ぼくは占い師じゃない -31ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

ミケ様

にゃんこ先生です。

日当たりのいい駐車場の、雑誌の上はまた格別ですな。

いきなりミケさんの質問を引用します。

(Q002) そもそもの易の世界観を教えてください。

伝統的な解釈や、易ウラナイの本なんかを見るとだいたい書いてそうなことを、フツーのコトバで、ものすごく粗っぽくまとめてみますね。

「まず一大「元気」があった。それが陰(地)の気と陽(天)の気に分かれ、陰陽がいろんな比率で混じり合って、万物が生じた」

   ☆

これって主に道教から来ていて、だいたい、

「道(タオ)は一を生じ、一は二を生じ、
三は万物を生じる」

が引用される(道徳経の何章だったかなあ)。

道は無極(つかみどころなし)。
一は太極(陰陽が潜在し動き始める)。
二は陰陽(完全に分かれる)。
三は万物(陰陽がいろんな比率で混じりあう)。

で、万物は常に変化、流転する。
その動きは止まることはない。
永久に動き続ける。
その変化をとらえるのが易。

基本的事実として、易は占術の書です。

前回、「易は言語である」とエラソーに言ったばっかりなんだけど、それは「易システム」としての話。

史実的には、まずはウラナイの方法であり仕組みなんです。これはまちがいない。

術師は術が使えればそれでいいの!
という実践的立場こそが主流、という考えもモチロンあります。
一般に、実占家の先生方は、実生活への活用、つまり占術の研鑽へと注力していきます。

だけど歴史的にみると、やはりそれだけでは……
という立場もあったわけで。

だからこそ易本体に、道教的解釈、儒教的解釈が付加されて、十翼という十編の参考書が易本体にくっついた。そこではじめて、易は「易経」になりました。

   ☆

だけど、ききたいのはたぶん、こんなことじゃないよね。これなら、ものの本に載ってるもんね。

易の歴史はものすごく古い。
儒教的解釈よりは古いけど、道教的解釈も易の本体から観れば後付けであることにはかわりない。

別に文句を言う気はないけど、
「まず一大「元気」があった〜」の説明だと、

陰と陽の本質ってなんなの?
ということとか、
すべてが関連しあっている、
ということとか、
変化はなぜ起こるの?、
ということとか、

いや、根本的にいって、「そもそもなんで」そんなことがはじまったの??これって考えてもしょうがないことなの?

そういう(たぶん大事な)ことが、イマイチよくわかんないんだよね。

なんかこう、かきまわしたコーヒーにミルクを落としたのを、ただ眺めてるだけ、みたいでさ。

既存の解釈がそれ以上の説明を与えてくれない限り、こういう本質的なことは直観を働かせて考察していくしかないよね。
で、易システムの出番というわけ。

エラソーかな。

ま、エラソーにならないように、続きはまた次回に。
   ☆
→ミケさんの質問
 

ミケ様

にゃんこ先生です。

総じて、するどい質問です。

ていうか深すぎる。

こないだ小魚につられて落ちた公園の池より深い(私も歳です)。しかしあの場合、悪いのは魚のことで不要に騒ぎ立てていたカモ野郎どもで……失礼。閑話休題。

ええミケさんの質問の話。

答えは一言で……
というわけにはいかないようです。

そんなわけで、大変失礼ながら質問を分けさせてもらいました。

できるだけ長くならないように努力します。

じゃ、いきます。

   ☆


(Q001) 易って何ですか?

ええと、まず、これからの話は、にゃんこ先生の独自解釈であることをおことわりしておきます。

伝統的解釈やアカデミックな解釈もあるわけで、独自解釈とは答えがちがってくることも、もちろんクロスーオーバーしているとこもあるわけで、そこらへんについては、判れば,判る範囲で、都度コメントしていきます。

また、あくまで現時点での解釈であって、まちがっていることも、矛盾していることも、予告無く変更されることもあることを、ことを予めお断りしておきます。

とまあ、ここまではお約束の「おことわり」です。
えー、それでまず、にゃんこ先生独自解釈の易を「易システム」と呼びます。
「システム」っていうほどきれいに整っているわけではありません。

これはまあそういう名前にしたってだけ。
ま、ちょっとカッコいいかな、って。

   ☆

で、まず、易ってなんだ、って話なんだけど、にゃんこ先生は「言語」だと思ってる。

コトバ。

その大本には音があって、

音は集まって単語をつくる。
単語は集まって文をつくる。
文は集まって段落をつくり、
段落は集まって節をつくり、
節は集まって章を、
章は集まって、

一冊の書物という、この世界になる。

コトバって、なんでしょう。

まずは、お互いに意志をの疎通をはかるための道具だね。
コミュニケーション・ツール。
ふつうはそこで話は終わるんだけど、もっと別の深い役割があるよね。

ひとつは象徴としての機能。

さらに深いところには、言霊やカバラに代表されるような根源的な創造力、または場を調律する振動の元としての機能があるけど、それは今はちょっとおいときます。

ここで大事なのは、深い機能もあって、コミュニケーション・ツールでもあるけど、認識を形成する道具であり材料であり方法であるということ。

やってみればわかると思うけど、コトバなしでイメージや感覚「だけ」で物事をとらえるのはちょっとむずかしいよね。

かならずコトバがくっついてまわる。

ていうか、

コトバによって認識が成り立っている、といっても言い過ぎじゃないと思う。

これは決してでっちあげじゃなくて、知ってるかもしれないけど、言語学の世界に「サピア=ウォーフの仮説」ってのがある。

カンタンに言ってしまえば、「使うコトバによって観る世界がちがう」という事。
いってみればコトバが世界観を創っている、というワケ。

卑近な例でいえば、「肩こり」というコトバのない欧米圏の人たちには肩こりがない(らしい)とか、日本人だって明治以前には「肩こり」はなかった、なーんて説もあるみたい。

