12:履
87:謙
TP12:儀式
☆
「受け継ぐべきもの」というと、遺産がすぐに思い浮かぶ。
遺産といえば、負の遺産というのもあって、親または前任者の尻拭い……
「蠱」などという卦も思い浮かぶ。
今回はそのニュアンスとはちょっとちがう。
残されたものは踏み固められた「路」である。
こんどはその路を、ほかならぬあなたが歩くのだ。

【12:履】
ここでの主役はその「路」そのものである。
「履」のタングルではパターンとしては2種類、「ホリバー」と「デックス」というパターンを使用している。どちらもゼンタングルではオーソドックスなパターンだ。
真ん中のブロックを積み重ねたようなパターンが「デックス」。
その両側のサーチライトの光の重なりのように見えるパターンが「ホリバー」。
双方のパターンとも、ちょっと極端なパースをつけて描いている。
別のところでも書いた思うが、この一連の「易タングル」では「デックス」はある種、アカシックというか、なんとなく、メモリーバンクのようなイメージを持たせてある。
真ん中の「デックス」で描かれた「路」は、踏み固められた路である。
遺産というより、太古より連綿と続く「伝統」といった方がいいかもしれない。
これに対し、両側の「ホリバー」で描かれた路は、「伝統」以外の路である。
「伝統」以外のふつうの路……ということになるが、だからといって重要でないということではない。
「ふつうのどこが悪いんだ!」
なんていうのはよく聞くセリフだが、どこも悪くない。
「ホリバー」の路は、あらゆるところから生まれては交差し重なりあう。
ベタな表現だが出会いと別れで満たされた人生行路そのもである。
伝統はそんな複数の人生にのしかかるようにまっすぐのびている。
「履」は、履行の「履」であり、あえて先人の轍を踏むことである。
尾を踏まれた虎が、イニシエートを食らうか食らわないかは、その参入者の気構えによる。

【87:謙】
では、いかなる気構えでいればいいのか。
それはひたすら謙虚でいることである。
それも純粋に謙虚であることである。
それがぼくの処世術だったのか、社会に出てしばらくしてから、いつの間にか「すいません」が口癖になっていた(今でもそうなんだけど)。
あるとき先輩に、
「お前、本当はぜんぜん『すまない』なんて思っちゃいねえだろ」
と言われたことがあった。
まったくそのとおりで、こういうのは口先だけで、ほんものの「謙虚」とはほど遠い。
「すいません、すいません」
人間関係をすこしでもなめらかにする潤滑剤……と、言やあ聞こえはいいが、その実は正面切って、腹割っての、真剣な議論を避けメンドーなことを手っ取り早くやり過ごすための方便だったりする。
これじゃあ、いつまでたっても成長しない。
課題はチェスの駒の影のようにどこへ移動してもつきまとう。
試験にパスするまで追試はつづく。
場合によっては、来世まで。
いや、来来世か?
いやいやいや、来来来世か。
宇宙は無限に気長である。
輪廻という試験場はあなたが課題を解決するためにある。
これとは別に、自分の謙虚さをアピールするための謙虚「ライク」な態度、発言は、卑下慢というそうで、内実は傲慢さと変わらない。
「謙」の卦の各爻辞は、さまざま謙虚さのあり方について説明されている。
自然な謙虚さは黙っていても鳴り響く(鳴謙)。
☆
「謙」のタングルは「履」のタングルとほぼ同じ構図である。
「履」でホリバーだったところが、うねうねとした渦というか流れのようなものになっている。
このつかみ所のない混沌=道(タオ)に、「路」=伝統は果敢にもカタチを与えようとしている。
中央「路」の手前側、下の方にある黒い部分はこの「路」に対してへりくだる人影である。
真に謙虚にへりくだり、伝統を踏襲することによって、一見、恐怖とみまがうばかりの不定形の無限に、その刻印を残そうと試みること。
それが「儀式」のほんとうの意味だと思う。
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「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。