ミケ様
にゃんこ先生です。
このメールを書くようになってから、また再び、改めて、そうだにゃあ……できない正座でもして(易は聖典だからね)、経文に向かってみようかにゃぁ……とも思う、今日この頃。
でもまあ帰ってくるとたいがいは、本読むどころか酒飲んでゴロ寝。
歳を感じます。
だは。
☆
まず、あやまる。ゴメン。
(Q004)「易システム」がわかることで、どんなことができるのですか?
私たちの生活に何か利点がありますか?
どんな風に活かしていくことができますか?
申し訳ございません。
前回、ナニゲに伏線をはっておきましたが、この質問にはちゃんと答えることが、おそらくできません。
でも、やってみます。
☆
なぜちゃんと答えることができないかというと、一番最初、「ans001易ってなに?」で言わせてもらったけど、易は「言語」だからです。
たとえばさ、駅前の英会話スクールでさ、英語を習ったとしてさ、
「どんなことができるか」
「生活上の利点はなにか」
「生活上どう活かせるか」
これに答えるのって、結構ムズくない?
テレビ番組の都伝のキャッチフレーズじゃないけど、「あなた次第です」って答えたくなるっしょ。
「術」として利用する側面については前に答えさせてもらったとおり。
占いができるようになるよ、って答えね。
駅前留学の例でいえば、英語がしゃべれるようになるよ、って答えてんのと同じ事。
この「あったりまえやないけぇ!」の側面については、とりあえずおいときます。
モンダイは「易システム」としてどうよ?ってことだよね。
☆
くりかえしますが「易システム」では、易は言語だととらえています。
それもかなり特異な言語です。
通常、思い浮かべる言語のイメージからは(ふつうはここでしゃべってるような自然言語だよね)かけ離れてるってこと。
まず易システムでは、宇宙を根本的に「ひとつのもの」と観てます。
で、易というのは、その「ひとつのもの」に生じた差異に対応した文字(爻<コウ>)をベースとした言語である、とらえています。
これは「ans003_03音」で説明した。
「ans001易ってなに?」で、易は言語だと説明した後に、言語が世界観を形作るって話をした。
サピア=ウォーフの仮説ね。
「ひとつのもの」でも、言語によって、そこに見いだされる世界観が違ってくる。
易が言語なら、易という新しい言語を学ぶことによって、それまでミケさんが思い描いていた世界観とは、また別の世界観を手に入れることができるかもしれない。
これがまあ、答えといえば、答え。
この「世界観」を「コスモロジー」といいます。
三次元時空(シャバ)を生きるための、生きる意味や目的を含むあらゆる価値観は、つまるところは、この、「コスモロジー」を土台にしてるんだ。
そう、ご賢察のとおり、言語はその背景に「コスモロジー」を抱えているともいえる。
☆
でね。
じゃあその、新しい「コスモロジー」を手に入れたとしてさ。
「生活上の利点はなにか」
「生活上どう活かせるか」
こーゆー質問には、具体的には、ちょっと答えられないよね?
でしょ?
抱いているコスモロジーのバリエーションが増えれば……
視野が広くなります!
生きてる意味がわかります!
意味がわかれば、あなたの生活はスッキリクッキリ、明るくなります!
……って、いいたいところだ。
でも保証はできない。
だから「あなた次第」となってしまう。
☆
じゃさ、じゃさ、「たとえば」先生はどうなのよ?
いやさ、こんなヨッパライの話聞いても、何のタシにもにゃらんぜよぉ…………
いいからサ、どうなのよ、ねえねえねえ、後学のためなんだから!言いなさいよ!
食い下がってくる人、あ、いや、猫も時にはいる(たいがいは、そこそこ歳とった猫)。
いや、まあ、ボカぁ(ちょっと加山雄三入ってる)、人生(猫生か)が、スッキリクッキリ明るくなるってことを、まぁ、期待してだね、易に興味を持ち続けているわけなんだけど……
急に歯切れが悪くなったところで……
ニャハハハ……
にゃ、また。
(笑ってごまかして逃げるんかい!)
(ああ、そうさ!走って逃げるのさ!)
逃げてにゃにがわりぃんだぁだぁだぁ……
いかん。飲み過ぎ。
☆
LINKS
→ミケさんの質問
→ans001易ってなに?
