ぼくは占い師じゃない -33ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

25:大過
74:頤
TP31:有限

   ☆

このペアについては、
ゼンタングルのストリングの描き方を
まったく無視してしまっている。

小判型の長円の中にパターンを描いた。

主役は○の集合でできたパターン、
ティップル。

易タングルではこの「ティップル」が、
ソースから切り離された「個」をあらわす……
と、ゆるやかに対応づけた。

ひとつひとつの○が「個」ならば、
それが寄り集まってできたティップルというパターンは

群衆である……

というのは、

「同人」と「師」のペアのところで書いた。

「大過」ではその群衆が、
結界を破って外にあふれ出ようとしている。


【25:大過】

それこそ暴動か革命になってしまうかもしれない!
革命とまでは言わないにしても、
警備員の制止を破ってあふれるファンの群れとか。

このタングルのイメージソースは、
そんなところにある。

「大過」は「大きく過ぎる」こと。

過負荷、積載量オーバー。

易卦としては初と上の上下2爻が陰で、
中4つの爻は全部陽である。

暴れ出す4つの陽を、
上と初の陰が押さえ込もうする。

陽は勢いが強く、陰はその逆。

押さえ込もうとしても、いかんせん無理。
陰による抑止、支えは早々に破綻。

   ☆

この「大過」が陰陽反転すると「頤」になる。

中4つの陽爻は、ぜんぶ陰になって、上と下の爻は陰になる。

しかし……

「頤」卦では陽が陰を押さえ込もうとしているわけではない。

押さえ込もうにも、陰は柔らかく、空虚で、実体がない。


【74:頤】

あらわれたのは、
ぱかぁっと開かれた口。

いかにも、もの欲しげ。

だが。

いくら欲しくてもクイモノは転がり込んでこない。
口をあけているだけでは。

かくて、空虚は空虚なままであり、
ティップルはぽつねんと虚空に取り残されたまま。

ティップルを囲むように、
暗闇に埋没している複数の交差する道に見えるような

パターンはゼンタングルで

「ホリバー」と呼ばれるパターンだ。

ホリバーを道と観たてるなら、
描かれているのは交差する人生航路。

海路は折り重なり、
申し合わせたように虚空へと吸い込まれていく。

易卦の上で初と上になるふたつの陽爻は、
虚空というとらえどころのないものを
無理矢理とらえようとしているようにも観える。

「大過」も、「頤」とはエネルギー的には反転しているが、
とらえきれないものをとらえようとしている点では
「頤」と同じと観ることもできる。

「大過」と「頤」。

共通して観えるのは、
無限をとらえようとする「境界」という有限である。

元来無限である海に、

なんとか境界をもうけることにより、

境界は有限という泡をつくりだす。

無限を有限でとらえるのは、

無理なことは最初からわかっている。

無理どころか、

やろうとしていることが、そもそも矛盾している。

しかしそれでもなお、

陽の無限の海に陰の柱を建て、

最後の土壇場まで支えようとするのが「大過」だ。

陰の無限の海を陽の口でくわこみ、

そこからなんとかカタチを取り出そうとするのが「頤」だ。

カタチあるものは、なにかになる。
なんか食えるモノになるかもしれない。
ひょっとしたら。

生命は、宇宙が、
宇宙自身をとらえようとして創った、
その宇宙自身から成る精緻な「境界」だ。

 

食わなきゃ死んじまうぞ。

メシ食ったか?

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想—はじめに」を参照してください。

 

75:蠱
24:随
TP27:課題の精算

   ☆

「カルマ」という言葉はあまり使いたくない。

ただでさえありきたりなこの文章が、
なんだかさらに陳腐になりそうな気がする。

蠱は「カルマ」というより、「つぐない」という感じ。
それも、つぐなう当人の落ち度ではない。
親、もしくは先達のほころびを正すことである。


【75:蠱】

「75:蠱」のタングルには上の大きい方の○の中のパターンに一部欠けた所がある。

このパターンは以前に出てきた「Dex」で、易タングル的には、メモリバンクやレコード、墓……

といったイメージに観たてている。
そう決めているわけではないが。

つまり、受け継ぐべき遺産に欠けたところがあるのだ。

遺産や相続という話になると、いったいなにをどれだけ相続するのだろうといったことが問題になる。
親族間での骨肉の争い……なんて話も聞く。

だけど、遺産はプラスのものだけとは限らない。

負の遺産だってある。

「75:蠱」がフォーカスするのは主にこの「負の」遺産の方。
頭でっかちなタングルがあらわすのは、ただでさえ重たい「伝統(遺産・メモリー)」と、それをささえ、ほころびを正そうとするけなげな花……

