ぼくは占い師じゃない -32ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

Kさんに荷物をだして
郵便局から駅に向かう途中スズメがいた
電話ボックスに閉じ込められて
最初はチョウかなと思ったけど

上半分しかないドアの
空いている下半分から
ガラスばりのボックスに
入り込んでしまったらしい

しきりにはばたき
ガラスにぶつかり
飛び立とうとしている
ガラスの向こうへ

ボックスに入って中から
上半分の扉を開けてやる
けど相変わらず反対にむかって
ジタバタ

しっしっと
外に開いた方に誘導してたら
勝手にスズメは出てった
どういうふうにだかは見落とした

カンダタ(*1)したなアと思いつつ
駅に向かって歩いていたら
鳥が一羽降りてきた
あまり身近にはこない鳥

すぐそばの
柵の上に降りてきて
首を傾げて
しきりにこちらを見ている

スズメより大きな茶色っぽい鳥
鳥も花も樹もその名前など
ほとんど知らないオレは
ほとほとザンネンなやつ

鳥はしばらく
歩いているオレが
さわれそうなくらい近くにいた
あとから思いついたことがある

あの鳥は
スズメから伝言されて
わざわざ
礼を言いにきた

考えてみればばからしい
オトギ話のような想い
けどあっていいんじゃないか
たまにはそんなことも

今はそんなふうに思ってる

(*1)カンダタ
芥川龍之介、蜘蛛の糸

12:履
87:謙
TP12:儀式

   ☆

「受け継ぐべきもの」というと、遺産がすぐに思い浮かぶ。

遺産といえば、負の遺産というのもあって、親または前任者の尻拭い……
「蠱」などという卦も思い浮かぶ。

今回はそのニュアンスとはちょっとちがう。

残されたものは踏み固められた「路」である。

こんどはその路を、ほかならぬあなたが歩くのだ。


【12:履】

ここでの主役はその「路」そのものである。

「履」のタングルではパターンとしては2種類、「ホリバー」と「デックス」というパターンを使用している。どちらもゼンタングルではオーソドックスなパターンだ。

真ん中のブロックを積み重ねたようなパターンが「デックス」。
その両側のサーチライトの光の重なりのように見えるパターンが「ホリバー」。

双方のパターンとも、ちょっと極端なパースをつけて描いている。

別のところでも書いた思うが、この一連の「易タングル」では「デックス」はある種、アカシックというか、なんとなく、メモリーバンクのようなイメージを持たせてある。

真ん中の「デックス」で描かれた「路」は、踏み固められた路である。

遺産というより、太古より連綿と続く「伝統」といった方がいいかもしれない。

これに対し、両側の「ホリバー」で描かれた路は、「伝統」以外の路である。
「伝統」以外のふつうの路……ということになるが、だからといって重要でないということではない。

「ふつうのどこが悪いんだ!」


なんていうのはよく聞くセリフだが、どこも悪くない。

「ホリバー」の路は、あらゆるところから生まれては交差し重なりあう。

ベタな表現だが出会いと別れで満たされた人生行路そのもである。

伝統はそんな複数の人生にのしかかるようにまっすぐのびている。

「履」は、履行の「履」であり、あえて先人の轍を踏むことである。

尾を踏まれた虎が、イニシエートを食らうか食らわないかは、その参入者の気構えによる。


【87:謙】

では、いかなる気構えでいればいいのか。

それはひたすら謙虚でいることである。
それも純粋に謙虚であることである。

それがぼくの処世術だったのか、社会に出てしばらくしてから、いつの間にか「すいません」が口癖になっていた(今でもそうなんだけど)。

あるとき先輩に、


「お前、本当はぜんぜん『すまない』なんて思っちゃいねえだろ」
 

と言われたことがあった。
まったくそのとおりで、こういうのは口先だけで、ほんものの「謙虚」とはほど遠い。

「すいません、すいません」

人間関係をすこしでもなめらかにする潤滑剤……と、言やあ聞こえはいいが、その実は正面切って、腹割っての、真剣な議論を避けメンドーなことを手っ取り早くやり過ごすための方便だったりする。

これじゃあ、いつまでたっても成長しない。

課題はチェスの駒の影のようにどこへ移動してもつきまとう。
試験にパスするまで追試はつづく。

場合によっては、来世まで。

いや、来来世か?