ミケ様
にゃんこ先生です。
集会の新しい場所も決まりました。
とあ〜るお寺の縁の下。
これから涼しくなるところ。
問題はメンツが集まるかどうかです。
☆
(Q004)易がわかることで、どんなことができるのですか?
私たちの生活に何か利点がありますか?
どんな風に活かしていくことができますか?
おっ、来たな!って感じの質問です。
それでもって、とっても答えにくい質問です。
この質問の答えも1回で終わらせることはできません。
☆
ひとつには、こんな答えがあります。
易は占いのしくみです。だから易を学ぶと、占いができるようになります。
占いができるようになると、未来が予知できる(たぶん)ようになりますので、日々、より安全な選択ができる(うまくいけば)ようになります。
まあ、確かにそうなんだ。
だからみんな、占い(易)を勉強したがる。
御利益を求めて。
これが、従来の易(占術)に対する一般的な考え方であり、アプローチであり、利用の仕方だと思う。
なにせ、そもそも「術」だからね。
☆
こういうアプローチをけなす気は、もちろん、このヒゲの先ほどもありません。
それどころか、占うことは必須です!
でもなんだかそれだけじゃあ、もったいない。
易の仕組みかんしては、術としての利用以外に、もっと、なにかが潜んでいるような気がします。
☆
前回までのお話は、易というより、にゃんこ先生がこの宇宙をどうとらえてるか、というお話でした。
「易システム」は、にゃんこ先生による易解釈ですから、これからのお話は、にゃんこ先生がとらえた宇宙を、易で説明したもの、ということになるでしょう。
そんなわけで、冒頭のミケさんの質問は、こうしなきゃならんでしょう。
2)「易システム」がわかることで、どんなことができるのですか?
私たちの生活に何か利点がありますか?
どんな風に活かしていくことができますか?
かってに書き変えちゃったけど、いいかな?
要するに、「易」が何の役にどうたつか、については答えられないんです。
「易システム」についてなら、なんとか……ちゅ〜ことになるけど、「なんとか」、だからねえ。
これも答えがあるかどうか……
はなはだアヤシイ。
というわけで、つづきます。
☆
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→ミケさんの質問
ミケ様
こんにちは。
にゃんこ先生です。
最近よく見かける、オッドアイの彼女が気になる今日この頃。
散歩にでも誘ってみるカナ。
若い頃のような元気はありませんがネ。
☆
また、下の図ね。

【fig010コミュニケーション・スペース】
だいたい説明したんだけど、説明していないことが、ひとつ。
この図で「人間」と描かれている存在の立ち位置。
ふつうの意味での人間であれば、真ん中に描かれている、三次元時空内での個人、ということになる。
三次元時空内にいて、どうしようもないのかというと、ぜんぜんそんなことはなくて、この個人は可能性を持っているんだ。
再度掲載するけど、下の絵に示したような反転の視座を得ることで、三次元時空内にとらわれているというフツー皆が思ってる幻想を抜け出して、さらにそれを含んで超えてゆくことができる。
そういう可能性。

【fig009反転】
だけどそれは、三次元時空がなくなってしまうとか、三次元時空は否定されるべきものだ、ということじゃない。
「含んで超える」の。
これはまあ、にゃんこ先生の言葉ではなくて、恩師の大猫から教わった言葉なんだけど。
【fig010コミュニケーション・スペース】をもう一度見てください。
三次元時空を取り囲む泡の表面=界面(インターフェース)になるのが「人間」だと描きました。
ここに書いてある「人間」。
これはフツーにいう個人じゃない。
生物種としての、ヒトでもない。
ヒトと同程度かそれ以上の複雑さがあって、三次元時空にいながら、その三次元時空を維持している存在。
そういう存在たちすべての集合、と、思ってください。
この集合には私らも含まれています!
ミンナで、この「三次元時空」という「芸術作品」を維持してる、支えてる!
そーゆービジョンです。
だから、コミュニケーション・スペースの絵では、三次元時空の周りを「人間」が囲っている、というイメージになっているわけです。
三次元時空をリアルタイムで創出している……
私らはまだそんな意識は持っていませんが。
でも無意識のうちに参加している。
参加させられてる。
「認識する」ってことは、「創出する」ってことと表裏一体だと思います。
「認識する」ってことは、すんごくクリエイティブなことなんです、おそらくは。
☆
さて、以下の質問には、だいたい答え終わったと思うけど、どうだろう。
(Q003) この世界とはどんなものなのでしょうか?