「肩こり」というコトバは漱石あたりの小説で、初めて使われたコトバみたい(やっぱすごいにゃ〜ソーセキ先生は)。

つまり先の仮説に従うなら、漱石あたりがそんなコトバを創らなければ、今頃ぼくらは肩こりのない世界に住んでたのかも(よけいなコトしてくれたにゃ〜ソーセキ先生は)。

当然コトバは「時間」の認識にも影響を与える。

英語のような表音文字は、頭から順番に字を拾っていかないと、意味が解らない。

「teacher」

t→e→a→c→h→e→r。

リニアな時間観を成り立たせるコトバともいえる。

一方、漢字のような表意文字は一つの文字の構成要素が、同時に、アイコン的に、並列(パラレル)にとらえられて意味が成立する。

「師」

同時だよね。
これ一文字。

バッと入ってくる。
「絵」だからね。

左はつるした肉、右は肉を切る刀。
出征時、勝利祈願をした肉を切る権限を持つ者。
すなわち、リーダー、先生。

肉と刀は同時に眼に飛び込んでくる。
パラレルな時間観を成り立たせるコトバ(文字)。
パラレルな時間っていうか、通常の意味での時間は、ここには「ない」。

まあもっとも、漢字も並んだ順で意味を持たせるようになるとリニアなコトバになるけどね。
たとえばこんな例。

「介護用品支給事業利用決定通知書」。

   ☆

時間の例は映画「メッセージ」のパクリ。
コンタクトものです。
よかったら観てみてください。

   ☆

なんか無駄話ばかりになっちゃったけど今回はこの辺で。

新しい質問があったら遠慮なくどうぞ。

にゃ、また。

 

 

→ミケさんの質問

そもそもなんでこのブログをはじめたかというと、きっかけは……実はよく思い出せない。

そんなに深い理由などなかったのかもしれない。

「ブログ」という言葉が、ようやく一般的になりはじめたころだったから、たぶん、ただ何となく珍しくてはじめたことなのだろう。

自分勝手な易の解釈を、「易システム」などと勝手に銘打ち始めたのは2005年頃だ。

そのころ、このブログも始めた。

「易システム」が形になりはじめたのは、「十三月の暦」の関係で知り合ったミケさんから、易のことを知ってるんなら、知ってることを説明してもらえないか、と依頼されたことがきっかけだった。

これを書いているのが2020年だから、もう15年以上も前の話だ。

   ☆

そのミケさんに、先だって紹介した「WINDWATCHER」カードを贈らせてもらったのがきっかけで、記憶は定かではないが、たぶん一昨年の夏(2018年)に、淡路町のワテラスで、久しぶりにお会いすることがあった。

例によって易の話になったのだけれど、そのときミケさんと話をしていて、「易システム」についてまだまだ話せていないことがたくさんあるなあ、と感じた。

というより、15年前はまだ「易システム」はちゃんと形になっていなかったのだ。

いや、今でも「形になっている」とは言い難い。

「易システムハンドブック」以降、ブログトップに載せているいくつかのドキュメントを書き継いできて、もう少し説明しておくべきことが増えた、といった方が正しい。

   ☆

最初はただぼやっとした、説明不足な感じがあっただけで、どこから説明していいかわからなかった。

そこで、ミケさんに、

「今の時点で知りたいことを質問にまとめてもらえませんか」

とお願いした。

さらに無理をいって、その質問にメルマガ形式で答えさせてもらうことにした。

たったひとりの読者様に向けての「メルマガ」である。

おくってもらった質問に答えるべく、原則毎週、ミケさんにメールさせていただいた。

結局、メールの総数は60通以上になった。

たぶんミケさんも、いいかげんウンザリだったとは思う。

いや、もうしわけない。

最後までつきあっていただき、ありがとうございました。

   ☆

そういうことでハイ終わり!というのも、ボリュームからしてももったいない。

そこで、ミケさんに送らせてもらったメール群を手直ししてこのブログに載せることにしました。

で、この記事から「ミケさんへのメール」という、テーマを新しく作り、連載していこうと。
そういうわけです。

メールの中では、ぼくはふざけて、「にゃんこ先生」と名乗らせてもらってます。
ただの易好きのおじさんで、実のところは、先生でもなんでもないんですが。

そんなふうにして始まった、このおひとり様向けメルマガも、これでやっと、日の目を見ることができるということです。

   ☆

回答……ミケさんにお送りしたメール自体は、次回から連載していこうと思います。

このブログは、原則月一で書き継いでおりますが、もう少し詰めて連載できればとも思っています。

まずは、ミケさんからいただいた質問を掲載させていただいて今回のイントロは終わり、ということにしたいと思います。

質問自体はシンプルで、そんなに長いものではありません。だけど、これらの質問に答えるのに実に60通以上のメールが必要だったということです。

質問と回答。

この対は、易という占術の骨格ですが、あらためて「質問」のパワーを感じました。

ミケさんからいただいた「質問」は末尾に示したようなものでした。

これがこれからの記事のマイルストンになります。

なお、もともとの質問を、回答の便宜にあわせて、分割させてもらいました。

よろしくお願いいたします。

ではまた。

   ☆

【ミケさんからの質問】

(Q001) 易って何ですか?