いやいやいや、来来来世か。

宇宙は無限に気長である。

輪廻という試験場はあなたが課題を解決するためにある。

これとは別に、自分の謙虚さをアピールするための謙虚「ライク」な態度、発言は、卑下慢というそうで、内実は傲慢さと変わらない。

「謙」の卦の各爻辞は、さまざま謙虚さのあり方について説明されている。
自然な謙虚さは黙っていても鳴り響く(鳴謙)。

   ☆

「謙」のタングルは「履」のタングルとほぼ同じ構図である。
「履」でホリバーだったところが、うねうねとした渦というか流れのようなものになっている。
このつかみ所のない混沌=道(タオ)に、「路」=伝統は果敢にもカタチを与えようとしている。

中央「路」の手前側、下の方にある黒い部分はこの「路」に対してへりくだる人影である。

真に謙虚にへりくだり、伝統を踏襲することによって、一見、恐怖とみまがうばかりの不定形の無限に、その刻印を残そうと試みること。

それが「儀式」のほんとうの意味だと思う。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

53:家人
46:解
TP22:回帰

   ☆

「53:家人」は文字通り、家の人。

伝統によれば内助の功、家を守る女性の卦。
だが昨今では、家を守るのはかならずしも女性とは限らない。

この卦で大事なのは、家族がそれぞれ所定の位置にいることだ。
所定の位置にいて、所定の役割を果たしている。
全員がホームポジションにいる。

ゼンタングルもそんなイメージで描いた。

解釈をひろげるなら、家はもちろん、店のような集団や会社のような組織と、とらえてもよい。


【53:家人】

四人家族だろうか、ギチッと守りを固めている感じだが、当然、個性はそれぞれちがう。
どんな家族か想像してみるのもおもしろい。

ひとつ屋根の下にいるからといって、必ずしも仲がいいとはかぎらない。いやむしろ、少し離れていた方が、いがみ合わずにすむ。

なにかのきっかけ、あるいは時が織りなすプロセスの一環として、家族はやがて離ればなれになる。

いかにいつまでも一緒にいるようにみえたとしても、いつか必ず離れて、散じていく。

散るにしろ集まるにしろ、易がフォーカスするのは原因や結果ではなくその変化そのものである。
だからこそ、別名「変化の書」という。

   ☆


【46:解】

「解」で描かれているのは、離散してしまった家族。「してしまった」というより、必然だったのかもしれない。あるいは離散しつつあるところなのかもしれない。

「離散集合」というと前回紹介したペア、「56:渙」と「43:豊」と似ているように思われるかもしれないが、「56:渙」と「43:豊」ではどちらかというと離散することに軸足がある。だからこのペアには「リセット」という意味がついている。
集まったものが離散するからこそ、新しい組み合わせが生まれる。
それがすなわち「豊」、創造の豊かさだ。

しかし今回の話では、離れることでも集まることでもなく、「家」そのものに主軸がある。

「解」はほどけることであり、いままで続いていた関係、契約、または頭を悩ませていた問題等々、そんなものがほどける。
ギチッと固めていたなにかが「解」けて、ばらばらになる。
吉凶はもちろん「なにが」ほどけるかによる。

   ☆

金輪際。

その時は、もう一度会えるなどとは信じられないような「解」だったかもしれない。

だけど、家族は家族なのだ。

はなればなれになっても、「縁を切った」と言い渡したとしても、家族のつながりは決して消えることはない。
その在り方が変化するだけなのだ。
ぐるっとまわっていつかそこへ帰ってくる。