ここに描かれた花は、ゼンタングルで「サイム(Cyme)」と呼ばれるパターンで、音も「債務」と一緒でおもしろい(おもしろがってどうする)。

もちろん、「Cyme」と「債務」は関係ない
(あったりして)。


【サイム】

卦名の漢字「蠱」も、蠱惑の蠱だし、虫が皿にのったカタチは、宴会が終わって、ほっぽっておかれた皿に虫がわいたカタチで、蠱毒の蠱であり、蠱毒は呪術で……

とまあ不穏な易卦だ。

だから、このタングルの背景というか、アウトラインも、黒い影というか、不定形なカタチでよくわからない。

なんとなく描いていたらこういうカタチになった。

意味はない。


【24:随】

意味がないといえば「24:随」のゼンタングルの、釣り鐘というか冑(かぶと)というかヘルメットのようなアウトラインにも特に意味はない。

「75:蠱」「24:随」ペアの共通モチーフは、くっついている小円と大円である。
「75:蠱」では大円が上にあり「伝統」が重荷であることを暗に示唆するが、「24:随」では大円は下にある。
大きなものが小さなものに付き従っている。
上の円は末娘の「兌」であり、下の円は長男の「震」だ。長男はおとなしく末娘に付き従う。

ときには若いもんをフロントに立てて、粛々とことを進めるのも悪くない。

年寄りの知恵は深く、アクセスは早いが、それは歳月を経て知恵が結晶化しているからである。
知恵の結晶は美しいが、時として融通が効かず、時の流れに竿さすようなところもある。

そんなふうに観ていくと大円は集合的無意識、小円は顕在意識とれなくもない。

それをふまえて、また「75:蠱」にもどると、受け継いだのは祖先から伝わる大きすぎる集合的無意識。
それを支える小円は私たち個々の意識ということになる。

とにもかくにも、課題の精算は一筋縄ではいかないようだ。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

 

42:帰妹
57:漸
TP14:痛み

   ☆

加藤大岳校訂の手帳サイズの「易経」を、
クラフト紙で包みながら店主はこう言った。

「断易で独学はむつかしいね。
 周易なら独学でいけるだろうけどね」

神保町古書街。
占術書を扱っているお店でのこと。

もうずいぶん昔の話だ。
易はずっと独学でやってきた。

曲がりなりにでも、ひと様に易の話などをすることになって(2005年あたり。今はやってない。あまりに分不相応)、独学が悪いわけではないけれど、一度くらい、ちゃんと先生につかなきゃあかんのじゃないか……

と、思いはじめた。

そこで、2008年〜2010年あたりに易の教室に通った。

今となっては、きちんとした易の話をしてくれる先生もずいぶん少なくなってしまったのではないだろうか。
当時でさえまともな教室をさがすのはちょっと大変だった。

   ☆

そこで先生が言っていたのだが、
結婚に関する卦には「漸」「帰妹」「咸」「恒」の4つがある。

このシリーズでは互いに裏卦の関係にある易卦をふたつづ(ツイストペア)とりあげている。
今回紹介する「漸」・「帰妹」ペアは結婚に関する卦のうちの半分のふたつということになる。

なかでも「帰妹」は4つの卦のうちではただひとつ、
「結婚にはよろしくない」とされる卦だと習った。

どのへんが「よろしくない」のか。


【42:帰妹】

「帰妹」の「帰」はとつぐ意味だ。

「帰妹」では、とつぐ=嫁入りといっても正妻として迎えられるのではなく、セカンダリ、つき嫁としてとつぐ意味になる。

伝統<レガシー>によれば、五爻辞の「帝乙帰妹」は婚姻に臨む当人どうしの意志に反した政略結婚であり、上爻辞(六爻目)にいたっては、贈り物やささげ物の、箱は立派(?)でも中身がなかったというハナシになっている。
ようするにあまりいいことがなく、全体としてしてはおもしろくない。

手前勝手な各大成卦のイメージ「易タングル」で「帰妹」と「漸」のペアは二つの円がモチーフになっている。

「帰妹」の方は上の円の中に空白がある。タングルではそこに易卦の象<カタチ>と卦名、コード番号を入れ込んで描いてしまっているが、もともとここは空白で「中身がない」ことをあらわしている。

先に述べた上爻辞の話だが、より詳しく言うと、爻辞には、女がカゴを受け取るが中身がなく、男が羊をさばくが血がない、とある。

形ばかりで実質を伴っていないことをいわんとしていると思われるが、その様子をオーラ(ゼンタングルのパターン。流れるような複数の線)で囲まれた空白で表現したつもり。


【57:漸】

「57:漸」の卦辞は「女帰吉」で、単刀直入に「女が帰ぐ(とつぐ)に吉、とある。

ゼンタングルは樹がモチーフになっている。
象伝に「山の上に樹がある象(かたち)」とあり、そこから来たイメージだ。

樹は時間をかけて徐々に大きくなっていく。

爻辞では、水鳥が水際から岩、もう少し高い丘、樹へと進んでいき、最後は梢から雲の彼方へと飛び去っていく。
いきなり飛び立つわけではない。
徐々に、ステップバイステップで、進んでいく。

「漸」は少しずつ、じわじわ、という意味であり、一足飛びに跳躍する、なにかかが一気に進むことはない。

さて「帰妹」と「漸」、このペアには「痛み」という意味がつけられている。

「帰妹」は自己犠牲にともなう痛みであろうことはわかるが、「漸」は?

ぼくが「漸」に観たのは、一気に飛び立てないもどかしさである。これも一種の「痛み」なのではなかろうかと思った。

早くラクになりたい!
すぐ結果が知りたい!
商品は明日中に届いてほしい!

早く、早く、早く!

結果を手早く求めることばかり思っていると、「漸」は確かに苦しみ・痛み以外のなにものでもないだろう。

最後はだれでもかならず死ぬのは決まっている。

早く、早く、早く!