(Q002)そもそもの易の世界観を教えてください。

(Q003) この世界とはどんなものなのでしょうか?
捉えているスタンス(視点・出発点)を明確にしてもらえますか?

(Q004) 易がわかることで、どんなことができるのですか?私たちの生活に何か利点がありますか?どんな風に活かしていくことができますか?

(Q005) たくさんの特定の用語(名称)が出てきますが、整理して教えていただけますか?
易のもともとの概念の、どこを指しているのか?
またはどこを発展させた名称なのか?
その名前がつけられた視点がわかるとありがたいです。
土台の概念の部分なので、言葉での一覧だけでなく図解してあると、今後の学びの時に使えるリファレンスになると思います。

以上。

「六十四卦雑想」。
お話の本体はすでに終わっています。

せっかく六十四卦に対応した自分なりのイメージを描いたので、PDFにまとめてみました。

このPDFと使用説明書(これもPDFファイルです)への直接リンクを、ブログトップのメッセージ・ボードに追加しましたので、よろしければご笑覧ください。

ファイルサイズが大きいので開くのに少々時間がかかるかもしれません。

他の易システム関連PDF同様、無料です。
閲覧、複製、配布、自由です。

   ☆

この「六十四卦雑想」で描いてきたイメージをまとめたものに「WINDWATCHER(風を観るもの)」というタイトルをつけました。

陰と陽は、この宇宙を成り立たせている基盤に生じた気圧差のようなもので、風はその間を流れる。

その風の動きを読むためのツールといった意味合いです。

   ☆

各「易タングル(ゼンタングル)」は、B5サイズ(小さいレポート用紙の大きさ)の上半分に収まるようにまとめてあります。

このサイズにした目的は、半分に切ってB6サイズの「カード」にして使うためです。

B6というサイズは「カード」と呼ぶには大きすぎると思われるかもしれませんが、大昔にはやった「情報カード」、いわゆる「京大カード」のサイズで、余白にいろいろ書き込んで使うことを意図したものです。

大きい文具店などでは、情報カードをあつかっているところもまだあるようです。
カードフォルダなどもB6サイズのものをそのまま流用することができます。

   ☆

厚手のB5の紙に「WINDWATCHER」を半分のページ数分だけ印刷します。

この段階では各ページの下半分は空いていますので、このスペースに、もう半分を、再度方向を変えて印刷します。

できあがったB5ドキュメントの各ページを真ん中から裁断してB6のカードを作れば、紙も無駄にならないですみます。

具体的なカードの使い方については「WINDWATCHER」のマニュアル(数ページのものです)を参照してください。

   ☆

もともと、このカードは個人的に使用するために作ったものです。

ですので「マニュアル」といっても必要最低限のことしか書いていません。
「易」についてある程度わかっていることが前提になります。

描かれているイメージは、ぼく自身の、各卦に対応した(個人的な)イメージですので、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。