拙作の「後天動因図」ではそんな物語がメインのイメージになっている。

だからこのツイストペアには「回帰」という意味をつけた。

別の言い方をするとこうなる。

「おかえり」。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想—はじめに」を参照してください。

 

56:渙
43:豊
TP21:リセット

   ☆

「渙」。

漢字の構造としては、つくりの部分が分娩のカタチだそうだ。

分娩、分散、盛流、設文解字では「散りて流るるなり」とあるという(「字統」白川静より)。

思うに、凝(こご)っていたものが満を持して、一気に放散される……そんなイメージなのではあるまいか。

なにが「散る」かによって、いい意味にも悪い意味にもなる。

伝統によれば、下卦坎=水面を、上卦巽=風が吹いて、水を吹き散らす象(カタチ)。

あるいは王が船(上卦巽=木)に乗り、海(下卦坎=水)をわたるように難局をのりきっていくカタチ。

ゼンタングル(易タングル)の方は水が散らされるイメージに引っ張られて、こんなカタチになった。

波と、その波頭がくだけて宙に舞った、滴(しずく)。


【56:渙】

   ☆

「豊」。

これはもう、そのまま受け取ってかまわない。

豊かなことである。

かかえるにしても両手にあまる豊かさだ。

大成卦も上卦=震で、にぎやかで、エネルギーに満ちあふれている。

だが、ただアホみたいに豊かさに惚(ほう)けているわけではなくて、明晰に状況を見通す明知も(下卦=離)ある。


【43:豊】

タングルの方は、ぎっしりつまったティップル(Tipple. ゼンタングルでいう、○が集まったおなじみのパターン)でもって、その「豊かさ」をあらわしたつもり。

「明知」は、ゼンタングルでいう「サイム(Cyme)」という花に似たパターンであらわしている。

上卦=震のエネルギーという表現が見あたらない。

「震」はどこへいったのかというと、下部に描かれた「波」のパターンと、その波頭から散った「滴」のパターンであらわされる「動き」そのもの、これが「震」のエネルギーなのである。

   ☆

ゼンタングルは原則、絵ではないのだけれども、こうなってくるとどうしても「なにか」にならざるを得ないところで、描いていてもクルシイ。

いやまあ、
クルしがらずに描けばいいのだけれど。

ゼンタングルは、絵になってはいけない!

ルールを守らない者にはきついオシオキが……

てな、

おそろしい戒律もなさそうなので(たぶん)。

ささやかな葛藤をかかえながらも旅は続く。

「渙」は散るだけではなくて、離散「集合」をあらわすと観てもいいだろう。

散りっぱなしではやがて世界は平衡状態に達してしまう。

あっちで散り、こっちで集まり、そんなことをただただくりかえす。

そう言うことが許されるなら、この動きそのものが「真理」であり「神」だ。

この運動が「豊」、豊かさを生む。

永遠に。

他には何もない。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想——はじめに」を参照してください。

 

61:需
38:晋
TP09:時間

   ☆

「需」は待つこと。
または、待たされることである。

上卦が坎、水で雲をあらわす。
下卦は乾、天だ。

天の上に雲がある。
この雲は雨雲で、
恵みの雨(災害の雨ではない)をもたらす雲だが、
乾ききった大地に雨はまだ降らず、またされる。

「晋」は進んでいくこと。
上卦は離、この場合、
火ではなくて太陽をあらわす。

下卦は坤、大地であり、
大地にようやく陽が昇り始めたカタチである。

さあ、これから!

といった感じがする。

このふたつの大成卦がツイストペア(*1)になっているのはおもしろい。

待たされて、進む。

何を「待たされて」、
どこへ、「進んで」いくのだろう?

