六十四卦雑想—メシ食ったか? | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

25:大過
74:頤
TP31:有限

   ☆

このペアについては、
ゼンタングルのストリングの描き方を
まったく無視してしまっている。

小判型の長円の中にパターンを描いた。

主役は○の集合でできたパターン、
ティップル。

易タングルではこの「ティップル」が、
ソースから切り離された「個」をあらわす……
と、ゆるやかに対応づけた。

ひとつひとつの○が「個」ならば、
それが寄り集まってできたティップルというパターンは

群衆である……

というのは、

「同人」と「師」のペアのところで書いた。

「大過」ではその群衆が、
結界を破って外にあふれ出ようとしている。


【25:大過】

それこそ暴動か革命になってしまうかもしれない!
革命とまでは言わないにしても、
警備員の制止を破ってあふれるファンの群れとか。

このタングルのイメージソースは、
そんなところにある。

「大過」は「大きく過ぎる」こと。

過負荷、積載量オーバー。

易卦としては初と上の上下2爻が陰で、
中4つの爻は全部陽である。

暴れ出す4つの陽を、
上と初の陰が押さえ込もうする。

陽は勢いが強く、陰はその逆。

押さえ込もうとしても、いかんせん無理。
陰による抑止、支えは早々に破綻。

   ☆

この「大過」が陰陽反転すると「頤」になる。

中4つの陽爻は、ぜんぶ陰になって、上と下の爻は陰になる。

しかし……

「頤」卦では陽が陰を押さえ込もうとしているわけではない。

押さえ込もうにも、陰は柔らかく、空虚で、実体がない。


【74:頤】

あらわれたのは、
ぱかぁっと開かれた口。

いかにも、もの欲しげ。

だが。

いくら欲しくてもクイモノは転がり込んでこない。
口をあけているだけでは。

かくて、空虚は空虚なままであり、
ティップルはぽつねんと虚空に取り残されたまま。

ティップルを囲むように、
暗闇に埋没している複数の交差する道に見えるような

パターンはゼンタングルで

「ホリバー」と呼ばれるパターンだ。

ホリバーを道と観たてるなら、
描かれているのは交差する人生航路。

海路は折り重なり、
申し合わせたように虚空へと吸い込まれていく。

易卦の上で初と上になるふたつの陽爻は、
虚空というとらえどころのないものを
無理矢理とらえようとしているようにも観える。

「大過」も、「頤」とはエネルギー的には反転しているが、
とらえきれないものをとらえようとしている点では
「頤」と同じと観ることもできる。

「大過」と「頤」。

共通して観えるのは、
無限をとらえようとする「境界」という有限である。

元来無限である海に、

なんとか境界をもうけることにより、

境界は有限という泡をつくりだす。

無限を有限でとらえるのは、

無理なことは最初からわかっている。

無理どころか、

やろうとしていることが、そもそも矛盾している。

しかしそれでもなお、

陽の無限の海に陰の柱を建て、

最後の土壇場まで支えようとするのが「大過」だ。

陰の無限の海を陽の口でくわこみ、

そこからなんとかカタチを取り出そうとするのが「頤」だ。

カタチあるものは、なにかになる。
なんか食えるモノになるかもしれない。
ひょっとしたら。

生命は、宇宙が、
宇宙自身をとらえようとして創った、
その宇宙自身から成る精緻な「境界」だ。

 

食わなきゃ死んじまうぞ。

メシ食ったか?

   ☆

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想—はじめに」を参照してください。