いったん描いてしまうと、イメージは紙の上に固定されます。
占術のシンボルとしての大成卦のイメージは本来、諸条件によって動的に変化していくものだとも思います。

「WINDWATCHER」をご利用になる場合は、以上の点をふまえてご利用ください。

よろしくお願いいたします。
 

湿っぽい話も、個人的な話も、ここではあんまり書きたくないな、と思ってました。

易のブログなので。

だけどこの、「六十四卦雑想」のテーマのシメでは、ちょっと前に他界した父親のことは、やっぱり書いておくか、という気になりました。

もちろん美談でもなければ、たいした話でもありません。

   ☆

成人して家を出てからというもの、ぼく自身も所帯を持ったということもあり、父親と会うのも年に数回程度で、父親が倒れるまでは何十年もそんな感じでした。

父親の具合が悪くなってから、父親が入った病院、それから施設へと、毎週通うようになりました。

時間的にも精神的にもちょっとだけキツくて、そのころ知ったゼンタングル(*1)を描きはじめました。

ところで、易の卦は六十四あります。
そのひとつひとつの自分なりのイメージを、ゼンタングルをつかって表現してみようと思い立ちました。

手慰みといってしまえばそれまでですが、たとえごく短い時間であっても、描くという行為そのものに没頭することは、ずいぶん心を軽くするものだなあ、と思いました。

もちろん人によると思いますが、けっこうな御利益です。なぜ心が軽くなるのかメカニズムはわかりませんが。

ゼンタングルは、「タイル」と呼ばれるコースター大の画用紙とペンがあれば描けます。
この手軽さも助けになりました。

スペースと、時間がちょっとでもあれば、どこでもできるからです。

実家でも。
病室でも。
施設でも。

父親が倒れてから他界するまで、足かけ2年の間に描いたものが、この「六十四卦雑想」でご紹介した、一連のゼンタングルです。

   ☆

毎週日曜日に父親に会う中で、特に印象に残っているのは、頼まれて持参した自分宛の年賀状を、ギャッチアップしたベッドの上で、一枚一枚いとおしそうに眺めていた姿です。

父親はネットとかパソコンとかはぜんぜんダメなので、毎年、手書きの原稿をぼくに送ってよこし、ぼくはそれを清書して年賀状に印刷して父親に送っていました。

父親は儀礼的な挨拶だけの年賀状ほどつまらないものはない、と常々言っていました。

なんていうことのない、たいしてうまくもない短文でしたが、年賀状にはいつも自分の近況やそのときの気持ちを綴っていました。

どうやら父親にとっては、年賀状を出すということは「出版」と同じ事のようだったのです。

正月前に倒れたので年賀状が出せず、施設に入ってようやく落ち着いたのが、春になってから。
年賀状を出すには遅い時期でしたので、「盛春雑想」と題して、近況報告みたいなものを、年賀状を送ってくれた人たちへの返礼として出してくれ、と頼まれました。
寝たきりで「原稿」はもう書けないので、施設の部屋にポメラを持ち込んでの口述筆記です。

「盛春雑想」は「これからも続きます、次号もまたヨロシク」というような文面で終わっていました。

しかし結局それが、最後の「出版」になってしまいました。

   ☆

いまここでぼくが書いているブログのテーマは「六十四卦雑想」ですが、「雑想」というワードは、父親の「盛春雑想」から拝借しました。

創刊号で即廃刊になってしまった「盛春雑想」に代わって、父親の書きたいものとは内容も体裁もメディアもぜんぜんちがうけど、ぼくなりに「後を継いで」書いてきたつもり……

とまあ、そんなワケです。

これをお読みになっていただいている数少ない読者様方には、直接関係のない個人的な背景です。

すいません。

   ☆

ぼく自身はまだ元気なので、アメブロという場を提供していただいているサイバーエージェントがどうにかならない限り、当面このブログは継続するつもりです(笑)。

これからもどうぞヨロシク。

う〜ん、しかしヨロシクとは書いたものの、次回からは何を書こうかな……

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*1
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーーはじめに」を参照してください。
 

82:臨
17:遯
TP18:変容

長々と続けてきた「六十四卦雑想」のテーマも、最終回である。

各爻の陰陽が反転した関係にある大成卦どうしを「ツイストペア」と銘打って、大成卦ふたつづつを紹介してきた。

大成卦は全部で64あるから、ふたつづつで32回。

易タングル(*1)には、どの大成卦にも対応しない「ブランク」が一枚あるから、全33回。

「TP」はツイストペアの略で記事の冒頭にある「TP18」は18番目のツイストペアであることをあらわす。

この番号は、ここで紹介した順番ではなくて別のルールでふられた番号。
この番号ももちろん全部で32、TP01〜TP32までがある。

   ☆

「遯」と「臨」。


【17:遯】


【82:臨】

シンプルなタングル。

水平線だか地平線だかのようなものがあって、なんだかヒラヒラしたパターンがそこから去っていくように見えるのが「遯」だ。
逆に、ヒラヒラがそこへ向かっていくようにみえるのが「臨」だ。

このヒラヒラは、ゼンタングルで「ケイデント」と呼ばれるパターンで、一連の「易タングル」では、なんとなく、「風」のようなものをあらわしている。

「風」は去り、またやってくる。

   ☆

「遯」は、のがれる、しりぞく、の意味。
引退の意味もある。

爻辞にはのがれ方のいろいろ、引退のスタイルについて書かれている。

大成卦のカタチを観ると、一番下、初爻とその上の二爻が陰で、あとは陽である。

易の場合、原則、変化は下から起こってくる(周易、十二消長卦の原則。易は逆数なり)。

陰は「おおむね」悪いものとされていて(これもどうかと思う。だけど、レガシーではそう)、この二陰は小人(しょうじん)、つまらない人、モノ、事。

それらが、だんだん下からあがってくる、というわけ(十二消長卦)。

しかももう一段上の爻、三爻も陽から陰に転じてしまえば、これは全体として「否」という卦になってしまう。

否は否塞、ふさがるという意味で、天と地の往来が(一時的にではあるものの)完全に途絶えてしまう状況をあらわしている。

これじゃやってられんわ、というわけで、賢人はつまらぬ争いから逃れ、引退する。

この世を「つまらない争い」とひとくくりにするのはあまりに乱暴すぎるけど、やがて皆、この世を引退するときがくる。

ケイデントは「風」だ。

「遯」では、
「風」はこの地上から離れようとしている。

「風」という文字を見ると、
亡くなった現代詩の先生を思い出す。

ペンネームだったのだろう。
手紙の末尾にはいつも、
「風」と記されていた。

   ☆

何かに臨む、向かって行くのが「臨」。
臨海学校の「臨」。

臨む方向。
ふつうは下から上を臨むわけだが、
上から下を見下ろせば「君臨」になる。

勢いのある卦だが、
臨む方向が終わりの方だと、
これを「臨終」という。

人生の一大事は終わりだけじゃない。
はじまりだってある。
いよいよ生まれる。
「臨月」。

臨み方のいろいろが、
この大成卦の爻辞になっている。

幕末の軍艦、「咸臨丸」の名はこの卦の初・二爻辞からとられたというのは有名な話。
日本人の操艦により初めてアメリカに臨んだ。

爻を二つづつまとめるやりかたで観ると、「臨」は、でっかいひとつの八卦、「大震」であり、全体としても勢いがある。

   ☆

ツイストペア全体の意味としては「変容」とある。

なぜ「変容」なのかというと、「遯」と「臨」を並べて観たときに、陽爻のカタマリが上から下へと、かつての女子高生のルーズソックス(古い)のようにズリ落ちていくようにみえたからである。