だからといって、生まれてすぐに死に急ぐ者もいないだろう。

地上での物語は、生まれて死ぬまでの間につむがれるのである。

あらゆることには、それぞれ固有のタイミングがある。

そこには早いも遅いもない。

急ぐことばかりがいつも正しいとは限らない。
まずは、駆け込み乗車からやめてみてはどうか。

……と、思うがどうだろうか。

つまりはもう「歳」なのである。
こういう小言を言い出すと。

がは、げへ、ごほ。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

 

52:中孚
47:小過
TP15:ライフスパン

   ☆

このふたつのゼンタングルのボーダー(パターンを描き込む最外郭になる境界線)はちょっと変わっている。

トラディショナルなゼンタングルのボーダーはタイルの四隅に鉛筆で点を打ち、その点を結んで描いていく。
このゼンタングルについては最初から、このカタチありきで描いた。

いろいろなものにみえるだろうし、またそうみてもいいのだが、最初に描いた時は、このボーダーは「鳥」のつもりだった。


【52:中孚】


【47:小過】

なぜ「鳥」なのかといえば、「52:中孚」も「47:小過」も鳥と関係のある意味があるからだ。

「52:中孚」の方は鳥とはいってもヒナもしくはタマゴ、「47:小過」の方は飛鳥、飛ぶ鳥のイメージ。

このふたつがペアになって、タマゴ〜成鳥、そしてその「先」へ向かう……鳥の一生のように観えた。

そこでこのツイストペア(互いが裏卦の関係にある大成卦の対)に「ライフスパン」という意味をつけた。
ゼンタングル自体は「52:中孚」の方はその中心に抱えるものがあるデザインになっている。

「52:中孚」は親の呼びかけに子どもが答えるような、タマゴの殻をその内と外から助け合って割っていくような、うそいつわりのない誠心といった意味合いもある。
大成卦全体はおおきな「離」(大離)で離は外剛内柔でタマゴそのものだ。


【大離とタマゴ(きたない絵ですいません)】

「47:小過」の方は成鳥のイメージで、飛鳥、鳥そのものだが、描きながらアタマの片隅に「カモメのジョナサン」のことがあったのも確か。

大成卦全体はおおきな「坎」(大坎)で坎は外柔内剛。
三・四の陽爻が胴体で、初・二爻、五・上爻を両翼とみなしてで鳥になる。


【大坎と鳥(雑な鳥で重ねてすいません)】

空をゆく鳥は、人の眼からはいかにも自由に見える。
人と違って上下という3次元空間内の動きをものにしているようにみえるからだろう。

でも自由にみえるのは、それだけが理由ではないだろう。
なによりも、ライフスパン(生き死に)や、それに関わることにこだわらないから自由なのではないだろうか。

生まれて、育って、タマゴを生んで、子を育てる。

なぜ生まれてきたのかと悩んだり、死にたくない、ずっと生きていたいと騒ぎたてることもない。

   ☆

今年もツバメは口を開けて宙を飛び回る。

親が集めた虫は巣で待っている子供らの胃袋に流し込まれる。
巣から落ちて息絶える子もいる。

それでも何羽かは大きくなり、渡りに出る。
さらにそのうちの何羽かは古巣に戻ってくる。

本能に従った行動しかできない、という見方にとらわれるなら、それ以外の事ができないのはいかにも不自由だ。

だけど待ってほしい。

鳥は、これは本能だ、これは不自由だ、などと「思って」そうしているのだろうか。

鳥は飛んでゆく。
死のうが生きようが。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

 

64:屯
35:鼎
TP30:停滞

   ☆

易システム(筆者独自の易解釈)ではお互いに裏卦の関係にある大成卦の対を「ツイストペア」と呼び、この「対」自体にも意味をつけている。

「64:屯」と「35:鼎」のツイストペアには「停滞」という意味をつけた。

   ☆

停滞だから、とどこおっているわけだが、もちろん好きこのんでその状態あるいは場所にとどまっているわけではない。
進んでいきたいのだが、その進行を阻むものがある。
と書くと、
これは「64:屯」の説明そのままになる。

のびてゆこうする芽は、冷たく固く凍りついた大地にはばまれて芽が出せないでいる。

そういう停滞だ。


【64:屯】

もう一方の「35:鼎」には、伝統的な解釈によれば「停滞」の意味はない。
にもかかわらず、ペア全体には「停滞」の意味をつけた。
ここらへんが「易システム」の独自解釈で、本来ペアを構成する大成卦は互いに対等なのだが、このペアでは「64:屯」の意味がペア全体の意味を代表している、というふうに設定した。

既存の秩序からそれまでどこにもなかった新しい秩序が発生することを「創発(エマージェンス)」という。
ツイストペアでは、そのペアを構成する大成卦とは別の意味を「創発」させるよう目論んだわけだが、中にはこのペアのようにどちらかの大成卦の意味にひっぱられて、ペア全体の意味にしてしまっているケースもある。