捉えているスタンス(視点・出発点)を
明確にしてもらえますか?
次回は、やっと次の質問にいこうかな。
ではまた。
☆
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→ミケさんの質問
ミケ様
こんにちわ。
にゃんこ先生です。
☆
今回は下の図から行きます。
先のお話の最後でた「コミュニケーション・スペース」です。

【fig010コミュニケーション・スペース】
(まいどキタネー図ですいません)
こりゃ結局、【fig009反転】の図のBだけを取り出して描いたものですな。
【fig009反転】
「コミュニケーション・スペース」。
なんつう長ッたらしい名前。
なんでそんな名前にしたん?
うーんとね、それは、ワタシらがそれに取り囲まれてそこに住んでいると思っている、三次元時空(物質界)中で想定されている個人どうしのやりとりは(コミュニケーション)、実は、この空間を通じて行われている……と、想定したからです。
個人間のやりとりの仲立ちをすることが、この空間のメインの役割ではないんだけどね。
個人間のみならず、いわゆるガイドやマスター、ハイヤーセルフとか、高次元的な存在とのやりとりも、この空間が仲立ちになっているんじゃないかと……まあ、そのように想定しているわけです。
☆
高次という話がでたけど、このコミュニケーション・スペースにも、階層または構造といったものがあります。
「ある」というか、想定することができる。
図では、三次元時空を取り囲む同心円(同心球)状の破線でテキトーに描き込んでおいたけど、こんな層になっているかどうかはわかりません。
コミュニケーション・スペースは「可塑的」なんです。
可塑<かそ>ってのは、粘土みたいに自由に形を創れるってこと。
☆
コミュニケーション・スペースの構造または階層がはっきりしないというのは、これを書いているにゃんこ先生も、読んでいるミケさんも、依然、個人として、物質界に存在しているから。
個人、または個人が集まって出来た社会的、文化的、時代的文脈によってその構造(または階層)は、フレキシブルにその姿を変えます。
宗教や、神秘学、錬金術やカバラなどの秘教、そして、個人個人の考えによってもその記述はちがってくる。
三次元時空のことを「合意的現実」といったけど、絵の上でこれを囲んでいるコミュニケーション・スペースのレベルでは、三次元時空のレベルほど、合意して「ない」ってわけ。
でもね。
合意してない分、ある意味、フロンティアなんですよ、この領域は!
☆
ところで、この空間は個人的なものじゃあない。
ということは、地上的な(三次元空間的な)誰にとっても「これしかない」ともいえるわけで、それってつまり、この空間=「ひとつのもの(タオ)」ってこと??(「ans003ひとつのもの」参照)と、ききたくなるかもしれませんが、これがすなわち、道(タオ)かどうかってことは、にゃんこ先生にも正直よくわかりません。
直感的にはビミョーにちがうと思う。
「タオ」はおそらくもっと根源的。
ただまあ、方便的にはほぼ同義といってもいいかもしれません。
☆
三次元時空(物質界、日常空間)は、「fig010コミュニケーション・スペース」の絵では、可塑的なコミュニケーション・スペースに取り囲まれ、萎縮しているようにみえます。
萎縮しているというより、それはつまり、コミュニケーション・スペースによって三次元時空が「象<かたど>られている」ってことなんです。
言語もこのコミュニケーション・スペースの一部で、三次元時空を「象る」一役を担っています。
端的にいえば、コミュニケーション・スペースは物質の鋳型であるということができます。
物質の鋳型。
つまり「エーテル空間」だね。
少なくともこの三次元時空の近傍は。
たぶんそこから先は、絵の上では同心円がひろがっていくにつれて(秘教的想定に従うなら)魂的領域、霊的領域……となっていくのだと思う。
☆
(Q003) この世界とはどんなものなのでしょうか?
捉えているスタンス(視点・出発点)を
明確にしてもらえますか?