このズリ落ちていく陽爻群が「皮」にみえた。
つまり、「脱皮」である。
生まれ変わる。
だから「変容」。

古い形態の終わりは、(「遯」)。

新しい次元の始まりは、(「臨」)。

「風」は去る。

そしてまた、やってくる。

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*1
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーーはじめに」を参照してください。

*2 「go die go」
昔、「ゴダイゴ」というバンドがあった。

83:明夷
16:訟
TP25:エゴ

   ☆

夷<イ>は傷つくことで、
「明夷<メイ・イ>」は、
明らかなものが傷つくことである。

明らかなものとはなんだろう。
ここでは、下卦「離」の知慧である。

この「離」は上卦である「坤」の大地の下に隠れてしまっている。

隠れた太陽(「離」)。

正しいことが通らない。

太陽はまだ地平線(「坤」)の下にある。

夜明け前。

ゼンタングル(*1)はこんな感じ。

シューティング・スター。

星は墜ちる。

道に迷って。


【83:明夷】

「明夷」は悲しい。

光がないから、正しいことが正しいとされないから悲しいともいえるが、それは表面的なことだ。
光の上に覆いかぶさっているのは、レガシー(*2)では暗愚の王とされる。

暗愚。

ものわかりが悪く、暗く、愚かなことである。

実は先はよく見えないんだけど、人の上に立ってしまった人(上卦)。

ついつい、この馬鹿者さえいなければ……と思いたくなるが、おそらく事はそう単純な話ではない。

下敷きになっている光(下卦)も悲しいが、この王様も悲しい。

とにかく、この明夷と訟のペアの話は書きにくい。

明夷の場合だと、自分が、自分こそが、この「暗愚の王」だったのではないかと思ってしまう。
この手で、この足で、いったいいくつの、輝く星を踏みつけにしてきたことだろう。

誰が悪いわけでもない。

それはわかっているつもりだが、こんな状況では、争いも起きようというもの。

   ☆


【16:訟】

「訟」は争うことである。
「訟」は「訴訟」の「訟」。

全体として、あまりいいことが書かれていない。

レガシーとしても、争いはできれば避けた方がいい……というニュアンスがただよう。

卦辞にも、

〜終凶。
利見大人、不利渉大川。

とあって、

これは、

「いろいろ言ったけど、
結局、最終的にはいいことなしだ。
マトモな第三者の意見を聞いた方がいい。
大事な事はしないように」

てな解釈になろうか。

初爻〜上爻のうちで、訴訟に勝つのは五爻のみで、ここには例の、経文中でときどき見かける極端に短い爻辞がつけられている。

訟、元吉。

「訟」は卦名だから、実質爻辞は「元吉」だけ。
「いわなくてもわかるだろう」のパターンだ。

元より吉。

「勝つよ」

でもよく見ると、全体の意味(卦辞)の中に「終凶」とあるのである。
より正しくはこんな感じか。

「勝つよ。
で。それがどうした?」
(↑極端に短い爻辞の、目に見えない余韻)

池田晶子さんの本に「勝っても負けても」というのがあったが、易のテキストはここでは、勝っても負けても結局よくない、と言っている。

タングルは、シューティング・スターの逆で、星が駆け上って花を咲かせているようにみえるが、「終凶」という全体状況(卦辞)の中での、小さな花であるということを忘れてはならない。

   ☆

「だれ」が傷つけるのか。
そして
傷つきやぶれるのは「だれ」か。

そこに、「自分」という領域の境界がある。

なんのために争うのか。

大儀のために……ということもあるかもしれないが、つきつめると、たいがいは「自分を守るため」もしくは、「自分の主義主張を守るため」というところに落ち着くことが多いのではなかろうか。

そんなわけで、このペアには「エゴ」という意味を付けたのだと思う。

もちろん、「エゴ」が悪いわけじゃない。
「エゴ」だって一所懸命やっているのだ。

一所。
一つ所。
一つ所に命がけ。
これを一所懸命という。
自分をつくる「境界」にかこまれた、一所。

限られた場所にこだわりだすと、苦しくなる。

「境界」は、実は可変である、
という選択肢を忘れしまうからだ。

でも、

あらてめてふりかえってみると
自分というものほど、あやふやなものも
ないような気がする。

そうすると「エゴ」の正体も、
よくわからなくなってくる。

結局、「たしかなもの」などないだろう。

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*1
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーーはじめに」を参照してください。

