63:既済
36:未済
TP27:はじまりとおわり
☆
既済と未済。
ある大成卦の各爻の陰陽を反転した裏卦どうしのペア(ツイストペア)であることはもちろんだが、大成卦全体の上下をひっくりかえした……タロットでいう「リバース」の関係にあるペアでもある。
各大成卦のイメージをゼンタングルの手法で描いた「易タングル」は下のような具合。

【63:既済】

【36:未済】
すみっこの方に小さく大成卦を描いたが、未済も既済も陰爻と陽爻が交互にならんだ構成になっている。
それはすなわち互いが、上か下へ爻の位置を一段ずらした(ビットをシフトした)関係でもあることがわかる。
易の作者は、このふたつの大成卦に未済と既済という名前をつけた。
「未だ済まず」と「既に済んでいる」という意味だ。
ゼンタングル上の「G××」という番号はゲート番号のことで、「ゲート番号(G)」という言い方はヒューマンデザインから借用してきたものだ。
伝統的な易における大成卦の順番である。
「63:既済」は、コード番号とゲート番号が一致する希有な大成卦である(もうひとつは「13:同人」G13)。
既済、既に済む、既に済んでいるのだ。
それ以上やることはない。
完成されているからだ。
非常に窮屈な状態であるともいえる。
アソビがない。
この既済卦をたった1ビット、シフトするだけで、整然と整った状態、完成された状態はたちまち正反対の、まったくとりとめのない未済卦になる。
次の瞬間になにがどう起こってもおかしくない。
いつ起こるかも判らない。
ひょっとしたらそのまま流動し続けるだけで、なにも起きないかもしれない。
いわゆるカオス。
全面的にアソビ。
タングルのデザインは三角を基調としたパターンと流れるような波線が交互に描かれている。
既済と未済のちがいは、三角のパターンがそろっているかバラバラかのちがいだけだ。
流れるような波線はその位置がちがう(シフトしている)だけで既済と未済双方のゼンタングルに同じように流れている。
既済と未済は、反対のことをいっているようで、実は同じもののことをいっているようでもある。
占術上の実用的なコメントをするなら、いつも書いていることだけど、そもそも、済んだり済まなかったりするものが「何なのか」ということにポイントがある。
いったい「何が」整っていたり、混沌としていたりするのだろうか。
それがこの既済と未済のペアの最も要となる判断になるだろう。
易の作者は既済と未済を最後にもってきた。
最初は乾(天)と坤(地)である。
伝統的な易における大成卦の並び順には、最初の最初のオリジナルからは、おそらくは錯誤や誤りが混入しているであろうというのが定説だが、アタマの乾(天)と坤(地)、シッポの既済(完成)と未済(カオス)については、この並びでまちがいないだろうというのも、また定説である。
この宇宙の創造は天地にはじまり、既済で一応の完成をみる。
この「完成」は、最後の未済(カオス)で一気にリセットされる。
それは次の宇宙(天地)にむけての準備なのである。
☆
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想——はじめに」を参照してください。
78:剥
21:夬
TP05:ゼロポイント
☆

【78:剥】
「78:剥」。
樹から果実が落ち去っていく。
てっぺんの最後の一個が残っている。
秋の枯れ葉だろうか。
最後の一枚が残る。
「78:剥」は剥落の「剥」で表面的なものがはがれ落ちていくこと。
吉凶は何がはがれ落ちるかによる。
たとえば、追いはぎに会って身ぐるみはがれるのは、まあふつうは凶。
メッキがはがれて本心が顔を出すのは……吉。
一時、つらいかもしれないが。

