六十四卦雑想ーー一所懸命 | ぼくは占い師じゃない

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易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

83:明夷
16:訟
TP25:エゴ

   ☆

夷<イ>は傷つくことで、
「明夷<メイ・イ>」は、
明らかなものが傷つくことである。

明らかなものとはなんだろう。
ここでは、下卦「離」の知慧である。

この「離」は上卦である「坤」の大地の下に隠れてしまっている。

隠れた太陽(「離」)。

正しいことが通らない。

太陽はまだ地平線(「坤」)の下にある。

夜明け前。

ゼンタングル(*1)はこんな感じ。

シューティング・スター。

星は墜ちる。

道に迷って。


【83:明夷】

「明夷」は悲しい。

光がないから、正しいことが正しいとされないから悲しいともいえるが、それは表面的なことだ。
光の上に覆いかぶさっているのは、レガシー(*2)では暗愚の王とされる。

暗愚。

ものわかりが悪く、暗く、愚かなことである。

実は先はよく見えないんだけど、人の上に立ってしまった人(上卦)。

ついつい、この馬鹿者さえいなければ……と思いたくなるが、おそらく事はそう単純な話ではない。

下敷きになっている光(下卦)も悲しいが、この王様も悲しい。

とにかく、この明夷と訟のペアの話は書きにくい。

明夷の場合だと、自分が、自分こそが、この「暗愚の王」だったのではないかと思ってしまう。
この手で、この足で、いったいいくつの、輝く星を踏みつけにしてきたことだろう。

誰が悪いわけでもない。

それはわかっているつもりだが、こんな状況では、争いも起きようというもの。

   ☆


【16:訟】

「訟」は争うことである。
「訟」は「訴訟」の「訟」。

全体として、あまりいいことが書かれていない。

レガシーとしても、争いはできれば避けた方がいい……というニュアンスがただよう。

卦辞にも、

〜終凶。
利見大人、不利渉大川。

とあって、

これは、

「いろいろ言ったけど、
結局、最終的にはいいことなしだ。
マトモな第三者の意見を聞いた方がいい。
大事な事はしないように」

てな解釈になろうか。

初爻〜上爻のうちで、訴訟に勝つのは五爻のみで、ここには例の、経文中でときどき見かける極端に短い爻辞がつけられている。

訟、元吉。

「訟」は卦名だから、実質爻辞は「元吉」だけ。
「いわなくてもわかるだろう」のパターンだ。

元より吉。

「勝つよ」

でもよく見ると、全体の意味(卦辞)の中に「終凶」とあるのである。
より正しくはこんな感じか。

「勝つよ。
で。それがどうした?」
(↑極端に短い爻辞の、目に見えない余韻)

池田晶子さんの本に「勝っても負けても」というのがあったが、易のテキストはここでは、勝っても負けても結局よくない、と言っている。

タングルは、シューティング・スターの逆で、星が駆け上って花を咲かせているようにみえるが、「終凶」という全体状況(卦辞)の中での、小さな花であるということを忘れてはならない。

   ☆

「だれ」が傷つけるのか。
そして
傷つきやぶれるのは「だれ」か。

そこに、「自分」という領域の境界がある。

なんのために争うのか。

大儀のために……ということもあるかもしれないが、つきつめると、たいがいは「自分を守るため」もしくは、「自分の主義主張を守るため」というところに落ち着くことが多いのではなかろうか。

そんなわけで、このペアには「エゴ」という意味を付けたのだと思う。

もちろん、「エゴ」が悪いわけじゃない。
「エゴ」だって一所懸命やっているのだ。

一所。
一つ所。
一つ所に命がけ。
これを一所懸命という。
自分をつくる「境界」にかこまれた、一所。

限られた場所にこだわりだすと、苦しくなる。

「境界」は、実は可変である、
という選択肢を忘れしまうからだ。

でも、

あらてめてふりかえってみると
自分というものほど、あやふやなものも
ないような気がする。

そうすると「エゴ」の正体も、
よくわからなくなってくる。

結局、「たしかなもの」などないだろう。

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*1
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーーはじめに」を参照してください。

(*2)
レガシー。遺産。伝統的な易の解釈。