ミケ様
にゃんこ先生です。
居酒屋の前の看板代わりのフェイクの樽の上。
すばらしく居心地はいい。
でもいいことづくめじゃありません。
寝ているワシに、タバコの煙を吹きかけるイタズラをする酔っぱらいがいましてな。
なんか知らんけど、最近は店もやってないので、奴も来ませんが。
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さて、個人はコミュニケーション・スペース、すなわち、「ひとつのもの」から現れては、「ひとつのもの」へと消えてゆく……そんな話でした。
現れては消えるといっても、泡みたいにブクブク、パチパチ、現れたり消えたりするわけじゃなくて、現れるのも消えるのも、段階っていうか、グラデーションがあります。
そこんとこを含めて、前の図を描き直したのが下の絵。とりあえずひとつの個、個人にフォーカスしてます。

【fig013コミュニケーション・スペースから現れては消える個人2】
現れては消える過程を、仮に、三段階に分けて描きました。
(1)はまあ、オギャアと産まれて、歩き始めた頃まで。
(2)はまあ、人格の完成というか、個人として完成される頃まで。
ふつうは(2)の状態で、そのまま最期までいきます。
それでいいんです。
なんら問題はない。
だって、「ひとつのもの」の最大の目的は、この三次元時空で「個人として生きる」という経験をすることなんだもん。
それさえできれば、「ひとつのもの」の目的は、達したということになります。
「それさえできれば」。
書くのはカンタン。
だけど、人格が完成されて、一個人として、ちゃんとできあがる、というのは、おそらくは、ちょっと想像するよりは、はるかに大変なことでしょう。
そこまで行かないで終わってしまう人もたくさんいると思います。
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上の絵、○のまんなかに☆が入れてあります。
これは、「ひとつのもの」の「原初の衝動」。
個別化された「原初の衝動」ではありません。
「原初の衝動」そのものです。
「原初の衝動」は分割することはできません。
ちゅうわけで、この☆は「ans003_02まずそれがなければ」で書いた「なにかしたい」という宇宙の衝動そのものです。
これはまた、陰と陽を生む動因である、「ひとつのもの」が、「ひとつのもの」自身を指でつつく動作としてお話ししたものです(「ans003_04差異と流れ」参照)。
そう、猫になろうが、ペンギンになろうが、外苑のイチョウの木になろうが、この☆=「原初の衝動」はそれらの中で連綿と生き続けています。
もとをただせば、すべては「ひとつのもの」なわけですからね。
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にゃんこ先生は、完成された個人は、大きく二つに分かれるんじゃないかニャア、と思っています(雑駁です)。
ひとつは個人として完成して、きちんと最期まで行く人たち。
この人たちは自分の内奥の☆、「原初の衝動」に気づいていないか、気づいていたとしても、それを、あくまで、個人の完成の延長として表現する人たちです。
もうひとつは、「原初の衝動」に気付いて、それを自己の境界の拡張として表現・実現しようとする人たちです。
これが、絵の中の(3)として描いた個人です。
「自己の境界」というのは、どこまでを「自分」のうちに含めるか、という、その境界のことです。
「原初の衝動」に気づいたときに起こる葛藤は、この分岐点にさしかかる状況とか時期によって、「魂の闇夜」とか「中年の危機」とか言われたりすることもあります。
聞いたことあるよね、このコトバ。
ひょっとしたら経験済みで、それを乗り越えてきたのかもしれませんが。
まあ人生イロイロあるよね(猫生か)。
ああ……また長くなっちゃった。
次回につづきます。
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LINKS
→ミケさんの質問
→ans003_02まずそれがなければ
→ans003_04差異と流れ