【35:鼎】

伝統的には停滞の意味がないはずの「35:鼎」の、どこが「停滞」なのか。

爻辞によれば鍋(鼎)の取っ手がこわれたり、鍋をひっくりかえして料理を台無しにしたり、いろいろ紆余曲折はある。
そこが停滞ととれないこともない。

「35:鼎」のゼンタングル(易タングル)では中心の太極図様のものを周囲の三点がささえているような表現になっていて、「三」がひとつのキーナンバーになっている。

鼎という鍋は神様への供物を煮炊きするもので、三本足がついている。
不規則な地形上でも三脚は安定する。
三は安定数なのだ。
この安定が停滞をもたらすと……
安定しているのでその状態に甘んじてしまう。
鍋の中の料理はほどよい塩梅を通り越して、ぐだぐだ。

解釈は占的による。
ケースバイケースである。

たとえば、仲むつまじい三人家族がいたとする。

「非常に」仲むつまじい。

シンプルに、しあわせにたのしく暮らしているだけなら問題はないのだが、家族の絆という「安定」にこだわりすぎて、三人家族のつながりをおびやかすと思われるものは、なんであれ、すべて、徹底的に、排除する。

……となるとこれは行き過ぎの安定→停滞で、おそろしげなドラマでも書けそうだ。

停滞は手痛いになってしまって……

いや、シャレてる場合じゃない、変わろうとしないのならまだしも、変わるのが「恐ろしい」となってくると病的な様相を帯びてくる。

これはまあ極端な例だし、あくまで、例えばの話。
解釈は占的による。
ケースバイケースである。

易システムが「35:鼎」に観てとった「停滞」の意味と、「64:屯」の「停滞」の意味は根本的に異なる。

「64:屯」はいわば生みのの苦しみであり、先にも書いたが、好き好んでその状態にとどまろうとするものではない。
生まれるものは生まれるのだ。
そこには「生まない」という選択はない。
夜明けの前が一番暗い。
だけど、明けない夜はない。
それが「64:屯」における「停滞」だ。

   ☆

そこにいたいからいるのだろうか。
それとも、しかたなしにそこにいるのか。
あるいは、それが避けられないプロセスの一環だからそこにいるのか。

見かけは同じ。
「そこにいる」ことには変わりない。

その動機や周囲をとりまく環境や条件によって、「じっとしていること」にも、ずいぶんちがいがあるものだ。

   ☆

ずっと未来永劫、停滞したままということは、決して、ない。

停滞しているものあるいは状況は、また再び動き出す。
自分でそのように働きかけなくても。
時が来れば必ず。

たとえ一歩も家から出なかった(停滞していた)としても、あなたは旅人である。
ぼくらは生まれてこのかた、時間という流れの中を強制的に旅させられている。
それが法則だからだ。
法則だから例外はない。
あなたがいまいる、一歩も外へ出たことがないというその部屋は、それはそのまま、「時間船」なのである。

例えに出した三人家族は、三人は三人ともずっとそのままというわけにはいかない。
いずれは家族のカタチは変わる。
一緒に同じ所にいることはもちろん、家族は家族でなくなるだろう。
例えに出した三人家族には悪いが、「永遠に不滅」などということはない。

易の根本は、陰でも陽でもない。
絶え間ない変化そのものだ。

「陰」や「陽」は根源ではあるけど、その変化をもたらす、基盤的差異の表現なのである。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想——はじめに」を参照してください。
 

HOLGA DIGITAL。

ホルガ。デジタル。

雨宮慶太の「未来忍者」と同じくらい、
なんと安っぽい、そして矛盾した響きだろう。

   *

トイカメラが流行ったことがあった。
もう10年以上昔になる。
ぼくは専門学校生(といっても随分歳くった「学生」だったが)で、よく持ち歩いていたのはHOLGAという香港製のトイカメラだった。
当時すでにフィルムは時代遅れだったから、笑われながら120フィルムを入れて、わけのわからない写真をいっぱい撮った。

ついこの間。

ボケ~っとネットを見ていた。
「HOLGA DIGITAL」の文字が飛び込んできた。
気になってそのまま調べる。

『あのHOLGAがデジカメで復活。最初はクラウドファウンディングだったが、あっという間に目標達成。結果的に出資率は600%だった』

へえ。

てかもう、2年も前の話らしい。

なんとなく買ってしまった。
酒が入っていたせいもある。


【HOLGA DIGITAL】

お手軽なスマホのカメラだって、昨今は高機能・高精細である。
キレイな写真が撮れる。


【ささやかな(たぶん)道楽】

なんでHOLGAなんて、およそ不便で役に立たない、ボケた写真しかとれない、いうことをきかないカメラを持ち歩くのか。
ネットをみるといろんな人がいろんなことを書いている。

   *

撮れた写真がどこか「夢」に似ている。

そう、ユメ。
寝てるときに見るやつ。

夢の画像はだいたいボケてる。

スマホのカメラ並に高精細な夢を見る人も……
いるのかもしれないが、ふつうはボケてる。

コントロールできる人も……
いるかもしれないが、ふつう夢はコントロールすることができない。


【夢はコントロールできない】

HOLGAもそんな感じ。
モニタはないので、家に帰ってからSDカードをPCにさしてみるまで、なにが撮れているかさっぱりわからない。
でもって、総体的にチープでユルい。
このカメラで日常を撮ると、ありふれた生活はそのまま夢になってしまう。


