ミケ様
にゃんこ先生です。
さて今回は、ちょっと毛色の変わったところから質問に答えてみたいと思います。
猫だけにね!
(おもしろくもなんともないや)
☆
輪廻転生っていう話がある。
いつも疑問に思うのは、いったい「誰が」あるいは「何が」、転生するんですか、ということ。
静岡の長老猫ともよくそんな話になって、
「結局さあ、『個』つうのを、どうとらえるかだよね」
な〜んて、話し合ってた。
たいがい最後には、べろんべろんになったオレが、失礼なコト言って終わるんだけどね(静岡の長老はお酒はほとんど飲まない)。
長老は笑って許してくれますが……
一般的な輪廻のモデルって下のような具合じゃないだろうか。
あくまで「だいたい」ね。

【fig012輪廻転生】
ここでのポイントは、いつも変わらない「あなた」、もしくは「オレ」、というのがいるということ。
これがすべての記憶を携えたまま、「あの世」と「この世」を行ったり来たりする。
そんな図式。
でまあ生まれ変わるたびに、どっかの国の王様だったり農民だったり庶民だったりする(RPGみたいやな)。
前世ってやつ。
持続する何かがあるってことはOK。
だけど持続するもんが、今、この時点で、オレがオレだって、「顕在意識的」に感じている、このオレであって、それが「そのまま」輪廻する……ってところが、どうもいただけない。
オレオレ詐欺みたいだ。
(ちがうね)
☆
たいがいの宗教やそれに類する思想は、上述のような自我の存続を保証する、何らかの教義を必ず持っていて、それが人を惹きつけてやまない理由のひとつになっている。
だってそうだよね〜
死ぬの怖いじゃん。
なにが怖いか。
よおく、つきつめてみると……
この自分!
今ここで、居酒屋の店先に置かれた、看板代わりのフェイクの樽(中身はからっぽ。だからかえって暖かい)の上で、ぼけぇっと、半眼でまどろんでる、この自分(自我)つうものが、消滅する!
無になってしまう!
……ってところが怖いんですよ。
これがさ、だれかが来てだね、
「いいえ。にゃんこさん。死んでもあなたは、無になったりはしません。死んでも今のあなたは、あなたのまま。魂はうまれかわって、また、次の人生にむかうのです」
な〜んて言われれば、とたんに死は怖いものじゃなくなる。死後の自己存在を保証されれば、死刑は極刑じゃなくなる。
死を恐れない戦士は無敵だ!
で、その話しかけてくれた人、あいや、猫についていっちゃおうかなあ……と、思ったりする。
とくに、ミケさんみたいな、きれいなオネーサンだったりしたら、なおさら。
え〜、ニャホン(咳払い)
スピでよく言われる「死は通過点」という言葉も、同じメカニズムを含んでいる。
だけどさ。
樽の上で前足たくしこんで、ぼ〜っと丸まってるこの自分、「いつから『この自分』」だった?
うーんと、うーんと、ドブ川のほとりの箱の中でニャ〜ニャ〜ないてたのは、うすらぼんやり覚えてる。
さらにその前は?
誰か人間と一緒だった?
母親のことは?
さっぱり覚えてない。
さてそのとき、「この自分」はいたのか?
思い出せない。
記憶は霧の中。
記憶をたどる限りは、たかだか何年かの歴史しかない「この自分」が、無限の過去から、未来永劫に渡って存続すると考える方がどうかしてないか。
自我の役割は、今現在の「この自分」、オレを守ること。
死の恐怖は、この自我の恐れ以外の何物でもないんじゃないか。
そして、「オレ」が変わりなく存続すると思い込もうとすることも。
☆
コミュニケーション・スペースのモデルからいえば、自我を含む個(人)というのは三次元時空(物質界、日常的空間)特有の存在であって、これまでのお話の文脈からすれば「個そのもの」は転生なんかしない。
個はその都度その都度、三次元時空で形成される。
形成されるけど、三次元時空内ではすべては期間限定だから、役目を終えれば解体され……消える。
どこからどこへ、現れて消えるかというと、これはもうコミュニケーション・スペース以外にない。

【fig011コミュニケーション・スペースから現れては消える個人】
そう。
コミュニケーション・スペース。
「ひとつもの」。
唯一存続するのは……これだけ。
いやもし、さらに根源的なレベルがあるのなら、そいつだ。
それをタオというのかもしれない。
で。
それが。
それ「こそ」が、「ほんとうの自分」なんだ。
……静かに、次回に続きます。
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