【21:夬】
「21:夬」。
樹のたとえでいえば、実がたわわに実った……
いや、実りすぎた木の、一番てっぺんの実が勢いのある他の実に追い落とされるように落下していく。
アタマがない。
リーダー不在またはリーダーその人の危機ともとれる。
「21:夬」は、「78:剥」とは似て非なるもの。
邪魔者が追われるようにもみえる。
不在になったアタマのポジションには、足下から這い上がってきた陽(実)のうちのだれかが、あるいはなにかが、やがて当然のようにおさまる。
「78:剥」は、易卦でいえば、全陽の「乾為天」から、下から順に陰が増えていくプロセスの終局である(十二消長卦の半分)。
「21:夬」はその逆(十二消長卦のもう半分)。
「78:剥」は最後の陰がなくなれば全陰になる。
「21:夬」は最後の陽がなくなれば全陽になる。
いずれも反転する直前で境界的な状態である。
このことから、このペアには「ゼロポイント」という意味をつけた。
陽が行き、陰が来る。
陰が行き、陽が来る。
似ているがぜんぜん別物。
あかつきの空ととたそがれの空。
そのあとに続く時がまるでちがうのとよく似ている。
同じ緋色でも。
☆
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。
26:困
73:賁
TP24:内面と外面
☆
このゼンタングルはどちらも中央がくびれた砂時計のような格好をしている。
砂時計ともとれるが、女性の身体のようでもある。
困はエネルギーが漏れることによって、活力不足に陥ってしまった状態をあらわしている。

【26:困】
タングル上では砂時計と同じく、上から下へ活力が落ちて(漏れて)いく様子をあらわしたつもりだ。
易卦の方も上が沢で水をたたえている場所だが、下は坎、水そのもので上から下へ水が流れ落ちている。
といわれても、易のシンボルになれていなければピンとこないかもしれない。
このゼンタングルが少しでも、易卦の理解の助けになっていればいいのだが。
砂時計の上は真珠の珠のようなものでフタをされているようにみえる。
この人(かどうかわからない。組織かも知れない。預金口座かも知れない……etc、etc。それが何なのかは占的による)は、活力が漏れてエネルギー不足になっていることを、飾りたてることによって外から見えなくしているのだ。
というわけで、話は「賁」、飾ることへと進んでいく。

【73:賁】
「賁」は飾りである。
タングルは砂時計のカタチがいかにも飾られているように描いた。
その飾りも少しずり落ちて、黒い影のような本体が見えかけている。
「賁」を見るといつも思い出すのは、夫の海外転勤に同行しなければならなくなったある女性を占った時のことだ。
女性はぜんぜん乗り気でなくて、友人や知人の多い日本にとどまっていたいというのがその時の本音だった。
転勤することになるのか?
というのがシンプルに占的だった。
そのとき出たのが「賁」だった。
「賁」の字をよく見ると「貝」の上に「十」のような文字が重なってみえる。
この十の重なりは貝のきらめきをあらわしている。
貝のキラキラ。
ゆれて光を反射して貝がきらめいているのだ。
貝はその昔、装飾品だった。
持ち主の身体にくっついて、その身体の動きにあわせて、きらめく。
「賁」という回答が意味しているのは、ことこの占的に限ってという話になるが、相談者が(言葉は大変よくないけど)添え物=飾りの立ち位置にあるということだ。
飾りは本体にくっついて動いてはじめて飾りの役割を果たす。
転勤の命令は下る。
その転勤には同行せざるをえないだろう。
そう答えた。
かなりがっかりされた様子だったのを今でも覚えている。
で、そのようになったのだが……
占者として「当たった!」とか言って喜んでいいものかどうかは微妙だった。
数年当地に滞在してもどってこられたが、向こうで友人知人もたくさんできて、最初に思ったほど悪い転勤ではなかったらしい。
まんざらでもないどころか、最後には日本に帰るのがいやだったというくらいだから、吉凶というものがいかに相対的であるかわかろうというものだ。
まあ吉凶なんて、占断の本質に比べたら添え物、飾りのようなもの、刺身のツマだ。
ぼくは刺身のツマには手をつけない。
昭和ヒトケタのうちのお袋は、「もったいない!」とか言って醤油ぶっかっけて全部食っちゃうけど。
☆
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。