【夢になった日常】

シャッターを長押しするとバルブになるというすばらしい機能のおかげで、油断すると簡単にホワイトアウトする。
キャップをつけたまま撮影しブラックアウトするという、懐かしいミステイクも時々ある。
シャッターには何のクリック感もない。
もちろん音もしない。
ただ、フワ~っとレバーを押せるだけ。
シャッターが切れるタイミングもよくわからない。
一説によると離した時に切れるらしい。

なんなんだ、いったい。

そんなわけで、夢も頻繁に錯乱する。


【錯乱した夢】

ノスタルジアだろうか。
そうかもしれない。
いや、そうなんだろう。

   *


【帰ろう】

明鏡国語辞典(電子版)によるとノスタルジアにはふたつ意味がある。

『異郷にあって離れた故郷を懐かしむ気持ち。また、過ぎ去った昔を懐かしむ気持ち。郷愁。ノスタルジー。』

懐古趣味ということでは後者の意味になる。
10年前というのは適度に懐かしい。

一方、前者の意味では「異郷にあって」とある。

日常生活が「故郷」で夢が「異郷」?
毎晩ぼくらは「異郷」へ旅立つのか。

いやいや。

実はその逆ではないか。

夢の世界こそが故郷であり、ぼくらはそこからこの日常という異郷にやってきたのだ。
そうするとHOLGAは、この異郷にあって故郷を覗き込む「窓」ということになる。

いやそもそも、最初から故郷にいるのかもしれない。

それを、見る方向のベクトルをまちがったか、誰かにダマされでもしたのか、あるいはその両方か、ここは異郷になってしまった。

いつの間にか。

ひょっとしたら、HOLGAは故郷を覗き込む「窓」というより、故郷が異郷に見えてしまうベクトルを訂正して、本来の姿である故郷を映し出すデバイスなのかも。

 

【ここはどこ】

家電量販店にいくと高画質のテレビがずらりとならんでいる。

動画も静止画像も息をのむほど綺麗だ。

でもそれって、ほんとうにぼくらが「現に」見ている風景なのだろうか。

ぼくらが見ているのはドットマトリクスで、マトリクスの密度を上げれば上げるほど真実に近づいていく……というのは、ほんとうか。
再現されるイメージが高精細になればなるほど故郷は「異郷」になり、真実から遠ざかっていく……のではなかろうか。

動画も静止画像も息をのむほど綺麗だ。

でもあんまり、「うつくし」いとは思えない。

極端にいえば少々グロテスクにさえ感じる
……のは、ぼくだけだろうか。
 


85:升
14:无妄
TP26:スパイラル

   ☆

わりとわかりやすい意味と、
わりとわかりやすい描き方に観える易タングル。

ぐるぐると上昇するテープというか、新体操のリボンというか、この帯は「ダブルストリング」のやり方で描いた。

ゼンタングルでは境界線を描いてからその線で区切られたエリアをパターンで埋めていくのが基本だが、この境界線を「ストリング」という。

ダブルストリングは鉛筆を2本持って境界線を描いていくやり方で、ここに描いたようなのは一番工夫のない描き方かもしれない。

すっきりした方からいこう。


【85:升】

「85:升」の易タングルは実質ひとつのパターンしかない(モノタングル)。
上昇するリボンの柄になっているギザギザの線でできたパターンがそれだが、このパターンはゼンタングルで「スタティック」と呼ばれるパターンで、易タングルでは「震」にみられるような衝動的なエネルギーをあらわすものとしている。

「している」といっても厳密な定義などではなくて、「そんな感じ」といった程度のこと。

上昇するリボンの裏側は「スタティック」を交互に白黒に塗り分けたパターンだ。
バックは黒ベタで易タングルでは本源から分離した個人を象徴する「ティップル」が浮いている。

大成卦は坤(大地)が上卦で巽(風)が下卦。
大地に風が吹くイメージなのだが、升は上昇の升で、この風は天高く駆け上っていく。


【14:无妄】

同じ風でもこちらは災害をもたらしかねない風だ。

上卦は「乾」、天で、下卦は「震」、雷。
天下に雷鳴が轟く。
自然に吹く風はコントロールできない。

ありのままというわけだが、人間にとっては吉でも凶でもある。
吉凶は人間側の都合であり、自然とは直接関係ない。自然に吉凶など、そもそも在りようがない。
人が死のうが生きようが風は吹く。
このタングルに吹いているのはそういう風。
いつわり(妄)がない(无)。
目先の損得にはかかわりがない。

ツイストペアの意味としては「スパイラル」=螺旋としてある。
スパイラルは吉凶とかかわりなく、すべての動きの原因となるエネルギーである。
日常的なレベルから観れば、このスパイラルが吉凶をもたらすようにもみえる。
宮沢賢治はこの根源的エネルギーを「サイクルホール」と命名した。
風たちが知っている風によってつくられる「なにか」だ。

その「なにか」は、今回紹介している易タングル上では黒い色(黒ベタの部分)であらわされる。

「升」のタングルでは背景の黒、「无妄」のタングルでは螺旋を描くリボンは暗闇をかかえている。

「スパイラル」は一見わかりやすく観えるが、それが抱えている本質は茫洋としていてとらえどころがない。
だからといって「恐ろしい」わけではない。
むやみに怖がることもない。

