六十四卦雑想——自由 | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

52:中孚
47:小過
TP15:ライフスパン

   ☆

このふたつのゼンタングルのボーダー(パターンを描き込む最外郭になる境界線)はちょっと変わっている。

トラディショナルなゼンタングルのボーダーはタイルの四隅に鉛筆で点を打ち、その点を結んで描いていく。
このゼンタングルについては最初から、このカタチありきで描いた。

いろいろなものにみえるだろうし、またそうみてもいいのだが、最初に描いた時は、このボーダーは「鳥」のつもりだった。


【52:中孚】


【47:小過】

なぜ「鳥」なのかといえば、「52:中孚」も「47:小過」も鳥と関係のある意味があるからだ。

「52:中孚」の方は鳥とはいってもヒナもしくはタマゴ、「47:小過」の方は飛鳥、飛ぶ鳥のイメージ。

このふたつがペアになって、タマゴ〜成鳥、そしてその「先」へ向かう……鳥の一生のように観えた。

そこでこのツイストペア(互いが裏卦の関係にある大成卦の対)に「ライフスパン」という意味をつけた。
ゼンタングル自体は「52:中孚」の方はその中心に抱えるものがあるデザインになっている。

「52:中孚」は親の呼びかけに子どもが答えるような、タマゴの殻をその内と外から助け合って割っていくような、うそいつわりのない誠心といった意味合いもある。
大成卦全体はおおきな「離」(大離)で離は外剛内柔でタマゴそのものだ。


【大離とタマゴ(きたない絵ですいません)】

「47:小過」の方は成鳥のイメージで、飛鳥、鳥そのものだが、描きながらアタマの片隅に「カモメのジョナサン」のことがあったのも確か。

大成卦全体はおおきな「坎」(大坎)で坎は外柔内剛。
三・四の陽爻が胴体で、初・二爻、五・上爻を両翼とみなしてで鳥になる。


【大坎と鳥(雑な鳥で重ねてすいません)】

空をゆく鳥は、人の眼からはいかにも自由に見える。
人と違って上下という3次元空間内の動きをものにしているようにみえるからだろう。

でも自由にみえるのは、それだけが理由ではないだろう。
なによりも、ライフスパン(生き死に)や、それに関わることにこだわらないから自由なのではないだろうか。

生まれて、育って、タマゴを生んで、子を育てる。

なぜ生まれてきたのかと悩んだり、死にたくない、ずっと生きていたいと騒ぎたてることもない。

   ☆

今年もツバメは口を開けて宙を飛び回る。

親が集めた虫は巣で待っている子供らの胃袋に流し込まれる。
巣から落ちて息絶える子もいる。

それでも何羽かは大きくなり、渡りに出る。
さらにそのうちの何羽かは古巣に戻ってくる。

本能に従った行動しかできない、という見方にとらわれるなら、それ以外の事ができないのはいかにも不自由だ。

だけど待ってほしい。

鳥は、これは本能だ、これは不自由だ、などと「思って」そうしているのだろうか。

鳥は飛んでゆく。
死のうが生きようが。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。