【「ブランク」の易タングル】
「ブランク」は、空白のことである。
これまで紹介してきた易タングルにあった、易卦の象(カタチ)やコード番号、ゲート番号というものが、このタングルにはない。
だから、「ブランク」。
空白の易タングル。
対応する易卦はない。
易タングルは六十四卦に対応した64枚のカード。
その64枚から一枚ひくことによって占うオラクル・カード……のつもりで描いている。
で、この、易卦の象やコード番号やゲート番号もないゼンタングルをひいたときはどうすればいいか?
その日は占うことをやめるか、質問を変えるかして仕切り直してください。
いや、すみません。
本日臨時休業。
研修です。
(という名の社員旅行だったりして)
冗談はさておき、タイミングが悪いのか質問が悪いのかは定かではないが「今の状況では答えはわかりません」という答えを、システム側でも用意させていただいた。
そんな答えがあること自体は、特別なことではない。
ダウジングでも「はい」「いいえ」の他に、「たぶん」や「わからない」などの答えがある場合もあるし、易占では、本筮、中筮法で、卦は得られるものの変爻が得られないことがある。
「これです!これこれ!」
というくらいにしっかり指さしてくれるような答えが、常にパシッとあるとは限らない。
いわば、システムの小休止だ。
易タングルのカードセットにブランクを入れようというアイディアは、ラルフ・ブラムという人が書いた「ルーンの書」(VOICE刊)から借りてきたものだ。
実は、この本と易の関係は深い。
「ルーンの書」では、著者のインスピレーションによって各ルーン文字に意味がつけられている。
著者はその妥当性を補完するために易占を使ったというようなことが書いてあったと思う(うろおぼえ)。
「ルーンの書」にはテラコッタのルーン・ストーンがついている。
この中にブランク・ストーンがあった。
別のルーンの本だったと思うが、やはりブランク・ストーンがあるセットで、ブランク・ストーンをつくるとき、他のすべてのルーン・ストーンをつくる粘土からすこしづつ粘土を取って、ブランク・ストーンにしたという話を読んだことがある。
なんでそんなメンドーなことを?
他すべてのルーンの要素でブランク・ストーンをつくることによって、ブランクこそがすべての基盤であることを象徴的にあらわそうとしたのだ(*1)。
いささか魔術めいてはいるが、この「ブランク」の易タングルにも同様の意味をこめたかった。
64枚の易タングルのセットは森羅万象をあらわしている。
で、さらにブランクのタングル一枚で、その64枚すべて……基盤、母体をあらわす(*2)。
占ってこの易タングルを引き当てたということは、64の易卦が全部一気に目の前に広がったのと同じことで、答えの出しようがない。
答えは波動となって全宇宙に拡散してしまっているのである。
だから、答えはない。
機会を改めて、もう一回やりなおしましょう、
ということになる。
具体的に応用できる答えになっていないからだ。
占ってある特定の易卦が得られるということは、宇宙全体に広がった波動が特定の粒子として収束するようなものだ。
答えがその一点に絞られる以前には「すべて」が答えなのである。
ブランクは「空っぽ」というような空虚なものではなく、いわば「万有の無(この言葉、好き)」だ。
そんな答えがあってもいいと思う。
☆
(*1)
「空白こそがすべてをあらわす」
この観方には「36:火水未済」の意味にも通じるものがある。「36:火水未済」はカオスであり、初期状態であり、それ自体「すべて」である。「36:火水未済」のゲート番号はG64であり六十四卦のトリを担う。
(*2)
易タングルにおいては「乾」「坤」「泰」「否」が4枚セットで全体をあらわしているという設定(後天動因図)もあるが、ひとまずその話はここではさておく。
今回の記事の参考記事→「ZIA、無限を描く」
「ゼンタングル」、「易タングル」については「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。
32:<「目癸」、目へんに「みずのと」><ケイ>
67:<「寒足」、「寒」の下の二点の代わりに足><ケン>
TP13:ブロック
☆
このふたつはアタマの痛い卦である。

