ans004_05易システムの正体 | ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

ミケ様

にゃんこ先生です。

今日は植え込みの中を散歩。

猫道はツツジの花に彩られ、
あきれるほど華やかです。

   ☆

さて。

すいぶんと話がそれてしまっているように思われているかもしれません。

なんか突然、輪廻の話なんか始めちゃってね。

もとの質問はこうでした。

(Q004)「易システム」がわかることで、どんなことができるのですか?
私たちの生活に何か利点がありますか?
どんな風に活かしていくことができますか?

で、いいたかったのは、

易システムは、「原初の衝動」に気づいた個人が「自己の境界」を拡張する道を選んだ場合に、そのガイドとなる枠組みを提供できる……かも知れない。

ということなのでした。

この答えを言いたかったので、これまでの説明、

ans004_03死ぬのはいやだ
ans004_04個人を超えて

が、必要だったわけです。


【fig014自己の境界の拡張】

なにをもって「自己の境界の拡張」になるのか。

これについては、具体的には答えることができません。
なぜなら、具体的な活動は、個々人によって異なるからです。

言い換えると、「易システム」に観るものは、人によってちがうということです。

易の根本からいってそうなります。

易の根本は陰陽ですが、なにを陰と観て、なにを陽と観るか。

これは、個々人ごとに別、さらに、ケースバイケースだからです。

加えて、易システム自体がまだ不完全だから、ちゃんと答えることができない、ということもあります。
不完全というのは、現在進行形ということ。

ひょっとしたら、ずっと「不完全」なままかもしれませんが。

   ☆

「自己の境界」という話には、さまざまな重要な答えが、隠れている可能性があります。

たとえば、なにをもって「真の自分」とするのか、とか、その自分が生きてる目的はあるのか。あるとしたらどんな目的なのか。

まあ、スピでよくいう「使命」とか「役目」ってやつですね。

あるいはもっと俗っぽく、「死ぬ」なにがおこるの?とか。

   ☆

後者の件については、にゃんこ先生はもちろん、死んだことがないから、わかりません。

いやまあ……死んだことくらいあるのかもしれないけど、覚えてない。

今まで説明してきたモデルの文脈で答えるなら、おそらくは、「自己の境界の変更」が起きるんじゃないかなあ……と、今のところ、曖昧にそんなことを想像しています。

前にも言いましたが、普通の意味でいう個人は、たぶん輪廻なんかしないでしょう。

かといって、失われるわけじゃありません。

「ひとつのもの」はたぶん、そんなもったいないことはしないと思います。

死によって、個人は「含んで超えられる」んじゃないでしょうか。

含んで超えた「ナニモノカ」になるわけで、それはもう普通の意味で言う個人ではありません。

そういう意味で個人は輪廻しない、と言ったわけです。

だけど、なくなるわけじゃない。

含んで超えた状態から観る「個人」は、どこか他人のような、夢の中の自分のような、そんな感じがするんじゃないでしょうか。

真偽はともかく。

そういうこともありうるということを、「まったく」認めていないとですね、いつまでも、いつまでも、三次元時空にいた従来の個人という感覚と、自己の境界を重ね合わせようとする……ということになるでしょう。

その人にとってはその在り方「しかない」から、他の在り方は考えられなくなってしまう……ていうか、ハナっからアリエナイわけです。

そんなようなままですと、三次元時空から離れて(死んでから)、ココロの領域になじむまで、固定的な観方がひっくり返るまで、ちょいと時間がかかるかもしれない。

だから、予行演習的に今のうちから、それをやっておこうという気持ちは、たしかに、にゃんこ先生の中にはあります。

え?なに?

「易システム」って、死への準備なの??

ま、そうかもね。

つづく。

   ☆

LINKS

→ミケさんの質問
→ans004_03死ぬのはいやだ
→ans004_04個人を超えて