夢見るカメラ | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

HOLGA DIGITAL。

ホルガ。デジタル。

雨宮慶太の「未来忍者」と同じくらい、
なんと安っぽい、そして矛盾した響きだろう。

   *

トイカメラが流行ったことがあった。
もう10年以上昔になる。
ぼくは専門学校生(といっても随分歳くった「学生」だったが)で、よく持ち歩いていたのはHOLGAという香港製のトイカメラだった。
当時すでにフィルムは時代遅れだったから、笑われながら120フィルムを入れて、わけのわからない写真をいっぱい撮った。

ついこの間。

ボケ~っとネットを見ていた。
「HOLGA DIGITAL」の文字が飛び込んできた。
気になってそのまま調べる。

『あのHOLGAがデジカメで復活。最初はクラウドファウンディングだったが、あっという間に目標達成。結果的に出資率は600%だった』

へえ。

てかもう、2年も前の話らしい。

なんとなく買ってしまった。
酒が入っていたせいもある。


【HOLGA DIGITAL】

お手軽なスマホのカメラだって、昨今は高機能・高精細である。
キレイな写真が撮れる。


【ささやかな(たぶん)道楽】

なんでHOLGAなんて、およそ不便で役に立たない、ボケた写真しかとれない、いうことをきかないカメラを持ち歩くのか。
ネットをみるといろんな人がいろんなことを書いている。

   *

撮れた写真がどこか「夢」に似ている。

そう、ユメ。
寝てるときに見るやつ。

夢の画像はだいたいボケてる。

スマホのカメラ並に高精細な夢を見る人も……
いるのかもしれないが、ふつうはボケてる。

コントロールできる人も……
いるかもしれないが、ふつう夢はコントロールすることができない。


【夢はコントロールできない】

HOLGAもそんな感じ。
モニタはないので、家に帰ってからSDカードをPCにさしてみるまで、なにが撮れているかさっぱりわからない。
でもって、総体的にチープでユルい。
このカメラで日常を撮ると、ありふれた生活はそのまま夢になってしまう。


【夢になった日常】

シャッターを長押しするとバルブになるというすばらしい機能のおかげで、油断すると簡単にホワイトアウトする。
キャップをつけたまま撮影しブラックアウトするという、懐かしいミステイクも時々ある。
シャッターには何のクリック感もない。
もちろん音もしない。
ただ、フワ~っとレバーを押せるだけ。
シャッターが切れるタイミングもよくわからない。
一説によると離した時に切れるらしい。

なんなんだ、いったい。

そんなわけで、夢も頻繁に錯乱する。


【錯乱した夢】

ノスタルジアだろうか。
そうかもしれない。
いや、そうなんだろう。

   *


【帰ろう】

明鏡国語辞典(電子版)によるとノスタルジアにはふたつ意味がある。

『異郷にあって離れた故郷を懐かしむ気持ち。また、過ぎ去った昔を懐かしむ気持ち。郷愁。ノスタルジー。』

懐古趣味ということでは後者の意味になる。
10年前というのは適度に懐かしい。

一方、前者の意味では「異郷にあって」とある。

日常生活が「故郷」で夢が「異郷」?
毎晩ぼくらは「異郷」へ旅立つのか。

いやいや。

実はその逆ではないか。

夢の世界こそが故郷であり、ぼくらはそこからこの日常という異郷にやってきたのだ。
そうするとHOLGAは、この異郷にあって故郷を覗き込む「窓」ということになる。

いやそもそも、最初から故郷にいるのかもしれない。

それを、見る方向のベクトルをまちがったか、誰かにダマされでもしたのか、あるいはその両方か、ここは異郷になってしまった。

いつの間にか。

ひょっとしたら、HOLGAは故郷を覗き込む「窓」というより、故郷が異郷に見えてしまうベクトルを訂正して、本来の姿である故郷を映し出すデバイスなのかも。

 

【ここはどこ】

家電量販店にいくと高画質のテレビがずらりとならんでいる。

動画も静止画像も息をのむほど綺麗だ。

でもそれって、ほんとうにぼくらが「現に」見ている風景なのだろうか。

ぼくらが見ているのはドットマトリクスで、マトリクスの密度を上げれば上げるほど真実に近づいていく……というのは、ほんとうか。
再現されるイメージが高精細になればなるほど故郷は「異郷」になり、真実から遠ざかっていく……のではなかろうか。

動画も静止画像も息をのむほど綺麗だ。

でもあんまり、「うつくし」いとは思えない。

極端にいえば少々グロテスクにさえ感じる
……のは、ぼくだけだろうか。