……という、お話にもみえる。

待つことと、進むことの間には時間がある。

時間という意味では、主に待つことの方にウエイトがかかるとは思うが、進みたいのに進めない、そして待たされている。

もともとこの易タングル(ゼンタングルの手法で易の大成卦を表現したもの(*2))では、○に中心点を打ったパターン(*3)を「個人」をあらわすものとした。

この「個人」の旅ということで、シリーズが展開していく……

という、あるような、ないようなモチーフを仕込んだつもりだった。


【61:需】

「需」のタングルの真ん中にあるのは、その単独のティップル、「個人」だ。

この個人は、じっと待たされている。

太陽のシンボルの様に黒い三角が取り囲んでいるが、このパターンはゼンタングルでネース(Knace)と呼ばれるパターン。
この「ネース」でもって外へ広がろうとする力をあらわしているようにみえる。

中心点は動きたくて仕方ない。

ひょっとしたらこの「ネース」は、広がろうとする衝動ではなくて、境界をつくりだして、個人というものを規定する枷(かせ)のようなものかもしれない。

外縁部の波のようなパターンはシャタック(Shattuck)と呼ばれるパターンで、これを描いた時は上卦の坎=水、めぐみの雨をあらわしているつもりだった。

恵みの雨は外縁部にある。
至福は遙か彼方にあって遠い。

しかし「必ず」時は満ちる。

いつとはいえない。
計画することも、
予期することもできない。

よく「恩寵」などと呼ばれる
その瞬間に様相は反転する。


【38:晋】

中心に縮こまっていた「ネース」は一気に外縁部に拡大する。
と、同時に「シャタック」は中心部に縮こまる。

単独の「ティップル」はなくなってしまったようにみえるが、そうではない。

この易タングル全体がひとつのティップルになってしまったのである。

今まで分離した単独の個人だと思われていたものは、その枷が崩壊して、いまや「すべて」になってしまった。

無限の広がりをもって個人を圧倒していた「シャタック」であらわされていた空間は、今や「すべて」の中心にかすかに残るだけ。

恵みの雨は降ったのである。

降って、自然のプロセスの中でその役割を果たし、いまや消え去ろうとしている。

さて、一連の易タングルで描いてきた個人……「ティップル」の旅はこれで終わりなのだろうか。

いやいや、描かれていない大成卦は残っているので、お話はまだ続く。

晩のおかずをスーパーに買いに行くような日常生活も続いていく。

反転がなんだ。

反転したって、
別にエラくなったわけじゃない。

とはいえ、個人の旅は、
一応ここでひとつの節目を迎えた、
ということになるのだろう。

そういや、
トイレの洗剤もきらしていたっけ。

   ☆

(*1) ツイストペア
各爻が陰陽の反転関係にある大成卦の対。
「易システム」の用語。
「易システム」は筆者独自の易解釈。

(*2)「ゼンタングル(タングル)」と「易タングル」は同じ意味で使っています。
易タングルはゼンタングルの特殊なもの(サブセット)という位置づけです。
あまり気にしないでください。
くわしくは「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

(*3) ○に中心点を打ったパターン
ゼンタングルでいうティップル……のうちの、ひとつの○。
「ティップル」は大小複数の○から成るパターン。
 

71:大蓄
28:萃
TP07:資源

   ☆

【71:大蓄】

「大蓄」は大きくとどめる。
または大きくためこむことである。

「小蓄」のゼンタングルで飛び跳ねようとしていたサイクロップスの邪魔をしていた小さなタマは、今度は大きなタマになって、タングルの真ん中、山の中心にどっかり座りこんでいる。

ためこまれたエネルギーは巨大な山になり、天より高くそびえ立つ。

「大蓄」という大成卦は、下卦=乾(天)、上卦=艮(山)でできている。

山が天より上にある。

天よりも高くそびえ立つ山。


【山天大蓄】

一方、ペアのもう片方である「萃」は、山よりも動きがある。

ゼンタングルもにぎやかな感じだ。


【28:萃】

中心の円には花が咲いている。

周囲からその花に向かって、数限りない財、チャンス、時間、人材……

とにかく、ありとあらゆるものが吸い寄せられるように集まってくる。

人が集まるということで、商売にはいい卦とされる。
ため込まれたエネルギーにしろ、
集まってくる人々にしろ、
それらは無限のリソース、資源である。

××が足りない!