ずーっと、この質問に答えているわけだけど、やっとコタエもだいたい終わった感じです。
☆
ご承知のとおり、私たちに観えるエーテルの流れは、多くの人間たちには観えません。
昨日も、昼下がりの「風」を観てたら、小さな女の子がよってきて、
「ね〜こちゃ〜ん、なに見てるの〜」
だってさ。
人間の子供はおっかないから、即刻逃げましたが。
つづく。
☆
LINKS
→ミケさんの質問
→ans003ひとつのもの
ミケ様
にゃんこ先生です。
な〜う、と背筋を伸ばしてから始めます。
☆
とりあえず前回の図から。

【fig009反転】
軽くふりかえると、実体はBであって、Aはココロによって作られたものではないのか、そんな話でした。
Bでは外側の円が「広大な三次元時空」を抱え込んでいる。ココロは広大な三次元時空を、「所有している」んです。
じゃあどうして皆が同じ世界を見ているように見えるのか。
作リモノであれば、それぞれに違った世界になっていいはず。
そりゃたぶん、文化的文脈、社会的文脈、教育などによって、似たような概念のパッケージ群を使っているからです。
これを「合意的現実」といいます。
でも「的」だから、完全に「同じ」じゃあない。
「ans001易ってなに?」のサピア・ウォーフの仮説の話で出たように、必ずしも厳密に「同じ」世界を、見ているわけではない。
いやもっといえば、同じ様に見えて、ほんとうは違う、各個別の世界を見ているってわけです。
☆
冒頭の絵、「fig009反転」右側、Bの「心」ってなんでしょうね。
Bの方を見ると「空間(心)」とある。心、すなわち「空間」という程度の意味です。
じゃあ空間ってなんだろう。
空間と聞くとフツーは、縦横高さ、メートルとかセンチとか、最寄りのコンビニまで歩いて何分とか、とかく、「量」を思い浮かべがちだよね。
これってつまり、ボクたちはふだん空間を物理的な「かさ(嵩)」としてみてる、ってことじゃなかろうか。
でも、たとえばさ、「トポロジー空間」というと、位相幾何学が成立する、立体の大きさや長さをオミットしていい場、という意味。
かさ(嵩)は関係ない。
空間の中で繰り広げられる幾何学も、本来かさ(嵩)とは関係ありません。
物理などでいう「位相空間」は、複数のパラメータ(座標)でプロットされる点群から成る座標空間で、点にチャージされるパラメータの数を次元と言ったりする。
やっぱり、かさ(嵩)は関係ない。
数学では集合や行列であらわされる数の集まりを空間ということもある。
これも、かさ(嵩)は関係ない。
上にあげた「空間」は、ふだんボクたちが空間と呼ぶ空間よりは、かなり異質です。
だけど、柔軟です。
ここはもっと柔軟に行きましょう。
Bでいう「空間」というのは、ごろっとした「かさ(嵩)」というよりも、広がり、場、といった方がいいような、そういうものです。
☆
Bでいう「空間」を厳密に定義することはできないし、その必要もないと思うけど、大事なのはこれが「個人的なものでない」、ということなんです。
「個人」というのは、通常の感覚でいう三次元時空の中での話。
Bの空間(心)はその中に三次元時空、物質界を抱え込んでしまっている。
だから「Bの空間(心)」ではもう個人というものはありません。
まさにその、「それだけ」なんです。
ココロ、ココロと連呼してますが、「だれの」ココロというわけではないの。
個人的なものじゃない。
だから、ひとつのココロ。
数えたんじゃありません。数えられない。
だから、「ひとつ」としかいいようがないわけです。
Bの空間(心)は「三次元時空」を抱えています。かさ(嵩)としての空間も。
時間も三次元時空内固有の属性であり、Bの空間(心)では、ふつうの意味での時間は存在しません。
だから、そのココロは、どこに?いつから?あるのか、という質問には答えられません。
いつ?どこ?というのは、ココロに所有されている、三次元時空「内」でのハナシだからです。
☆
この「Bの空間(心)」のひろがり・場を、易システムでは「コミュニケーション・スペース」と呼ぶことにしました。
……ぅおっと。
これ以上続けるとまた長くなりそうなので、今回はこの辺で。
つづきます。
☆
LINKS
→「ans001易ってなに?」
→ミケさんの質問
ミケ様
にゃんこ先生です。
わさわさ落ち着かない気分になる時期であります。
眠いのは……季節はあまり関係ないみたい。
あ〜、さて。
(Q003) この世界とはどんなものなのでしょうか?
捉えているスタンス(視点・出発点)を明確にしてもらえますか?
