ミケ様
にゃんこ先生です。
総じて、するどい質問です。
ていうか深すぎる。
こないだ小魚につられて落ちた公園の池より深い(私も歳です)。しかしあの場合、悪いのは魚のことで不要に騒ぎ立てていたカモ野郎どもで……失礼。閑話休題。
ええミケさんの質問の話。
答えは一言で……
というわけにはいかないようです。
そんなわけで、大変失礼ながら質問を分けさせてもらいました。
できるだけ長くならないように努力します。
じゃ、いきます。
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(Q001) 易って何ですか?
ええと、まず、これからの話は、にゃんこ先生の独自解釈であることをおことわりしておきます。
伝統的解釈やアカデミックな解釈もあるわけで、独自解釈とは答えがちがってくることも、もちろんクロスーオーバーしているとこもあるわけで、そこらへんについては、判れば,判る範囲で、都度コメントしていきます。
また、あくまで現時点での解釈であって、まちがっていることも、矛盾していることも、予告無く変更されることもあることを、ことを予めお断りしておきます。
とまあ、ここまではお約束の「おことわり」です。
えー、それでまず、にゃんこ先生独自解釈の易を「易システム」と呼びます。
「システム」っていうほどきれいに整っているわけではありません。
これはまあそういう名前にしたってだけ。
ま、ちょっとカッコいいかな、って。
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で、まず、易ってなんだ、って話なんだけど、にゃんこ先生は「言語」だと思ってる。
コトバ。
その大本には音があって、
音は集まって単語をつくる。
単語は集まって文をつくる。
文は集まって段落をつくり、
段落は集まって節をつくり、
節は集まって章を、
章は集まって、
一冊の書物という、この世界になる。
コトバって、なんでしょう。
まずは、お互いに意志をの疎通をはかるための道具だね。
コミュニケーション・ツール。
ふつうはそこで話は終わるんだけど、もっと別の深い役割があるよね。
ひとつは象徴としての機能。
さらに深いところには、言霊やカバラに代表されるような根源的な創造力、または場を調律する振動の元としての機能があるけど、それは今はちょっとおいときます。
ここで大事なのは、深い機能もあって、コミュニケーション・ツールでもあるけど、認識を形成する道具であり材料であり方法であるということ。
やってみればわかると思うけど、コトバなしでイメージや感覚「だけ」で物事をとらえるのはちょっとむずかしいよね。
かならずコトバがくっついてまわる。
ていうか、
コトバによって認識が成り立っている、といっても言い過ぎじゃないと思う。
これは決してでっちあげじゃなくて、知ってるかもしれないけど、言語学の世界に「サピア=ウォーフの仮説」ってのがある。
カンタンに言ってしまえば、「使うコトバによって観る世界がちがう」という事。
いってみればコトバが世界観を創っている、というワケ。
卑近な例でいえば、「肩こり」というコトバのない欧米圏の人たちには肩こりがない(らしい)とか、日本人だって明治以前には「肩こり」はなかった、なーんて説もあるみたい。
「肩こり」というコトバは漱石あたりの小説で、初めて使われたコトバみたい(やっぱすごいにゃ〜ソーセキ先生は)。
つまり先の仮説に従うなら、漱石あたりがそんなコトバを創らなければ、今頃ぼくらは肩こりのない世界に住んでたのかも(よけいなコトしてくれたにゃ〜ソーセキ先生は)。
当然コトバは「時間」の認識にも影響を与える。
英語のような表音文字は、頭から順番に字を拾っていかないと、意味が解らない。
「teacher」
t→e→a→c→h→e→r。
リニアな時間観を成り立たせるコトバともいえる。
一方、漢字のような表意文字は一つの文字の構成要素が、同時に、アイコン的に、並列(パラレル)にとらえられて意味が成立する。
「師」
同時だよね。
これ一文字。
バッと入ってくる。
「絵」だからね。
左はつるした肉、右は肉を切る刀。
出征時、勝利祈願をした肉を切る権限を持つ者。
すなわち、リーダー、先生。
肉と刀は同時に眼に飛び込んでくる。
パラレルな時間観を成り立たせるコトバ(文字)。
パラレルな時間っていうか、通常の意味での時間は、ここには「ない」。
まあもっとも、漢字も並んだ順で意味を持たせるようになるとリニアなコトバになるけどね。
たとえばこんな例。
「介護用品支給事業利用決定通知書」。
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時間の例は映画「メッセージ」のパクリ。
コンタクトものです。
よかったら観てみてください。
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なんか無駄話ばかりになっちゃったけど今回はこの辺で。
新しい質問があったら遠慮なくどうぞ。
にゃ、また。
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