ans002そもそもの易の世界観 | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

ミケ様

にゃんこ先生です。

日当たりのいい駐車場の、雑誌の上はまた格別ですな。

いきなりミケさんの質問を引用します。

(Q002) そもそもの易の世界観を教えてください。

伝統的な解釈や、易ウラナイの本なんかを見るとだいたい書いてそうなことを、フツーのコトバで、ものすごく粗っぽくまとめてみますね。

「まず一大「元気」があった。それが陰(地)の気と陽(天)の気に分かれ、陰陽がいろんな比率で混じり合って、万物が生じた」

   ☆

これって主に道教から来ていて、だいたい、

「道(タオ)は一を生じ、一は二を生じ、
三は万物を生じる」

が引用される(道徳経の何章だったかなあ)。

道は無極(つかみどころなし)。
一は太極(陰陽が潜在し動き始める)。
二は陰陽(完全に分かれる)。
三は万物(陰陽がいろんな比率で混じりあう)。

で、万物は常に変化、流転する。
その動きは止まることはない。
永久に動き続ける。
その変化をとらえるのが易。

基本的事実として、易は占術の書です。

前回、「易は言語である」とエラソーに言ったばっかりなんだけど、それは「易システム」としての話。

史実的には、まずはウラナイの方法であり仕組みなんです。これはまちがいない。

術師は術が使えればそれでいいの!
という実践的立場こそが主流、という考えもモチロンあります。
一般に、実占家の先生方は、実生活への活用、つまり占術の研鑽へと注力していきます。

だけど歴史的にみると、やはりそれだけでは……
という立場もあったわけで。

だからこそ易本体に、道教的解釈、儒教的解釈が付加されて、十翼という十編の参考書が易本体にくっついた。そこではじめて、易は「易経」になりました。

   ☆

だけど、ききたいのはたぶん、こんなことじゃないよね。これなら、ものの本に載ってるもんね。

易の歴史はものすごく古い。
儒教的解釈よりは古いけど、道教的解釈も易の本体から観れば後付けであることにはかわりない。

別に文句を言う気はないけど、
「まず一大「元気」があった〜」の説明だと、

陰と陽の本質ってなんなの?
ということとか、
すべてが関連しあっている、
ということとか、
変化はなぜ起こるの?、
ということとか、

いや、根本的にいって、「そもそもなんで」そんなことがはじまったの??これって考えてもしょうがないことなの?

そういう(たぶん大事な)ことが、イマイチよくわかんないんだよね。

なんかこう、かきまわしたコーヒーにミルクを落としたのを、ただ眺めてるだけ、みたいでさ。

既存の解釈がそれ以上の説明を与えてくれない限り、こういう本質的なことは直観を働かせて考察していくしかないよね。
で、易システムの出番というわけ。

エラソーかな。

ま、エラソーにならないように、続きはまた次回に。
   ☆
→ミケさんの質問