黒ベタであらわされた闇も「何もない」虚無の闇などではない。
決して。

「何もない」などということはありえないのだ。

凡そ想像することのできるすべてが、そこから生まれ出てくるような闇(*2)。

「何もない」闇ではない。

この闇は「やわらかい」闇。

夏の夜。

テントを張ったすぐ外(ビバークか?)。
森とあなたの間に横たわる闇。
シカかサルかフクロウか。
遠くから聞こえる獣の声がふちどる暖かい闇。

「やわらかい闇」はやさしいのである。


   ☆

(*1)「ゼンタングル」、「易タングル」
「六十四卦雑想ーーはじめに」を参照してください。

(*2)すべてがそこから生まれ出てくる闇
無意識。
死。
そしてもっと根源的な……
老子はこれを「玄牝の門」と呼んだ。
男にとっては永遠の故郷だが、おそろしい海でもある。

せっかくそこから必死こいて這い上がってきたにもかかわらず、またそこに引きずり戻されるのがたまらなくこわいのである(「むやみにこわがるな」とかいっておきながら結局こわがっている!)。
 


45:恒
54:益
TP29:法則(ダルマ)

   ☆


【45:恒】


【54:益】

このペアには「法則(ダルマ)」という意味を付けた。
いずれも三角めいたカタチが共通のモチーフになっている。

もはやトラディショナルなゼンタングルのルールには則っておらず、ZIA(ゼンタングル・インスパイアド・アート)になってしまっているといえるかもしれない。

カテゴリの話はともかく、なぜ三角かというと別にたいした理由はない。
このタングル描いたときに、たまたま観たファンタジー映画に三角と渦巻きのシンボルが出てきたからだ。
そんなこともあって古代の土器のようなパターンになってしまった。

ポイントはおおきな渦巻きの位置で、「恒」では中心に、「益」では下に、おおきな渦巻きがある。
渦巻きも一応はゼンタングルの公式パターンで「プリンテンプス」と呼ばれる。通常は複数で描かれる。


【プリンテンプスのモノタングル】

プリンテンプスが中心にある「恒」では、この渦が周囲を動かす原因になっている。
地球でもエンジンでも素粒子でも、渦……回転はすべての根源的な動力だ。
この動力が周期を生み、周期が変化を生む。
眼に移る変化は、おそろしくなるほど多様でめまぐるしく、とても「恒」常……と呼ぶことができるほどの一貫性は観てとることができない。
ここに「安定」はない。
「安定」は不動、すなわち死を意味するからだ。

時間は、空間は、人々の活動は、生命のいとなみは、うねり、のたうち、もだえながらも決して静止するこなく流動していく。
決して静止することはない。
すべては、回転し運動する要素から構成されているからである。

「変わり続ける」というその動きだけは「変わらない」。

「恒」という名前は、そんな、深いところにある法則にたいしてつけられた卦名だと思う。
ペアにつけられた「法則」という意味はどちらかというとこの「恒」にひっぱられてつけられている。

「益」は、その「法則」がもたらす恵み……御利益の方にフォーカスされている易卦である。

易卦的には「益」は「否」から来たとされる(交代生卦)。
否の四爻位にある陽爻が、初爻位に「落っこちて」できたのが「損」というわけだ。

それでその「落っこちてきた」陽爻が、高いところから低いところへもたらされた恵み、ほどこし、言い方は文脈によりさまざまだが……なんらかのカタチで「もたらされたもの」ということになる。

偏った視点には賛成しかねるが、伝統的な易では一般に「陰」=わるいもの、「陽」=いいもの、といった観方があるのは確かだ。
でまあ、落ちてきた陽は「恵み」というわけだ。

タングルとしてはその「もたらされたもの」をプリンテンプスであらわしているつもりで、だからその渦巻きは下向きの三角の一番下の頂点に「落っこちて」きている。

悲しんでいる人がいたとして、その悲しみがいつまでも継続するしたとしたら、その人はたぶんストレスでまいってしまうだろう。
では、喜びの感情ならずっと続けばさぞや幸せだと思われるかも知れないが、ずっと喜びつづけるしかないとしたら、おそらくそれはまたストレスだろう。

感情はいつもゆれうごいていて、時々刻々その状態を変えていく。
そのせいで喜びは永遠に続かない。
でも、悲しみも永遠に続くことはない。
よくいわれる「時間が解決する」ということになるのだろうが、もたらされた恵みは変化することそのものであるのかもしれない。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想——はじめに」を参照してください。

ある女性にたのまれて失せ物占をした。

ぼくは占い師じゃない。
一応お断りする。
あてにならないですよ。
ふだんはほとんど占いなんかしてませんし。
あまり気はすすまなかったが占った。
それでも、とおっしゃるので。

   ☆

なぜ気がすすまなかったというと、
失せ物などの具体物をピンポイントで占うのはとても難しいからだ。
ゴマカシもきかない(もちろんゴマカそうと思って占うわけじゃない)。

失せ物占がうまい占者もいると思う。
だけどぼくは得意じゃない。

易で観るよりダウジングでもした方がいいんじゃないか。
だけどあいにく、そんなスキルは持ちあわせていない。

なくした物はA4サイズの卒業文集で薄いものだったそうだ。
借りて、持ち出して、なくした。
落としたのか。
どこかに置いてきたのか。
わからない。

行った店、歩いた場所、自宅。
考えられるところはすべて探したという。
どのあたりからなくなったか記憶も定かでない。
気がついたらなかった。
お店や駅や寄ったお宅、警察にも問い合わせたが、サッパリ。

