒だった?

母親のことは?

さっぱり覚えてない。

さてそのとき、「この自分」はいたのか?

思い出せない。

記憶は霧の中。

記憶をたどる限りは、たかだか何年かの歴史しかない「この自分」が、無限の過去から、未来永劫に渡って存続すると考える方がどうかしてないか。

自我の役割は、今現在の「この自分」、オレを守ること。

死の恐怖は、この自我の恐れ以外の何物でもないんじゃないか。

 

そして、「オレ」が変わりなく存続すると思い込もうとすることも。

   ☆

コミュニケーション・スペースのモデルからいえば、自我を含む個(人)というのは三次元時空(物質界、日常的空間)特有の存在であって、これまでのお話の文脈からすれば「個そのもの」は転生なんかしない。

個はその都度その都度、三次元時空で形成される。

形成されるけど、三次元時空内ではすべては期間限定だから、役目を終えれば解体され……消える。

どこからどこへ、現れて消えるかというと、これはもうコミュニケーション・スペース以外にない。


【fig011コミュニケーション・スペースから現れては消える個人】

そう。

コミュニケーション・スペース。

「ひとつもの」。

唯一存続するのは……これだけ。

いやもし、さらに根源的なレベルがあるのなら、そいつだ。

それをタオというのかもしれない。

で。

それが。

それ「こそ」が、「ほんとうの自分」なんだ。

……静かに、次回に続きます。

 

   ☆

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