(*2)
レガシー。遺産。伝統的な易の解釈。

15:コウ(「女后」→「女」へんに「后」(*2))
84:復
TP32:出会い

いずれも、最初の爻である初爻、易のシンボルである大成卦の一番下の線(爻)だけが、他の5つの爻とその陰陽を異にする卦である。

タングル(*1)のストリングスはひし形をしているが、真ん中の四角い穴が、「15:『女后』(コウ)」では黒く、「84:復」では白く、さらに中にちいさな珠が浮かぶ。


【15:コウ(女后)】


【84:復】

「15:『女后』」は初爻が陰、上五つは陽爻である。

「84:復」は陰陽反転で、初爻が陽、あとは陰爻。

陰を黒、陽を白として、タングルでは、まんなかの四角を初爻にみたてている。

易システム(筆者独自の易解釈)の中で「レガシー」と呼んでいる伝統的な易の解釈では、「15:『女后』」は出会い、「84:復」は帰ること、である。

易システムでは、各爻が陰陽逆の関係にある大成卦どうしの対を「ツイストペア」と呼び、このペア自体にも意味をつけている。
「15:『女后』」と「84:復」のペアには「出会い」という意味をつけた。
「15:『女后』」の方の、卦名の意味(邂逅)を代表して、ペア全体の意味とした。

   ☆

レガシーにおける「15:『女后』」の解釈は、出会いは出会いでも、予期しない出会いであり、それも、あまりよくない出会いとされる。

なぜよくないかというと、初爻だけが陰爻で、残りの5つの爻が陽爻といことは、女がひとりで男が5人だからである。

なんじゃそれ?

と思われるかもしれない。

でもレガシーでは、ひとりの女が5人もの男を相手にすることなど、ケシカランというわけだ。

この卦がでるといつも思い出すのは、山本リンダ、「じんじんさせて(1972)」という歌の中の

「だれもかれも花をかかえて戸をたたく」

という一節である。

扉の向こうには、5人の男が花束をかかえて列をなす。

1972年の歌だ。

1972年からみると、はるか古代のレガシーの解釈では、ハシタナイ!ケシカラン!のである。

爻辞もそれらしいことが書かれており、結婚にはよくない卦とされる。

このあたりになってくると、時代的にも考え方的にも、なんだかもう、ぜんぜん、はずれてしまっている。

だが、伝統というものは、よくもわるくも、集合的無意識に根を下ろした複合体のカタマリなので、無視するわけにもいかない。

伝統のすごいところは、「ドンピシャ」ということが、ままありえることだ。
「複合体」のなせるわざだろうか。

これも伝統を無視できない理由のひとつである

一方、「よくない出会い」「結婚にはNG」ということを、キャッチフレーズ風にとらえてしまうと、固定観念、紋切り型の占断につながってしまうおそれがある。

だからまあ、レガシーの解釈はアタマのスミにでも置いておいて、希釈して使うくらいでちょうどいいのかもしれない。

易システムとしては、いい、わるいは別にして「思いがけない」というところにウエイトをおきたい。

   ☆

「84:復」は、レガシーでは「帰る」ことである。

どこに帰るのか。

「復」の字のとおり、もといたところ、もとの状態に帰る。

「復帰」する。

「回復」ととらえたいのが人情だが、卦全体としては実はあまりよくない。

それっ!と飛び出していく。
だが、
道半ばで引き返す。
もといた場所に戻る。
あるいは誰かに引き戻される。
初爻から離れれば離れるほど戻りづらくなる。
やりなおしがきかなくなっていく。

家出人の占などではいいのかもしれない。
道半ばで考え直し、アタマを冷やして戻ってくるという解釈も成り立つ。

「84:復」は、全陰の「88:坤」の初爻が、やっと陰から陽になった状態にも観える。

その観点(十二消息卦)から、冬至の卦とされる。

早稲田の穴八幡で冬至に配られる一陽来復のお守りには、毎年、善良な老若男女が殺到する。

この「一陽来復」の一陽は、易的には、全陰の「88:坤」の初爻に飛び込んだ陽(復の初爻)のことだ。

「来復」の「復」はこの卦のことである。

凍てついた全陰の大地に、一筋の「陽」が射す。

気の運行としては「春の訪れ」だが、12月20日ごろの冬至では、体感的には冬はまだ始まったばかり。
気の運行は空気の(大気の)運動に先行する。

   ☆

「出会い」と「復(か)えること」。

このふたつを「ツイストペア」として、どうやって統合するのか。

「帰ること」は新しい周期の始まりということでもある。
「引き返す」というよりも、周期をあらわす十二消息卦の、あたらしい周期のスタートとして観たい。
そもそもの基点に戻ったということだ。

そこに、「出会い」が重なる。

それもただの出会いではなくて、「思いがけない」出会いである。

新しい周期は、いつも思いがけない出会いから始まる。
ツイストペアの意味としては、いちおう、こうしてキレイに(?)まとまるのである。

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*1
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーーはじめに」を参照してください。

*2
「女后」←1文字(女へんに后)だと思ってください。この文を打っている環境(昔のポメラ)では出ない字です。あいすみません。

23:革
76:蒙
TP20:純粋さ

   ☆

互いの爻が陰陽反転の関係にある大成卦どうしを、筆者独自の易解釈である「易システム」では「ツイストペア」と呼んでいる。

「23:革」と「76:蒙」はツイストペアで、易タングル(ゼンタングル)では、共通の境界線(ストリング)で描くようにしている。

易システムではツイストペア自体にも意味をつけている。
今回のツイストペアの意味は「純粋さ」という意味がつけられている。

「つけられている」などというと、いかにも他人事のようだが、「易システム」とつきあいだしてから9年もたってしまうと(最初のハンドブックのリリースは2010年)、無責任なようだが、書いた人間は、自分ではないような感じになってくる。

