ミケ様
にゃんこ先生です。
例のオッドアイの彼女とお話ができました。
こないだ初めて。
「にゃあ(おはようございます)」
「にゃあ(いい天気ですね)」
まあ……そんだけのことなんだけどね。
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今一度、この図です。

【fig009反転】
AとBを自由に、行ったり来たりできるようになることが目標……てな話をしました。
これは、振り子かシーソーのようにパタパタと状態を変えるという意味ではありません。
「行ったり来たり」という言葉がよくない。
そうじゃなくて、AとBの両方のステータスに同時に居る……といったらいいのか、「統合する」といったらいいのか。
そういうことでございます。
と言われても困るだろうから、絵を描きました。

【fig015統合】
【fig009反転】の絵とあわせて観てください。
同じことを別の表現で描いたものです。
有名なメビウスの輪です。
AはBであり、BはAである。
「表(裏)はどこから?」という明確な境界はありません。そもそも裏表がない。
ということは実は、AもBもないということです。
もとをただせば「ひとつのもの」ってこと。
AとBは立ち位置、またはパースペクティブ、観え方の違いであって、AとかBという実体があるわけではありません。
☆
この「反転」と「統合」については、易システムのドキュメントのひとつである「MAP13」の後の方で言及「しかけて」います。
そこでは、反転しながら循環する世界を描こうとしていました。
私たちの経験はすべて「陰」と「陽」に「パッケージング」されて、それが反転した次の宇宙を創造する材料を提供する……で、全体はこれを繰り返す。
今はそんなふうにとらえていなくて、反転は人間の根本的な機能に起因していて(個別化は宇宙の願いで、その行き着く先に反転がある)、循環はこの宇宙の根本的な運動(衝動)として、常時起きていることだととらえています(「ans003_03音」で書いた宇宙が宇宙を「つつく」動作)。
ま、それが「正しい」ことかどうかは別にして。
AとBとの「境界」はない、と書きました。
でも、Aの方向から観た風景と、Bの方向から観た風景をつなぐものはあると思います。
それが、「記憶」です。
☆
ここでいう「記憶」は、こないだ魚食ったのはいつだっけかなあ……とか、そういう記憶ではなくて、パターンのようなものです。
テンプレート・鋳型といった方がいいかもしれません。
「ひとつのもの」においては、すべてが「同時に」あるわけですが、鋳型には無数の階層があり、動的に変化します。
「動的に変化」といったところで、時間の要素が入り込んできています。
時間そのものにも鋳型があります。
時間を生み出す人間の意識にも鋳型があります。
そんなお膳立てのもと、無数の個別的存在が、つまるところ自作自演の三次元時空で織りなす経験は、すべて新たな鋳型として、「ひとつのもの」に登録されます。
鋳型(データ・パターン)が登録される。
経験そのもの(データ)じゃなく。
個別的経験に根ざしたパターンは、「ひとつのもの」が「ひとつのもの」である限り、絶対に得ることのできない「パターン」です。
易システムではこの鋳型を「物語」と呼びます。
つづく。
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