まだこの質問に答えている最中。
☆
この宇宙「ひとつのもの」を、ひとつの円で表すなどという強引なことをやっています。
だけどまさか、この円(Universe)が、いわゆる三次元時空(space)そのものだ、なーんて思ってないよね??
じゃ、なんなのよ!
シンプルにいってしまうと、この空間は、「心」です。
☆
自分、身体、心、魂……
ふだんはあまり真剣に考えることはありません。
皆、忙しいからね。
だいたいは、次の絵のように漠然と思ってるのではないでしょうか。
【fig008広大な三次元時空とその中の私】
身体と自分はおおむね同一視されていて、それをとてつもなく広大な三次元空間が取り囲んでいる。
その広大な三次元時空としての宇宙からみれば、ケシ粒(いや素粒子かな)ほどにも満たない大きさの地球上にいて、さらにその地球上の、浮きカスにも満たないほどの自分=身体があって、心、意識、精神といったぼやーっとしたものが、それぞれの身体の「中の」どこかに宿っている。
進化によって身体ができて、その身体が一定の複雑さに達して「発生」したのが、心とか意識とかいうもの。
身体が分解すれば(死ねば)、心も意識も、もちろんなくなります。心なんていうのは物質の付随現象ですからね。
まあとにかく今のところは、自分というものは、このちっぽけな身体の中から、とてつもなく広大な宇宙を、身体にあいた5つの穴から覗いてる。
こんなところですか。
幻滅しますな。
この茫漠としたモデルからは、たぶんニヒリズムしか生まれてこないでしょう。
☆
さて下の図は、実は、それって逆なんじゃないか、というお話です。
【fig009反転】
あ、わかった、知ってる、知ってる、Aが唯物論で、Bが唯心論だね!
にゃんこ先生は唯物論も唯心論も知りません。
とりあえずそういう既成の概念はワキにどけて。
図の左側Aは、先の絵「広大な三次元時空とその中の私」と同じものです。
とりあえず、あなたしか描いてません。
他人を含むその他の存在は省略。
一般的にはAが動かしがたい事実で、常識と思われているけど、ほんとうにそうでしょうか?
なに言ってんだい、身体だってあるし、地球だってあるし、太陽系だってあるし、銀河系だって……
そうなんだけどね。
だけどそれって、つきつめれば、すべて、感覚(思考、感情)に基づいて作られた「概念」だよね。
え、じゃあなに、地球はないの?月は……
地球や月があるかないかという話ではありません。
私たちは基本的に感覚(思考、感情も含めます)をとらえることしかできないのではないか、という話です。
視覚にしろ、触覚にしろ、想念にしろ、「今」、リアルタイムにあるのは感覚、感情、思考、だけですよね。
すごーく大ざっぱにいうと、こういう↓ことではないかな。
思考はどんどん流れていく感覚(または感情)にラベルを貼り「ラベルを」記憶し、分類する。
集まったラベルが概念になる。
一度できた概念はその後、まるごとパッケージとして利用されるようになり、そのパッケージの集まりが世界観を構成する。
つまりこの流れでは、最初の感覚はともかく、それ以降は、すべて「作りもの」なんじゃないのか、
ということになります。
☆
カンタンにいうと、「広大な三次元時空とその中にぽつねんといるちっぽけなワタシ」というのは事実ではなく、図のB、「心」により作り出されたものではないのか、ということです。
☆
う〜ん、続きます。
☆
→ミケさんの質問
ミケ様
にゃんこ先生です。
人間の都合でビルの新築工事が始まりました。
いつもの駐車場がなくなりました。
集会ができませんがな。
私、幹事です。
酒樽の上で思案中(寝てるんじゃありません)。
☆
前回はちょっと尻切れトンボ気味でした。
(Q003) この世界とはどんなものなのでしょうか?
捉えているスタンス(視点・出発点)を明確にしてもらえますか?