といった嘆きは、ほんとうにそれらのものが足りないというより、エネルギーはさまざまにカタチを変えるものであるということを見失っているせいで、一見、足りないようにみえるだけの話であることが多いのではないだろうか。

お金が足りない!

だけど、たくさん……ではないにしろ、時間には恵まれていないだろうか。

お金はわかりやすいポテンシャルだが、時間だってエネルギーだ。
あなた独自のすきま時間があるのではないか。

お宝はカタチを変え、分散しているのでちょっと見には判らないだけかも。

情熱が足りない!

やっぱり、時間も足りない!

だけど、そんなあなたをサポートしてくれる人はいないだろうか。

兄弟は?
従兄弟は?
親は?
友人は?
幼なじみは?
先輩は?
同期は?
あのとき、あの時代のクラスメートは?

注意して。

まわりをよく見て。

エネルギーはカタチを変える。

愛がたりない!

というとき、たぶんそれは「愛」じゃない。

愛は不足したり過剰になったりすることはない。
あげたりもらったり、やりとりできるものでもない。
(そうみえることもある)

もひとついうと、

特定の個人とはほぼ関係もない。
(そうみえることもある)

宇宙は、わたしたちがふだん思うよりはるかに気前がいい。

なぜならそれは「愛」でできているからだ。
あらゆるものは、そのひとつのものがカタチをかえたものだ。

え、じゃあ、「愛」ってぜんぶってこと?

そうかもしれません。

だから足りなくなることも、過剰になることも、
特定の個人との関係も……「ない」。

そうみえることはあるかもしれない。

だけどそれは、
一時的なことなのである。

   ☆

「ゼンタングル(タングル)」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。
 

48:豫
51:小蓄
TP07:呼応

   ☆


【48:豫】

わーい、ばんざい!

ノーテンキなストリングである。

ストリングと呼ばれる、ゼンタングル内の輪郭線は、まず最初にタイル(ゼンタングルを描く正方形の画用紙)の四隅に点を打って、点と点の間を自由に線でつないで描かれる。

「豫」と「小蓄」のストリングは、その正式なやり方に則って描かれてはいるのだが、このペアのタングルは、どうしたってヒトにみえる。

この「ヒト型」にはモトネタがある。
最初の頃に自分で描いたゼンタングル。
こんなものだ。


【最初の頃に描いたヒト型ゼンタングル】

これもなんだかよくわからないサイクロップス。

元来ゼンタングルに意味はない。

おもしろかったり、たのしかったり、まあちょっと瞑想的な気分になって落ち着いたりすることがあれば、それでいいのだ。

別にそんなことがなくてもいい。
それはそれで。

「豫」は「わーい、ばんざい!」でいいのかもしれないが、「小蓄」の方は、なんだか変なボールが「わーい!」をじゃましているようにもみえる。


【51:小蓄】

「小蓄」と関連のある大成卦で「大蓄」というの易卦があるが「大蓄」の方にはおなじボールでも大きなボールを描いた。
「大」の字のとおり。
「大蓄」の方は次回ご紹介する予定。

   ☆

「豫」は「予想」の「予」である。

「あらかじめ」の意味もあるが、ここでは「よろこび」の意味にとる。

「小蓄」の「蓄」は「蓄財」のような「ためこむ」意味だが、ためこむというより「とどめおく」感じ。

流れをせき止めて「待つ」意味である。

「小蓄」だから、「小さく」「待つ」。
とどめおくといっても一時的なこと。

互いの爻の陰陽を反転した関係になる大成卦の対を、筆者独自の易解釈である「易システム」では、「ツイストペア」と呼んでいる。

「豫」と「小蓄」はツイストペアで、易システムではツイストペア自体にも意味を付けている。
このペアには「呼応」という意味を付けた。

「呼応」はCalling、呼びかけるものとそれに答えるものの意味である。

拙作の「易システムハンドブック」見てみると、なぜ「呼応」なのかという説明に、動き続けるものの中で立ち止まる(「小蓄」)ことによって得られるよろこび(「豫」)という、なんだか、こじつけがましい、苦しみまぎれの理由が書いてある。

