83:明夷
16:訟
TP25:エゴ
☆
夷<イ>は傷つくことで、
「明夷<メイ・イ>」は、
明らかなものが傷つくことである。
明らかなものとはなんだろう。
ここでは、下卦「離」の知慧である。
この「離」は上卦である「坤」の大地の下に隠れてしまっている。
隠れた太陽(「離」)。
正しいことが通らない。
太陽はまだ地平線(「坤」)の下にある。
夜明け前。
ゼンタングル(*1)はこんな感じ。
シューティング・スター。
星は墜ちる。
道に迷って。

【83:明夷】
「明夷」は悲しい。
光がないから、正しいことが正しいとされないから悲しいともいえるが、それは表面的なことだ。
光の上に覆いかぶさっているのは、レガシー(*2)では暗愚の王とされる。
暗愚。
ものわかりが悪く、暗く、愚かなことである。
実は先はよく見えないんだけど、人の上に立ってしまった人(上卦)。
ついつい、この馬鹿者さえいなければ……と思いたくなるが、おそらく事はそう単純な話ではない。
下敷きになっている光(下卦)も悲しいが、この王様も悲しい。
とにかく、この明夷と訟のペアの話は書きにくい。
明夷の場合だと、自分が、自分こそが、この「暗愚の王」だったのではないかと思ってしまう。
この手で、この足で、いったいいくつの、輝く星を踏みつけにしてきたことだろう。
誰が悪いわけでもない。
それはわかっているつもりだが、こんな状況では、争いも起きようというもの。
☆

【16:訟】
「訟」は争うことである。
「訟」は「訴訟」の「訟」。
全体として、あまりいいことが書かれていない。
レガシーとしても、争いはできれば避けた方がいい……というニュアンスがただよう。
卦辞にも、
〜終凶。
利見大人、不利渉大川。
とあって、
これは、
「いろいろ言ったけど、
結局、最終的にはいいことなしだ。
マトモな第三者の意見を聞いた方がいい。
大事な事はしないように」
てな解釈になろうか。
初爻〜上爻のうちで、訴訟に勝つのは五爻のみで、ここには例の、経文中でときどき見かける極端に短い爻辞がつけられている。
訟、元吉。
「訟」は卦名だから、実質爻辞は「元吉」だけ。
「いわなくてもわかるだろう」のパターンだ。
元より吉。
「勝つよ」
でもよく見ると、全体の意味(卦辞)の中に「終凶」とあるのである。
より正しくはこんな感じか。
「勝つよ。
で。それがどうした?」
(↑極端に短い爻辞の、目に見えない余韻)
池田晶子さんの本に「勝っても負けても」というのがあったが、易のテキストはここでは、勝っても負けても結局よくない、と言っている。
タングルは、シューティング・スターの逆で、星が駆け上って花を咲かせているようにみえるが、「終凶」という全体状況(卦辞)の中での、小さな花であるということを忘れてはならない。
☆
「だれ」が傷つけるのか。
そして
傷つきやぶれるのは「だれ」か。
そこに、「自分」という領域の境界がある。
なんのために争うのか。
大儀のために……ということもあるかもしれないが、つきつめると、たいがいは「自分を守るため」もしくは、「自分の主義主張を守るため」というところに落ち着くことが多いのではなかろうか。
そんなわけで、このペアには「エゴ」という意味を付けたのだと思う。
もちろん、「エゴ」が悪いわけじゃない。
「エゴ」だって一所懸命やっているのだ。
一所。
一つ所。
一つ所に命がけ。
これを一所懸命という。
自分をつくる「境界」にかこまれた、一所。
限られた場所にこだわりだすと、苦しくなる。
「境界」は、実は可変である、
という選択肢を忘れしまうからだ。
でも、
あらてめてふりかえってみると
自分というものほど、あやふやなものも
ないような気がする。
そうすると「エゴ」の正体も、
よくわからなくなってくる。
結局、「たしかなもの」などないだろう。
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*1
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーーはじめに」を参照してください。
(*2)
レガシー。遺産。伝統的な易の解釈。