六十四卦雑想——なぜいつまでもそこにいるの? | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

64:屯
35:鼎
TP30:停滞

   ☆

易システム(筆者独自の易解釈)ではお互いに裏卦の関係にある大成卦の対を「ツイストペア」と呼び、この「対」自体にも意味をつけている。

「64:屯」と「35:鼎」のツイストペアには「停滞」という意味をつけた。

   ☆

停滞だから、とどこおっているわけだが、もちろん好きこのんでその状態あるいは場所にとどまっているわけではない。
進んでいきたいのだが、その進行を阻むものがある。
と書くと、
これは「64:屯」の説明そのままになる。

のびてゆこうする芽は、冷たく固く凍りついた大地にはばまれて芽が出せないでいる。

そういう停滞だ。


【64:屯】

もう一方の「35:鼎」には、伝統的な解釈によれば「停滞」の意味はない。
にもかかわらず、ペア全体には「停滞」の意味をつけた。
ここらへんが「易システム」の独自解釈で、本来ペアを構成する大成卦は互いに対等なのだが、このペアでは「64:屯」の意味がペア全体の意味を代表している、というふうに設定した。

既存の秩序からそれまでどこにもなかった新しい秩序が発生することを「創発(エマージェンス)」という。
ツイストペアでは、そのペアを構成する大成卦とは別の意味を「創発」させるよう目論んだわけだが、中にはこのペアのようにどちらかの大成卦の意味にひっぱられて、ペア全体の意味にしてしまっているケースもある。


【35:鼎】

伝統的には停滞の意味がないはずの「35:鼎」の、どこが「停滞」なのか。

爻辞によれば鍋(鼎)の取っ手がこわれたり、鍋をひっくりかえして料理を台無しにしたり、いろいろ紆余曲折はある。
そこが停滞ととれないこともない。

「35:鼎」のゼンタングル(易タングル)では中心の太極図様のものを周囲の三点がささえているような表現になっていて、「三」がひとつのキーナンバーになっている。

鼎という鍋は神様への供物を煮炊きするもので、三本足がついている。
不規則な地形上でも三脚は安定する。
三は安定数なのだ。
この安定が停滞をもたらすと……
安定しているのでその状態に甘んじてしまう。
鍋の中の料理はほどよい塩梅を通り越して、ぐだぐだ。

解釈は占的による。
ケースバイケースである。

たとえば、仲むつまじい三人家族がいたとする。

「非常に」仲むつまじい。

シンプルに、しあわせにたのしく暮らしているだけなら問題はないのだが、家族の絆という「安定」にこだわりすぎて、三人家族のつながりをおびやかすと思われるものは、なんであれ、すべて、徹底的に、排除する。

……となるとこれは行き過ぎの安定→停滞で、おそろしげなドラマでも書けそうだ。

停滞は手痛いになってしまって……

いや、シャレてる場合じゃない、変わろうとしないのならまだしも、変わるのが「恐ろしい」となってくると病的な様相を帯びてくる。

これはまあ極端な例だし、あくまで、例えばの話。
解釈は占的による。
ケースバイケースである。

易システムが「35:鼎」に観てとった「停滞」の意味と、「64:屯」の「停滞」の意味は根本的に異なる。

「64:屯」はいわば生みのの苦しみであり、先にも書いたが、好き好んでその状態にとどまろうとするものではない。
生まれるものは生まれるのだ。
そこには「生まない」という選択はない。
夜明けの前が一番暗い。
だけど、明けない夜はない。
それが「64:屯」における「停滞」だ。

   ☆

そこにいたいからいるのだろうか。
それとも、しかたなしにそこにいるのか。
あるいは、それが避けられないプロセスの一環だからそこにいるのか。

見かけは同じ。
「そこにいる」ことには変わりない。

その動機や周囲をとりまく環境や条件によって、「じっとしていること」にも、ずいぶんちがいがあるものだ。

   ☆

ずっと未来永劫、停滞したままということは、決して、ない。

停滞しているものあるいは状況は、また再び動き出す。
自分でそのように働きかけなくても。
時が来れば必ず。

たとえ一歩も家から出なかった(停滞していた)としても、あなたは旅人である。
ぼくらは生まれてこのかた、時間という流れの中を強制的に旅させられている。
それが法則だからだ。
法則だから例外はない。
あなたがいまいる、一歩も外へ出たことがないというその部屋は、それはそのまま、「時間船」なのである。

例えに出した三人家族は、三人は三人ともずっとそのままというわけにはいかない。
いずれは家族のカタチは変わる。
一緒に同じ所にいることはもちろん、家族は家族でなくなるだろう。
例えに出した三人家族には悪いが、「永遠に不滅」などということはない。

易の根本は、陰でも陽でもない。
絶え間ない変化そのものだ。

「陰」や「陽」は根源ではあるけど、その変化をもたらす、基盤的差異の表現なのである。

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想——はじめに」を参照してください。