とはいえ、

それに続く「農作業(動き続けること)の手を休めて(「小蓄」)空を見上げる農夫……」
というイメージは、ベタだが、なかなか詩的でもある(自画自賛)。

「呼応」というのは、よびかけとそれにこたえるもの、つまり祈りのことなのである。

祈りに答えがあれば、それはよろこばしいことだ。
問いかけとそれに対する答えという構図は、易の文法そのものである。

易を学ぼうと思えば、まずはその経文をひもといていくのが正攻法だろうが、その「正攻法」も、「問いと回答」という文脈でみるならば、ナンセンス……

とまではいわないが、
片手落ちのような気もしないでもない。

なぜなら、
易はまずもって占術の書であり、経文は問いに対する答えだからだ。

経文「だけ」にフォーカスすることは、答えの部分だけをみて対話全体を想像するようなもので、どうしても無理があるのではないか。

日常的、具体的な問題と対になって、はじめて経文は生きてくるのではないか。

システムは使わなければ意味がない。

立ち止まって、祈ることだ。

「占う」ということは。

   ☆

「ゼンタングル(タングル)」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

 

58:観
41:大壮
TP07:上から下へ

   ☆

「観」には、
「艮」にも似た
静けさの印象がある。

それもそのはず。

「観」は「大艮」でもある。
「大艮」は文字通り大きな「艮」。

大成卦の爻を下から順に二つずつまとめてみるやり方で「観」をみると、大きな八卦の艮にみえる。


【大艮】

大卦、大象ともいったかと思うが、大きな八卦なので、全部で8つ、「艮」の他に七つある。

銀河ツール「20の銘板」の中でホゼ・アグエイアス氏は「8つのゴールデン・コドン」と呼んだ。


【8つのゴールデン・コドン】

艮には山門とか寺院といった意味がある。
タングルもそれを意識したレイアウトになった。

狭く、少しだけ開いた山門からは、
月光がさしこむ。
ゼンタングルは絵じゃない、
とかいっておきながら、
このように説明すると、
限りなく絵になっていく。


【58:観】

山も山門も寺院も静けさの中にある。

よくいわれるように身体は魂の神殿であり、黙して座し身体を「観じる」ことはそのまま瞑想へとつながる。

我が「生(Life)」を観る。

「生」でもなく、月光でもなく、旅してその国の「光」を観れば「観光」。
「観光」という言葉はこの卦から来ている。
その国の「光」を観ているようでいて、その「光」をとおして実は、オノレの祖国の「光」観ていたりする。

「観」の卦は、ざっくりいって初爻〜上爻に向かってだんだんよくなっていく。

「よくなる」というのは、貯金が増えるとか領土が拡大するとかいった物質的なことではなくて、もっと精神的なオノレの深みが増すような意味において、である。

同じスキ間からさしこむ光でも「41:大壮」の光はかなり騒々しい。


【41:大壮】

「観」では月光だったが、「大壮」では陽光だ。

でもなんだか、ワザトラシイ。

それもそのはずで、スキ間から外の「光」をうかがっているのは、かのアマテラス、見ている方が本当の光なのである。

易は中国の古典であり、「大壮」の経文にアマテラスオオミカミが出てくるわけではない。
しかし多くの識者が指摘するように易と古事記の関係は深い。

「大壮」のタングルを描いたときに頭にあったのは天の岩戸のエピソードだった。

「大壮」はとにかく大げさ。

にぎやかな鈴の音とともにダンサーは踊る、
太鼓は鳴る、飲めや歌えやのドンチャン大騒ぎ。

反面、内実は伴わない。

岩戸に閉じこもった本当の光を誘い出すための、あくまでもフェイクの「光」だからである。

どこからやってきたイメージかは定かではないが、「観」は楼閣のようなちょっと高いところから下界を「観おろす」イメージがあり、「大壮」は天(下卦、乾)の上に太陽(上卦、離)で、これも高々と昇った太陽から陽光が上から下へといきわたるイメージ。

