ans004_04個人を超えて | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

ミケ様

にゃんこ先生です。

居酒屋の前の看板代わりのフェイクの樽の上。
すばらしく居心地はいい。
でもいいことづくめじゃありません。
寝ているワシに、タバコの煙を吹きかけるイタズラをする酔っぱらいがいましてな。
なんか知らんけど、最近は店もやってないので、奴も来ませんが。

   ☆

さて、個人はコミュニケーション・スペース、すなわち、「ひとつのもの」から現れては、「ひとつのもの」へと消えてゆく……そんな話でした。

現れては消えるといっても、泡みたいにブクブク、パチパチ、現れたり消えたりするわけじゃなくて、現れるのも消えるのも、段階っていうか、グラデーションがあります。

そこんとこを含めて、前の図を描き直したのが下の絵。とりあえずひとつの個、個人にフォーカスしてます。


【fig013コミュニケーション・スペースから現れては消える個人2】

現れては消える過程を、仮に、三段階に分けて描きました。

(1)はまあ、オギャアと産まれて、歩き始めた頃まで。

(2)はまあ、人格の完成というか、個人として完成される頃まで。

ふつうは(2)の状態で、そのまま最期までいきます。

それでいいんです。
なんら問題はない。

だって、「ひとつのもの」の最大の目的は、この三次元時空で「個人として生きる」という経験をすることなんだもん。

それさえできれば、「ひとつのもの」の目的は、達したということになります。

「それさえできれば」。

書くのはカンタン。

だけど、人格が完成されて、一個人として、ちゃんとできあがる、というのは、おそらくは、ちょっと想像するよりは、はるかに大変なことでしょう。

そこまで行かないで終わってしまう人もたくさんいると思います。

   ☆

上の絵、○のまんなかに☆が入れてあります。

これは、「ひとつのもの」の「原初の衝動」。

個別化された「原初の衝動」ではありません。
「原初の衝動」そのものです。
「原初の衝動」は分割することはできません。

ちゅうわけで、この☆は「ans003_02まずそれがなければ」で書いた「なにかしたい」という宇宙の衝動そのものです。

これはまた、陰と陽を生む動因である、「ひとつのもの」が、「ひとつのもの」自身を指でつつく動作としてお話ししたものです(「ans003_04差異と流れ」参照)。

そう、猫になろうが、ペンギンになろうが、外苑のイチョウの木になろうが、この☆=「原初の衝動」はそれらの中で連綿と生き続けています。

もとをただせば、すべては「ひとつのもの」なわけですからね。

   ☆

にゃんこ先生は、完成された個人は、大きく二つに分かれるんじゃないかニャア、と思っています(雑駁です)。

ひとつは個人として完成して、きちんと最期まで行く人たち。

この人たちは自分の内奥の☆、「原初の衝動」に気づいていないか、気づいていたとしても、それを、あくまで、個人の完成の延長として表現する人たちです。

もうひとつは、「原初の衝動」に気付いて、それを自己の境界の拡張として表現・実現しようとする人たちです。

これが、絵の中の(3)として描いた個人です。

「自己の境界」というのは、どこまでを「自分」のうちに含めるか、という、その境界のことです。

「原初の衝動」に気づいたときに起こる葛藤は、この分岐点にさしかかる状況とか時期によって、「魂の闇夜」とか「中年の危機」とか言われたりすることもあります。

聞いたことあるよね、このコトバ。

ひょっとしたら経験済みで、それを乗り越えてきたのかもしれませんが。

まあ人生イロイロあるよね(猫生か)。

ああ……また長くなっちゃった。

次回につづきます。

   ☆

LINKS

→ミケさんの質問

→ans003_02まずそれがなければ

→ans003_04差異と流れ