ans003_02まずそれがなければ | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

ミケ様

にゃんこ先生です。

面倒なことは早くやってしまおうと、申告書書いてて、更新がちょっとおくれま……

お?

ゼーキン払わなくてもよかったんでしたか、猫って。

   ☆

ええと、「ひとつのもの」のお話の続き。

さっそく始めます。

「ひとつのもの」に再度ご登場いただきます。


【<fig001>ひとつのもの】

この○。
ひとつのもの。

このままじゃなにも起きない。

なにせ、ひとつのもの、だから。
なにもしなければなにも起こらない。

   ☆

まあでも、周りを見回してみると、
「なにも起こらない」なんてことはないよね。

ありとあらゆる多様性と変化に満ちている。

感動します。

陽の光にも鳥の鳴き声にも。
新聞配達のバイクの音にも。
早朝の電車の音にも。

それ以前に、周りを見回すことができる、ってこと自体、「ひとつのもの」がただあるって状態じゃないことは一目瞭然ですよね。

「ひとつのもの」がただある状態では、見回す者も見回される者もへったくれも、ないはず。

で、現状の様になるためには、根源的になにが起こっているのか?

そんなようなことを、原因をさかのぼって考察します。

   ☆

まずは、「ひとつのもの」は、「何かしたい」と思ったはず!

もしくは「今も」思ってる。

最初にこの衝動がなければなにも起きません。

眼に、皮膚に、音に、感覚に映る、めくるめく多様性は説明できない。

まず、それがなければ。

だけど、「ひとつのもの」には多様性がありません。
何かしたくても、材料がそれ自身しかない。

   ☆

「ひとつのもの」が、なにかしたい、と思ったら、どうするか?

材料は自分自身、「ひとつのもの」しかありません。

そのような状況下では、まずは、自分自身をふたつに分けて、それぞれに、「みるもの」と、「みられるもの」という役割を与えるしかないのではないでしょうか。

「なぜこの世界はこのようにあるのか」

その類の問いに対して、神は独りで食卓につきたくなかった、とか、寂しかったから、と答えるのは、その詩的表現です。

まず自分を分けた。

【<fig003>ふたつに分かれた「ひとつのもの」】

   ☆

「道(タオ)は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生じる」

「一を生じ」の「一」はこの境界線のことです。
あくまで、仮のものだけど。

辻麻里子さんの「宇宙時計」図形2も、同じコトを言ってるんだと思います。

「一を生じ」の「生じ」は、「なにかしたいと思った」ということなんじゃないかな。

この「思い」が「原初の衝動」とか「意図」とか、
にゃんこ先生が(エラソーに)言っているものです。

じゃなぜ、そう思ったの?

その質問には答えられません。
あまりに高次過ぎて。

この「原初の衝動」より高次の衝動というものも、たぶんあるんだと思います。

   ☆

「道(タオ)は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生じる」

「一は二を生じ」はもう明らかですね。

「ひとつもの(タオ)」に生じた、もしくは、タオそのものからできた、タオの二つの部分、もしくは側面。

ここでのポイントは、図を観れば判るとおり、境界線を引き終わると「同時に」ふたつの部分が現れる、ということです。

「同時」なんです。

くどいようだけど。

一、二、という順番じゃない。
数字にごまかされないで。

一を生じることは、同時に、
二を生じることなんです。

わかった、その「二」が陰と陽なんだね!

ちがいます。

ちかいけどね。

つづきはまた次回に。

 

 

→ミケさんの質問