上から下へ。

ということでは共通しているなと思い、このペアにはそのまんま「上から下へ」という意味をつけた。

「上」から降ってくるのは静けさか、それとも騒々しさか。

この観点からすると「観」と「大壮」はまったく相反する組み合わせになってしまうのだが。

   ☆

「ゼンタングル(タングル)」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

 

週の半分を神田界隈で
過ごすようになってから、
はや十年。仕事で、ですが。

専門学校時代を入れるなら、
さらにプラス三年。
この頃は神田というより、
水道橋・飯田橋界隈でした。

しかし「神田」って、
どこからどこまで
なんでしょう。

三崎町、猿楽町が
「神田」という冠を
取り戻したのも耳に新しい。
三崎町なんかは、
シロートにとっちゃあ、
ほとんど水道橋です。

神田はともかく、
たまにはフツーのブログらしく、
「行ってきました!」
ってのを書いてみよう。

   ☆

仕事でいつもウロウロしている、
街の下に潜り込んでみました。



「神田川クルーズ」ってのがあるよ、
っていうのをお客さんから聞いたのが、
きっかけ。



連れて行ったのは、
愛機HOLGA DIGITALと、
かみさん。

HOLGAは、
このブログの以前の記事で紹介した、
ハシにもボーにもかからない、
どうしようもない写真機です。



いつも見ているレベルの一つ下から、
見上げてみるってのも、
中々オツなもんです。



スタートは日本橋です。
ぐるっと、時計回りに行きます。
九段坂下の俎<まないた>橋をくぐって、
神田川に出ます。

出たところを右折しまして、
水道橋、万世橋をくぐって、
浅草橋から、隅田川へ。



それから、
広大な隅田川を下り、
永代橋の前を日本橋川へ右折。
で、もとに戻ってくるコース。



実際は、すぐには日本橋川に戻らないで、
スカイツリーが正面に見えるように、
永代橋をくぐってUターンするような感じで、
ちょっといったりきたりしてくれます。



船賃は2500円でしたが、
これ結構、濃密な90分でした。



濃密なのはいいんだけどね、
私はコースの終わり頃に、
膀胱の方が「濃密」に、
なってしまいまして。



船会社のホームページの
うたい文句にもあったけど、
たしかにトイレ完備です。



だけどあの、なんちゅうか、
他のお客さんの席に囲まれた、
清掃用具が入ってそうな、
物置みたいなスペースには……
(乗ったのは一番小さい船でした)



いや!
背に腹は代えられなくなったら、
使います!
使うと思います。
今回は使いませんでしたが。



やっと着いた!
やっと着いたぁあ!!

と思っていたら、
船着き場には別の船が……

うっ。



『え〜ちょっと渋滞しておりまして……』
と、ガイドのおじさん。

うぅっ。

おおっと、船着き場をやりすごして……
もう一周!

まさかね。



ちょっとやりすごして、
おまけの解説でした。



船にはそれぞれ、
ガイドのおじさんがいて、
そのお話が結構勉強になる。

だけど、こっちは、
それどころじゃない、

ごめんなさい、
許してください、
どうかご勘弁を!