なぜ「純粋」という意味をつけたのか……ということなど、とうの昔に忘れてしまっているのだ。

   ☆

最初は、「76:蒙」の意味を代表させてツイストペアの意味にしたのかな、と思った。

蒙は、何かにおおわれて暗いという意味で、暗いことはすなわち無知で、無知を啓(ひら)く(啓発する)ことを「啓蒙」という。


【76:蒙】

無知を啓(ひら)くには、啓かれる側に未知のことを受け入れる純粋さが必要で、それを「76:蒙」の卦辞は、幼い子供が眼をきらきらさせて、「ねえなんで」ときいてくる、あの純粋さにたとえる。

「76:蒙」の卦辞には、もうひとつ、チョー有名な一節があってそれは次のようなものだ。

初筮告、再三汚、汚則不告。利貞。

意訳すると、

「最初に答えは出ているだろうが。同じ問いで何度もやりなおすな。まじめにやれ」

てな感じになるか。

あることを占って、その結果が気にくわないので、もう一度やり直す。

卜占の場合、占をたてる方法が簡単であればあるほど、だれしも、ついやりたくなることではある。

「う〜ん、もう一回!」

人情だ。

それは、わかる。
わかりすぎるほど、わかる。

しかし、状況が変わったのならともかく、そうでなく、答えが気にくわないからやり直すというのでは、占う意味がない。

「気にくう」結果がでるまで、サイコロをふりつづける、あるいは筮竹をさばきつづける、はたまた、コインをなげつづける、いいカードがでるまでカードをひきつづける……

のだろうか。

システムに「お伺いをたてて」いるのだ、という「純粋さ」に欠けているのである。
謙虚さと敬意にも、欠けている。

純粋さがあったり、なかったり。

いやもちろん、あった方がいいに決まっている。

五爻、童蒙、吉。

とある。

童蒙は、眼をきらきらさせて「ねえなんで」ときいてくる純粋な子供のことである。

爻辞には、この五爻のように極端に短いものがある。
どことなく、

「わかってるだろ。これ以上言わなくても」

的な雰囲気がただよう。

   ☆

「23:革」。

「23:革」はあらためること。

革命の革である。


【23:革】

このチェッカーフラグのような布は革命の旗。

先生の本(*2)によると、西欧近代の革命は民衆(下)から起こるが、古代中国では天の意志による上からの革命を意味したそうだ。

上意下達。

人為的なものというより、「かわる」という自然の理法なのである。

タングルの革命の旗もその市松模様の色がかわりつつあるところを描いている。

よって、君子(天子=王)はその理法に則り、すばやく自らをあらためる。
これを「君子豹変」(上爻)という。

「豹変」というと、一般的な現代の用法では、手のひらは何度返しても減らないんだぜ……

といったような、あまりいい意味にはとられないが、「君子豹変」の豹変は、理法のきざしを読み、豹がその毛皮をあらためるように、すばやくあらためるということで、いいことなのである。

君子豹変のあとには、「小人革面」とある。

小人(ちっぽけな人間。まあぼくも含めてたいがいの人間ということ)は「面(ツラ)」、表面(おもてヅラ)だけあらためて(革)、かわったフリをするが、実際にはなにもかわってない、ということ。

つまり……純粋さに欠けるのである。

どこか、こすっからい。

目先の損得で右往左往する。

駆け込み乗車する。

上爻の下、五爻の爻辞には「大人虎変」とある。

大人(「だいじん」。「おとな」ではない)は、君子ほどではないにしろ、小人よりははるかにできた人間のことである。

「虎変」はあまり聞かないが、「豹変」ほどではないにしろ、トラの毛皮くらいには、すばやく、あらためることである。

五爻は大成卦の爻の位の中ではもっとも尊い位置で、尊位などと呼ばれることもある。

それより上の、「豹変(上爻)」は超人的なステイタスであり、現実的には「虎変」あたりがMaxということだろう。

現実的とはいっても、大人(だいじん)らしい大人(おとな)はめったにいない。

たぶん大人(だいじん)は、駆け込み乗車はしない。

   ☆

このツイストペアにどうして、「純粋」という意味をつけたのか、ということから始まって、いろいろ書いてきたが、自分が書いたハンドブックがあるのだから、それで確認すればいいじゃないか、ということに今頃気づいたりしている。

よいしょ、っと、見てみる。

こういう、ちょっとしたことを、メンドクセエと思うのは歳とった証拠だそうだ。

ハンドブック、曰く。

『「蒙」で自分が何も知らないことを知り、「革」であらためる。』

あ、シンプルなお話になってるんだ。

『いったん、自分が何も知らないことを知れば、そのとたんに、新しい知識は奔流のごとく流れ込む。自分を空にできないと、自分が清流になることも、清流の活動に参加することもできない』

それで、純粋さが必要、ということになっている。

タングルでは「蒙」も「革」も暗闇に布のようなものが浮かんでいる構図になっている。

そのように意図したわけではないが、ひょっとしたら同じ旗の裏表なのかもしれない。

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*1
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーーはじめに」を参照してください。

