58:観
41:大壮
TP07:上から下へ
☆
「観」には、
「艮」にも似た
静けさの印象がある。
それもそのはず。
「観」は「大艮」でもある。
「大艮」は文字通り大きな「艮」。
大成卦の爻を下から順に二つずつまとめてみるやり方で「観」をみると、大きな八卦の艮にみえる。

【大艮】
大卦、大象ともいったかと思うが、大きな八卦なので、全部で8つ、「艮」の他に七つある。
銀河ツール「20の銘板」の中でホゼ・アグエイアス氏は「8つのゴールデン・コドン」と呼んだ。

【8つのゴールデン・コドン】
艮には山門とか寺院といった意味がある。
タングルもそれを意識したレイアウトになった。
狭く、少しだけ開いた山門からは、
月光がさしこむ。
ゼンタングルは絵じゃない、
とかいっておきながら、
このように説明すると、
限りなく絵になっていく。

【58:観】
山も山門も寺院も静けさの中にある。
よくいわれるように身体は魂の神殿であり、黙して座し身体を「観じる」ことはそのまま瞑想へとつながる。
我が「生(Life)」を観る。
「生」でもなく、月光でもなく、旅してその国の「光」を観れば「観光」。
「観光」という言葉はこの卦から来ている。
その国の「光」を観ているようでいて、その「光」をとおして実は、オノレの祖国の「光」観ていたりする。
「観」の卦は、ざっくりいって初爻〜上爻に向かってだんだんよくなっていく。
「よくなる」というのは、貯金が増えるとか領土が拡大するとかいった物質的なことではなくて、もっと精神的なオノレの深みが増すような意味において、である。
同じスキ間からさしこむ光でも「41:大壮」の光はかなり騒々しい。

【41:大壮】
「観」では月光だったが、「大壮」では陽光だ。
でもなんだか、ワザトラシイ。
それもそのはずで、スキ間から外の「光」をうかがっているのは、かのアマテラス、見ている方が本当の光なのである。
易は中国の古典であり、「大壮」の経文にアマテラスオオミカミが出てくるわけではない。
しかし多くの識者が指摘するように易と古事記の関係は深い。
「大壮」のタングルを描いたときに頭にあったのは天の岩戸のエピソードだった。
「大壮」はとにかく大げさ。
にぎやかな鈴の音とともにダンサーは踊る、
太鼓は鳴る、飲めや歌えやのドンチャン大騒ぎ。
反面、内実は伴わない。
岩戸に閉じこもった本当の光を誘い出すための、あくまでもフェイクの「光」だからである。
どこからやってきたイメージかは定かではないが、「観」は楼閣のようなちょっと高いところから下界を「観おろす」イメージがあり、「大壮」は天(下卦、乾)の上に太陽(上卦、離)で、これも高々と昇った太陽から陽光が上から下へといきわたるイメージ。
上から下へ。
ということでは共通しているなと思い、このペアにはそのまんま「上から下へ」という意味をつけた。
「上」から降ってくるのは静けさか、それとも騒々しさか。
この観点からすると「観」と「大壮」はまったく相反する組み合わせになってしまうのだが。
☆
「ゼンタングル(タングル)」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。