答えは一回では終わらないと書きましたが、まだこの質問に答えている最中です。
やっと基盤になる陰陽にたどりついたところ。
☆
前回までのお話を踏まえて、以下の資料をごらんください。

【<ebisu01_inyou>恵比寿猫集会で配った陰陽の概念】
資料を見ますと、
「高い=陽、低い=陰、明るい=陽、暗い=陰……」
のように、一見、もっともらしく書いてあります。
「こういうもんです、にゃはは」
と言われてスルーされてしまっても、
「ああ、そうかにゃ」
で終わっちゃいそうだよね。
でもそれって、結局ぜんぜん陰陽の本質をとらえてなくて、それどころか、「そういうもんだ」と、固定的にとらえられてしまう危険性だってあります。
☆
「陰陽の本質」なんて書くとムズカシゲだけど、一言で言えば「差異」ってことなんです。
差異のあるところには流れが生じます。
極東から地中海地帯にとどけられた品物は地中海地帯に「なかった」から珍重された。
あっちにあって、こっちにない。
これ、差異です。
それがないところに、それをもたらす。
これ、商売です。
商売という活動が見いだした差異は、経済活動というお金の流れを生みます。
差異が大きければ大きいほど、流れも激しく、大きくなる。
後世その流れは、シルクロードと呼ばれるようになりました。
別の例で言えば、気圧の差のあるところに空気の流れが生じる。
これ、風です。
高気圧から低気圧へ。
気圧差が大きいと嵐になる。
そよ風ならいいけど。
☆

【fig006差異と流れ】
この差異によって起こる流れが宇宙の血流です。
もちろん血流というのはたとえで、これが止まってしまうと宇宙が「死んで」しまうかというと、そんなことはない。
宇宙が「死ぬ」なんてことはない。
確かに差異がなくなったとすると、流れはなくなります。
だけどそれは宇宙が「死ぬ」ということじゃない。
もとの差異のない、「ひとつのもの」におさまるだけのこと。
もともとそうである、「ひとつのもの」に。
☆
差異があろうとなかろうと、「ひとつのもの」は「ひとつのもの」です。
今のところこの「ひとつのもの」は、自分自身をつつき回すという、ゲームをやめる気はないようです。
この地球の、この宇宙の、多様性がその証拠。
だから私らは「多様であること」を、大事にしなきゃならんと思うんです。
それが宇宙の法則に乗っかることだから。
「一枚岩」っていうのは、必ず亀裂が入ります。
不自然だからね。
どこかに無理がある。
☆
宇宙が自分自身を確かめるためにやる、「つつく」という動作。
この差異の発生についてはもうひとつ、おもしろい話があります。

【fig007情報伝達】
上の図で左の、ちょんとつついたところの差異が、ひとつの「情報」だったとしたらどうだろうね?
とりあえず図の上では、YESかNOか、ONかOFFかという1bitの情報にしてあります。
宇宙は「ひとつのもの」で、だから差異は必然的に対称的に生まれる。
図のつつく動作は、「すぐさま」別の所に「でっぱり」を生じる。
これはつまり左の1bitの情報が、右のでっぱりとして「伝わった」ってことになるんじゃない??
「すぐさま」。
ここまでのお話では、まだ「時間」は登場していません。
時間はまだ「ない」んです。
ということは、この情報の伝達は、光速を越えている……??
いやまて、そういやまだ「距離」も登場してなかったぞ。
☆
いやいやいや。
そもそも。
そもそもだね、
この図に描かれた「空間」つうのはなんなんだい?
どこにあるんだい?
ということで、続きます。
ああなんか、だんだん深みにはまっていくような……
ミケ様
にゃんこ先生です。
駐車場の雑誌の上よりいいとこ見つけました!
居酒屋の店先の酒樽の上。
看板代わりのフェイク樽。
つまり私の話と同じ、
中身はカラッポでして。
サイコーです。
日当たりさえよければ。
☆
さて、「ひとつのもの」を、禅僧よろしく、ひとつのマルなんかで表しております。
このマルの中には、なにが入ってるんだろうね。
方便、仮のイメージだから、まあなんでもいいようなもんだ。
ここでは、なんかこう、透明のジェルみたいなものが詰まっている、とします。

【<fig003>ふたつに分かれた「ひとつのもの」】
で、そのジェルがはいったマルに、境界線ができて、ふたつに分かれたところで、ただそのまま……なら状況は変わりません。
「動き」がなきゃあね。
「ひとつのもの」を仕切っている膜。
この境界線を指でつついてみます。
「だれの指か?」は、またあとで。

【fig004つつかれた境界線】
「ひとつのもの」ですから、中に詰まったジェルはどこにも逃げようがない。
だから、膜のある部分をつつくと、それに応じて別の部分が出っ張ってくる。
これが、陰陽なんです。
☆
つつかれる前のフラットな膜は、ただ、のべたんにダーッと広がっているだけ。
それをつつくということは、ダーッとひろがったフィールドの、ある特定の部分に「差異」を創り出すということ。
この差異は境界線のせいで、作用反作用の法則よろしく、「即時に」別のもうひとつの差異をつくりだします。
最初の差異を「陽」とすれば、それに応じて即時にできるもうひとつの差異が「陰」です。
☆
ミケさんは、こうききましたよね。
(Q003) この世界とはどんなものなのでしょうか?