おまけの解説もあって、得した!
って思った人もいたかもしれない。
いや、フツーはそう思う。



けど私にとって、
ラストはほぼ、ゴーモンでした。



さっきもいいましたが、
持って行ったのがHOLGAっちう、
コントロールも確認も
効かないカメラだったんで、
「ヘタなテッポー作戦」で、
90分プラスアルファの間に
270枚以上の写真を撮りました。



HOLGAにはモニターなんてついてません。
帰ってからPCで結果を見ながら整理。

そしたらまあ、ひどいもんだ。
ただでさえ、
グダグダなカメラなのに、

永代橋から日本橋川に
戻ってきてから先が、
輪をかけてグダグダ。

よっぽど切羽つまっていた
と見えます。

きっちりトイレいってから、
乗ったのになあ。



船着き場から日本橋を渡った反対側に、
公衆トイレがあります。
よかった、よかった。

ガキの頃からもともと近いんだけど、
なんか年々オシッコが近くなる。
最近特に。

オモラシ・アンダー・ザ・ブリッジに
なんなくてよかったなあ。

今度ドッグでPSAみてもらおう。
歳はとりたくないなあ。

で、なんの話だったっけ(笑)。
 

68:比
31:大有
TP06:心

   ☆

このブログでは特定の大成卦を、それ一枚であらわすシンボルとして描いたゼンタングル(易タングル)を、描いた順番に紹介している。

順番に意図はない。

独自に作った64卦の一覧(後天動因図)を眺めながら、気の向くままに選んでいった。


【後天動因図組織図。つまりこれが「独自の一覧」】

大成卦には64種類ある。

これらを一枚一枚描いていくのは、ウマイ・ヘタは別にして、ひとつの旅ではなかろうか。

前回に引き続き、このゼンタングルのペアも、トラディショナルなゼンタングルのストリングの描き方を完全に無視してしまっている。

旅もこのあたりで、ちょっと変わったことをやってみたいというような、そんな気分になっていたのかもしれない。

まあいいや。
旅の恥はかき捨てだ。

あんまりいい言葉とは思わないが。

   ☆

正六角形と中央にある正三角形。

区画分けとしては周辺が3、真ん中1の部分に分かれる。それぞれの区画に異なるパターンを描き込んだ。

まずは、「68:比」。


【68:比】

「易タングル」は、まずは占術のツールなので、解釈に制限はない。

どうとらえようとユーザーの自由である。

「こう解釈しろ」という命令にならない限り、最初にどんなつもりで描いたか位、説明してもバチはあたらないだろう。

真ん中の三角を取り囲む区画には、タネ、芽、その芽が育った姿(葉っぱ)をイメージして描いた。

タネ以外はゼンタングルの公式パターンである。

「比」は、くらべる、ならぶ、などの意味があるが、ここでは「したしむ」の意味にとる。

タネには大きな樹になるためのすべての「きっかけ」が含まれている。

タネだけでは何にもならないし何にもできない。

降雨、土壌、日照といったさまざまな条件が、「比」して、したしんで、適切にマッチして、タネは芽をふいて、成長できる。

あたりまえのようだけど、無数の条件が奇跡的に手を取り合って初めて成されるプロセスだ。

そんなことをあらわしたかった。

中心の三角に描き込んだパターンには実はあまり意味はない。
ガラスのような、結晶のような、反射のような。

タネが芽吹き成長し大樹になり……

その先にあるポータルのようなもの、
と、とらえることもできる。

大樹になること自体奇跡的なことだが、大樹はゴールではなかった。

その先に未知の続きがある。

太陽は輝き続ける。
陽はまた昇る。

続きがあろうとなかろうと。


【31:大有】

派手なタングル。

中心の渦巻きから放たれるパワーしかここにはない。とにかく、そもそもそれしかない。
大日如来か。
ハートからあふれ出る光か。

なんにせよ、めでたい象(カタチ)である。

易卦としては、天(乾)の上に太陽(離)があり、天より高く昇った太陽は、あらんかぎりのパワーですべてをわけへだてなく、あまねく照らし出す。

あまりにストレート、あまりに公明正大すぎて、あっけらかんとした卦だ。

だけど、思い切り、純真であるともいえるかも。

たまには、そんな卦があったっていいよなあ。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。