   ☆

占って出たのは「目癸」(←1文字として見てください。これを打っている環境(ポメラ)では出てこない字です。「ケイ」と読みます)。

変爻は、ない。

「目癸」(ケイ)の不変。

ぼくがこのブログで推奨しているサイコロを使った無筮立卦では不変ということはありえない。
上下卦を示す八面サイふたつとふつうの六面サイひとつ、合計3つのサイをいっぺんに振るからだ。
六面サイが必ず本卦の変爻をあらわす。
筮竹を使った場合の略筮法、中筮法と同じことである。

三枚のコインを使う無筮立卦、擲銭法ではままありえる。
老陰または老陽がでなければ、本卦に変爻はなしということになる。
筮竹を使った場合の本筮法と同じことである。

   ☆

このブログの「六十四卦雑想」のテーマでずっと紹介しているゼンタングル(易タングル)を描いたカードを使って占った。
タングルは全部描き終わっている(*1)。
今は自分で試験的に使っている。
このツールではカードを2枚ひいて占う。
最初に引いたカードがあらわしている卦を本卦にする。
カードには卦の象(カタチ)の他に漢数字が描かれていて、これが変爻をあらわす。
2枚目のカードではこの漢数字をみる。
その数を1枚目の本卦の変爻にする。

爻は初爻〜上爻まで全部で6つある。
大成卦は全部で64ある。
対応したカードも64枚。
そこに初(一)、二、三、四、五、上(六)の6つの数を均等にわりふっていけば4つの大成卦があまる。
易タングルのカードでは「乾」「坤」「泰」「否」の4枚のカード(大成卦)にはこの漢数字が描かれていない。
つまり、2枚目に引いたカードが「乾」「坤」「泰」「否」いずれかのカードであったときには「変爻なし」ということになる(*2)。

   ☆

今回の占例では「目癸」(ケイ)が出たが2枚目に引いたカードは「坤」だった。不変(変爻なし)ということになる。


【「目癸」(ケイ)のタングル】


【「坤」のタングル】

失せ物占の場合、要点ははっきりしている。

1、なくしたものが出てくるのか、こないのか。
2、出てくるのであればどこから出てくるのか。
  または、どこにあるのか。

2の「どこ?」という点については変爻のある爻位がヒントになることがある。
たとえば変爻が内卦にある場合は家の中にあって、変爻が外卦にある場合はどこかほかのところにある、といった観方をする。
初爻から上爻へと、その場所はおおむね相談者から遠ざかっていく。
ホームからアウェイへ。

不変だとピントをどこに合わせていいかわからないようなもので、ピント……フォーカスが合っていないということ。
フォーカスが合っていない写真は、何を撮りたいかよくわからない写真で、つまり捜し物はどこにあるかわからないという、大変困ったことになるのである。

   ☆

フォーカスが合わないのはカメラ(システム)が安いからでも壊れたからでもない。
変爻がないということ自体がひとつの情報なのだ。
変爻がないということは、動きがないということで、状況は変わらないと観ることもできる。

断易では「動爻」というそうだが、同じ様な観方をすることもあると聞いたことがある。
逆に動爻が多すぎると百家争鳴、シッチャカメッチャカ、収拾がつかない状態であるといったふうに観ることも。

変爻がないということは動きがないということ。
動きがなければ出てくる物もでてこないのである。
「失せ物占で不変を得た場合は出てこない場合が多い」
というのは定石だと易の本で読んだこともあるような気がする。

だが、「出てこない」という回答もありだということは、特に相談者が必死であればあるほど意外と忘れがちである。
なんとかして見つけなきゃ!
と、思うのが人情だからである。
でも、出てこないこともある。

   ☆

不変という結果を見たとき、
『出てこないんじゃないか』
とすぐに思った。

くりかえすが、使ったツールは易タングルのカードで、このツールでは不変というのは64枚中たったの4枚。
そのうちの1枚が出てしまっている。

易システム(筆者独自の易解釈)では対象となっている大成卦を構成する各爻の陰陽を反転してできた大成卦、「裏卦」もあわせて観ることにしている。

「目癸」(ケイ)の裏卦は、「寒」の点の代わりに「足」と書く、「ケン」である。
「ケン」は身動きがとれない、動けないことを意味する難卦である。
動けない、ということはつまり動きがない、ということとほぼ同義。
失せ物は失せたところから「動けない」。
不変と裏卦という象(シルシ)は双方とも「出てこない」を指さしている
(ように観えた)。
だけど無下に「出てきませんよ」とは言えなかった。
ここらへんがアマチュアなのである。

射覆(せきふ)(*3)や失せ物占の場合、大成卦よりも大成卦を構成する八卦のイメージをふくらませて応用することが多い。
アマチュアはイメージを的確に絞れないものだから、いきおい回答は玉虫色になる。

ええと、次を参考に再度さがしてみてください。

二女(ふたりの女性。若い女性とちょっと歳の女性)が同居する家(「目癸」(ケイ))の象意)
西南(「目癸」(ケイ))の上下卦、兌と離から。坤の卦辞にも西南の字がみえる)
低いところ(床、地面)袋の中、暗いところ、ナニカの下敷きになっている(この辺は坤からの連想)
キッチン(兌=水、離=火から)