捉えているスタンス(視点・出発点)を明確にしてもらえますか?
これに対し、にゃんこ先生は、まず、「世界はひとつのもの」だと思ってます、と答えました。
ここで、もうひとつの回答を加えなければなりません。
「世界は、認識というものが起きる根源のレベルから、すべからく対称である」
ということです。
対称ですから、入れ換え可能。
それが「対称」の意味。
陰は陽として、陽は陰として観ることもできる。
どっちでもいい。
これを「陰陽互換」といいます。
それは【<fig004>つつかれた境界線】の絵を逆さにしても結局は同じ、ということ。
☆
で、誰がつついているの?というギモンだけど、ここまでの話の流れからいって、「ひとつのもの」以外考えられないよね。
つっついてみよう!というその「思い」というか「衝動」は、このモデルでは表現しきれない、高次からのものだとしても、やっぱりそれも、「ひとつのもの」の内なんだ。「ひとつのもの」だから、例外なし。
この、「つつく」というやり方が、この宇宙/世界、元来それしかないこの「宇宙」が、自分で自分を確認するという、そういうゲームのやり方なんだね。
自分で自分の半分を、まるで他人のようにしてね。
これが、よくスピでいう、
「あなたという存在は、この宇宙が自分で自分に目隠しして遊んでいるだけの宇宙です」
ということの意味だと思います。
「目隠し」が、このお話のたとえでいうところの、境界線、膜、ってわけ。
☆
一番最初に易ってなに?ときかれて、「易は言語です」と答えました。
コトバの大本にはまず「音」があります。
この根源的な差異が、易というコトバの「音」なんですね。
コトバですから、文字があります。
文字を持たない言語もあるケド。
易では、この最初の音、それに応じて生じた音に、つながった線の文字(陽)と切れた線の文字(陰)をあてはめます。
陰陽互換ですから逆にあてはめてもかまいません。
この文字を「爻<コウ>」といいます。

【<fig005>差異と爻】
わ、長くなっちゃった。
つづきはまた次回に。
☆
→ミケさんの質問
ミケ様
にゃんこ先生です。
面倒なことは早くやってしまおうと、申告書書いてて、更新がちょっとおくれま……
お?
ゼーキン払わなくてもよかったんでしたか、猫って。
☆
ええと、「ひとつのもの」のお話の続き。
さっそく始めます。
「ひとつのもの」に再度ご登場いただきます。
【<fig001>ひとつのもの】
この○。
ひとつのもの。
このままじゃなにも起きない。
なにせ、ひとつのもの、だから。
なにもしなければなにも起こらない。
☆
まあでも、周りを見回してみると、
「なにも起こらない」なんてことはないよね。
ありとあらゆる多様性と変化に満ちている。
感動します。
陽の光にも鳥の鳴き声にも。
新聞配達のバイクの音にも。
早朝の電車の音にも。
それ以前に、周りを見回すことができる、ってこと自体、「ひとつのもの」がただあるって状態じゃないことは一目瞭然ですよね。
「ひとつのもの」がただある状態では、見回す者も見回される者もへったくれも、ないはず。
で、現状の様になるためには、根源的になにが起こっているのか?
そんなようなことを、原因をさかのぼって考察します。
☆
まずは、「ひとつのもの」は、「何かしたい」と思ったはず!
もしくは「今も」思ってる。
最初にこの衝動がなければなにも起きません。
眼に、皮膚に、音に、感覚に映る、めくるめく多様性は説明できない。
まず、それがなければ。
だけど、「ひとつのもの」には多様性がありません。
何かしたくても、材料がそれ自身しかない。
☆
「ひとつのもの」が、なにかしたい、と思ったら、どうするか?