*2
「現代の周易」笠原維信 プロスパー企画 2008
過去、二年間ほどお世話になった。

65:井
34:噬<口盍>ゼイゴウ
TP24:内面と外面

   ☆

このふたつのゼンタングルは大小の正方形が共通のモチーフ(ストリング)になっている。
大きい正方形(全体の枠)が小さい正方形を取り囲み、簡単な入れ子状になっている。

小さい方の正方形が意味するものは、「65:井」と「34:噬<口盍>ゼイゴウ」ではまったく異なっている。まあ、違う卦なのであたりまえなのだが。

   ☆

「34:噬<口盍>ゼイゴウ」は障害物をかみくだく象(カタチ)だ。

どこがそうなの?という話については易卦の象を見た方がわかりやすいかも。

初爻と上爻だけが陽で、間の4つの爻がすべて陰の易卦を「74:頤(い)」という。

「74:頤」はアゴ。
ぱかあっと開かれた口。

「34:噬<口盍>ゼイゴウ」は「74:頤」の4爻だけが陽になった卦だ。


【「74:頤」と「34:噬<口盍>ゼイゴウ」の易卦】

つまり「34:噬<口盍>ゼイゴウ」は、ぱかあっと開かれた口「74:頤」に異物(4爻の陽爻)が投げ込まれた象なのである。

こんなよけいなものがあったのでは、口を動かすこともままならない。

キモチワルイので、邪魔モノはさっさとかみ砕いてしまうに限る。

これが「34:噬<口盍>ゼイゴウ」の大意。

目の上のタンコブならぬ、口の中の異物。


【34:噬<口盍>ゼイゴウの易タングル】

でまあ、やっとタングルの話になるのだけれど、「34:噬<口盍>ゼイゴウ」のタングルでは中心にある四角がなんだかもやもやしたもので埋められている。

これはこれで「アメイズ(Amaze)」というれっきとしたゼンタングルのパターンなのだが、うにゃうにゃモヤモヤしている。

これが「障害物」。

障害物は両側のポップな黒い稲妻で打ち砕かれようとしている。
この黒い稲妻は「チャーツ(Charts)」というゼンタングルのパターン。

実際の占断ではこの「障害物」を何にみたてるかが軸足になるだろう。

いやな上司?
ライバルの同業他社?

それとも、自分自身か。

まあなんにしろ、障害物はかみ砕かれるか、時間に浸食されるかして、いずれは消えてなくなる。

たぶん。
かならず。

易そのものが変化にフォーカスしたシステムであることを忘れてはいけない。

吉凶は相対的で、変化するものが悪いものである時は吉であり、いいことが変化するとそれは凶ということになる。

いい悪いは、時代により人により状況により千差万別。

よくも悪くも「変わらない」というのは幻想なのである。

「34:噬<口盍>ゼイゴウ」という卦自体は、やむにやまれずではあるが、障害を「かみ砕く」ことを薦める。
変化のことわりに従うなら、黙っていても、いずれは消えるのだが。

で、消えてなくなったあとは、ぱかあっと開かれた「74:頤」になるのだろうか。

「74:頤」は「虚無」という感じでつかみどころがない。

各爻が互いに陰陽反転しているペア(ツイストペア)ごとに紹介しているこのシリーズでは、そうはならない。

「34:噬<口盍>ゼイゴウ」で、いかにもどうしようもなかった「障害」が失せた後(反転させた後)にあらわれるのは虚無ではなく、静寂をたたえた深みである。

   ☆

「65:井」の易タングルで、真ん中の正方形が示すものは「井戸」だ。


【65:井の易タングル】

「65:井」の爻辞は初爻から積み上げ式によくなっていくお話になっていて、大成卦の上を初爻〜上爻にむかって流れる時間に沿っている。

「11:乾」と同様、比較的わかりやすい。

易経というドキュメントの定石として、上爻までいくとたいがい「やりすぎ」といったニュアンスになって、上爻辞はあまりいいコメントでなかったりする。
「11:乾」などでは、龍が天高く舞い上がったまではいいが、上爻では昇りすぎて後悔し、用九に至っては群をなした龍どうしが相争う始末。

ところがこの「65:井」の爻辞は、最初は掘っても出てくるのは泥水で、誰にも見向きもされなったものが、苦労して泥をさらい、石垣をつくって(四爻)ようやく冷たい水を皆が飲んでくれるようになって(五爻)……

さて上爻では、より多くの人々に水を行き渡らせるため、その井戸にフタをするなとある。

孚<まこと>あり、元より吉。

元吉。

そもそもそれは、よきことなのだ。
そもそもそれは、そこにあったのだ。

「変わらないというのは幻想だ」と前の方で書いたけど、それはたしかにそうなんだけど、それでも変わらないものがここにある。

矛盾しているようだけど。

初爻辞に「旧井」の文字が見える。

古い井戸。

ということは、ここで描かれている井戸は、ストーリーの主人公が新しく掘った井戸ではなくて、そもそも最初からそこにあった井戸を、主人公がリペアしただけのことだった……のかもしれない。

卦辞に「邑<ユウ>を改めて井を改めず」とある。
「邑」は村、集落のことで「集落は変わっても井戸は変わらない」ということだ。

人生をかけてあちこち探し歩いてはみたものの、「変わらない」井戸は、深く静かに冷水をたたえて、ひょっとしたらいつもそこにあったのかもしれない。

そこ。

あなたの足下に。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。