下手なテッポウも数打ちゃ当たる。
「『出にくい』というサインも出ています」
というタマも付け加えて。
聞かされる側からすればワケのわからない回答だ。
出ないと思うけど探せって言ってるのである。

まあなんていうか……

そもそもぼくが占いを依頼されること自体、
たぶんなにかのまちがいなのだろう。

   ☆

と、ここまで書いて、ブログ原稿を放置していたら、
当の女性からやっぱり出てこなかった、という連絡をもらった。
文集の貸し主に謝ったそうだ。
でも在庫というか予備が数冊あって事なきを得た、ということで。

ついでに占例のブログ掲載の許可もいただく。

当たった……ということなのだろうが、
よろこんでいいのか、よくわからない。

一件落着ではあるけど。

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(*1)「タングルは全部描き終わっている」
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想——はじめに」を参照。「六十四卦雑想」のテーマは、後追いで書いているこのカードの解説(というかエッセイ)。

(*2)「2枚目が『乾』『坤』『泰』『否』では変爻なし」
この配当は易システム(筆者独自の易解釈)の「後天動因図」依拠しているが説明は省略。

(*3)「射覆(せきふ)」
易者の腕試し。
目隠しして置かれたものが何か易占で当てる。
通常まったくのノーヒントで出題されることはない。
歳時記にちなんだ季節の物や、
答えとして「なるほど!」と思わせるようなものが選ばれる。
出題する側にもセンスが要求される風流なゲーム。
 


27:咸
72:損
TP27:問いかけ

   ☆

ゼンタングルでパターン(描き込んでいく模様)を区切る境界線をストリングというが、この「六十四卦雑想」で紹介している大成卦のペアは、それがペアであることが判るように、ストリングの描き方に共通性を持たせてある。

共通性のあるストリングでも、この「27:咸」と「72:損」のゼンタングルではずいぶんと様子がちがってみえる。


【27:咸】


【72:損】

このペアには「問いかけ」という意味を付けているが、描かれているのは問いかけとそれに対する呼応である。

「27:咸」は「打てば響く」状況であり、比較的いい卦とされる。

縁談や契約取引のようなことには反応、レスポンスがいいということでとくに吉とされるが、反応のよさに依存しすぎてしまうと、それにつまづいてしまうこともあるので要注意だ。

「反応のよさ」が占的にどう響くか、それこそ、占者に反応(判断)のよさが求められる卦でもある。

占術書みたいなことを書いたところで、ゼンタングルの説明をすると、このタングルは白黒の矢印のパターン(「シュウェイ(Schway)」と呼ばれる)がメインだ。

シュウェイは非常によくできたパターンで、黒い矢印を描いていることが同時に白い矢印を描いていることでもあり、夢中になって描いているとたちまち瞑想的(催眠的?)な状態になってくる。

図と地の関係を利用したパターンだが、「黒」は即刻「白」であり、「白」は即刻「黒」であり、この関係を反応のよさにみたてた。

もう一方の「72:損」にはピラミッド様の構造物の頂に花のようなものがあってそこからなにやら光のようなものが放射されているが、これは別に「高みからすべてを監視する支配者」をあらわしているわけではなくて、描いたつもりなのはその逆のことだ。

ピラミッドの頂上にあるバラの花のようなパターンはゼンタングルで「ディーバダンス(Diva dance)」または「ロックンロール(Rock'n Roll)」と呼ばれる。

「72:損」のタングルではディーバダンスは支配者ではなく、下から上へ献上されたなにかをあらわす。

ピラミッドの両サイドにあるアクセサリのようなパターンは「オーナマト(Onamato)」と呼ばれる。

オーナマトと、ディーバダンスから放射される光は、献上されたものに応えて天からふりそそぐ「恵み」をあらわしたつもり。

「損」の卦が出たときは「損して得とれ」ともいう。

大成卦のカタチからいうと、損はもともと泰からきたという観方がある。
交代生卦というが、この観方では、泰の三爻の陽が上爻位にあがって損になったと観る。
泰の三爻の陽爻が上爻に「献上」されたわけである。

「こないだ買った宝くじ当たるかなあ、占ってみてよ」
といわれて、サイをふったら、この「損」の卦が出たことがあった。

「あ、だめです」
「一枚も?」
「そうですね」
「なんでそんこと言うのよ」

「なんで」って言われても……

宝くじはお上のやる富くじである。

そもそも胴元がもうかるようにできている上に、高額当選する確率は、そこらへんを歩いていて上からモノが落ちてきて当たる確率より低い(*1)。

「はずれだ」といっておけば、占わなくたってまず当たる。

何枚買ったか知らないが、彼女は宝くじにつぎ込んだお金を立派にお上に献上したのである。

今回のタイトルは「呼応」である。
つぎ込んだお金に見合った「呼応」はあったのだろうか。

それはこんど彼女に会ったときに聞いてみるしかない。

   ☆

(*1)宝くじが当たる確率
検証したわけではない。聞きかじったことをテキトーに書いただけ。

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

「ゼンタングル」のパターンについては次の本を参考にしています。

「はじめてのゼンタングル」
さとういずみ著 自由国民社 2014年