材料は自分自身、「ひとつのもの」しかありません。
そのような状況下では、まずは、自分自身をふたつに分けて、それぞれに、「みるもの」と、「みられるもの」という役割を与えるしかないのではないでしょうか。
「なぜこの世界はこのようにあるのか」
その類の問いに対して、神は独りで食卓につきたくなかった、とか、寂しかったから、と答えるのは、その詩的表現です。
まず自分を分けた。
【<fig003>ふたつに分かれた「ひとつのもの」】
☆
「道(タオ)は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生じる」
「一を生じ」の「一」はこの境界線のことです。
あくまで、仮のものだけど。
辻麻里子さんの「宇宙時計」図形2も、同じコトを言ってるんだと思います。
「一を生じ」の「生じ」は、「なにかしたいと思った」ということなんじゃないかな。
この「思い」が「原初の衝動」とか「意図」とか、
にゃんこ先生が(エラソーに)言っているものです。
じゃなぜ、そう思ったの?
その質問には答えられません。
あまりに高次過ぎて。
この「原初の衝動」より高次の衝動というものも、たぶんあるんだと思います。
☆
「道(タオ)は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生じる」
「一は二を生じ」はもう明らかですね。
「ひとつもの(タオ)」に生じた、もしくは、タオそのものからできた、タオの二つの部分、もしくは側面。
ここでのポイントは、図を観れば判るとおり、境界線を引き終わると「同時に」ふたつの部分が現れる、ということです。
「同時」なんです。
くどいようだけど。
一、二、という順番じゃない。
数字にごまかされないで。
一を生じることは、同時に、
二を生じることなんです。
わかった、その「二」が陰と陽なんだね!
ちがいます。
ちかいけどね。
つづきはまた次回に。
☆
ミケ様
にゃんこ先生です。
「寝るんじゃねえ!」
とよく言われます。
たいてーそのあと、
「こっちが話してんだからよぉ!ったく信じらんねーぜ!」
と言われます。
寝てんじゃありません。
メーソーしてんです。
にゃはは。
またミケさんの質問から。
(Q003) この世界とはどんなものなのでしょうか?
捉えているスタンス(視点・出発点)を明確にしてもらえますか?
はい。
でもコタエは一回では終わらないと思います。
さて、易システムの話です。
易システムの話というより、まずは、にゃんこ先生自身がこの世界(宇宙)を、いまのところどうとらえているのか、だよね。
今回の質問に端的に答えるとしたら、
「ひとつのもの」
だと思ってます。
はあ?
なにそれ?
よくあるスピ系のコタエじゃん!
ちょっと待ってください。
説明します。
☆
円があります。絵を見てください。

【<fig001>ひとつのもの】
(コキタネー絵ですいません)
とりあえず、この円を「ひとつのもの」と思ってください。
微妙に取り違えることもあるかもしれないので付け加えておきます。下の絵のような「ひとつのもの」とはちがうからね。

【<fig002>空間の中にある「ひとつのもの」】
(コキタネー……以下同文)
ひとつはひとつなんだけど、これはいくら大きくても空間の中にある。
そうじゃなくて、「ひとつのもの」。
「ひとつ」なんだから、他には何もないの。
つまり「空間」もそのなかに含まれているんです。
なにかを思い浮かべて!
といわれると、とたんにその「なにか」を思い浮かべるでしょ。
ポカンと。
だけどそのとき、同時にその背景も思い浮かべていることは見過ごされがち。
☆
ひとつなんだから、それしかないんです。
背景(空間)もない。
もちろん時間もない。
内も外もない。
もっとつっこんで言えば、「ない」ということも、ない。
「ある」しかないわけです。
いや。
「ない」も「ある」もないの。
こんな具合ですから、上の絵みたいな○だけ描いて、これを観て、
「ひとつもの」だと思ってください!
とやることが、いかに無茶なことなのかわかると思います。
主体も客体もないわけですから、元来想像すら不可能なはず。
☆
でもそうしないと話が進まないから、無茶ってことを「踏まえて」話を進める。
「方便」というやつですね。
思い浮かべて!
って言われて出てきたイメージも方便の一種です。
いたしかたのないことです。
これから先の話はずっとそう。
老子様も「わしも無理はわかってんだけどさ」と、ことわった上であえてこれに名前をつけました。
それが、「道(タオ)」です。
どれが?
ってきかないでね。
あまり長くなって嫌われるといけないから、今回はこの辺で。
ゆっくりいきましょう。
ね、眠い……