【32:「目癸」ケイ】

【67:「寒足」ケン】
ゼンタングルの方もそれらしいデザインにしたが、いずれも単独のティップル(真ん中にある、丸の中心に点のあるパターン)が、大きな三角形にはさまれている。

【単独のティップル】
このゼンタングルのシリーズ(易タングル)では、
単独のティップルは、創造されてこの方、分離という旅に出た個人をあらわすものとした。
この個人、このゼンタングルの物語における主人公はいまや、上から下から、大きな三角形であらわされる重圧に苛(さいな)まされているのである。
重圧の性質は「32:「目癸」ケイ」と「67:「寒足」ケン」では異なる。
「32:「目癸」ケイ」では一つ屋根の下に嫁姑、互いに反目しあうものどうしが同居している。
「67:「寒足」ケン」では行く手を急流、背後を山でさえぎられて身動きがとれない。
この卦に限らず、一般に難卦といわれるアタマの痛い卦(*1)が出たとき、占者としては、何らかの活路を相談者に提示する必要がある(いやまあ、四難卦じゃなくても活路の提示(適切なアドバイス)ができなきゃ困るわけですが。占者としては)。
占者 :「あなたは今、×××な状況にいますね!」
相談者:「すごい!あたってます!」
てなやりとりはよく見聞きするが、あたってるからなんだというのだろう。
あたっているということがわかるということは、相談者はそんなことは最初から百も承知であるということだ。
最初からわかりきったことを、あたってる、あたってるといって喜んでも仕方がない。
たとえば、黒い紙を二人で囲んで
「黒いですね」
「うん、黒い」
と確認しあったところでなんの解決にもならない。
この段階では現状確認だ。
それはそれで重要な基盤なのだが、大事なのはその先の話だ。
エラそうなことをいってしまった。
じゃあオマエは、この卦が出たときはどうしろというアドバイスが的確にできるのかと問われれば、そんな自信も公式も……
もちろんない。
ただいえるのは、どれだけ八方ふさがりに見えても、必ず「活路はある」ということだけだ。
「必ず」だ。
最初は半信半疑かも知れない。
そんなこと、到底信じられないかも知れない。
そのときは、どうしたらいいか皆目わからないかもしれない。
けれども、活路がある。
だから安易な方法を選んではいけない、ということと、「活路は必ずある」ということだけは、歳をとればとるほど信じられるようになっていく。
このゼンタングルの真ん中の○、ティップルは、上から下から年月を経た圧力をかけ続けられることによって、その性質を変える。
それはあたかも、なんの変哲もない路傍の石ころが、圧力をかけられることによって、結晶に変容するようなものかもしれない。
歳をとること。
それは知恵が結晶化することだ。
その結晶は、たくわえられた豊富な知識とあいまって、うつくしく、記憶・知識へのアクセスは、ひらめくように早くなる。
しかしその反面、融通(書き換え)がききづらくなる。
こんなふうに、いい知らせと悪い知らせはペアでやってくることが多い。
まるで陰陽のように。
活路はたいがい、そのどちらでもない、意外なところからもたらされる。
「だからね、占ってもしょうがないんですよ、実は」
とまでは、さすがに言えない。
ぼくは占い師じゃないけれど。
☆
*1 アタマの痛い卦
「64:屯」、「26:困」、「66:坎」、そして「67:「寒足」ケン」は四難卦として有名。
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。
37:旅
62:節
TP16:プロセス
☆
あるパターンをフチ取るように何重にもラインを描いていくパターンをゼンタングルでは「オーラ(Aura)」と呼ぶ。
ゼンタングルのパターンの愛称にしては、わりと意味のわかる名称である。

【37:旅】
この易タングルでは、オーラはパターンというより地形をあらわす等高線のようにもみえる。
格子状の破線も入って……
そう、これは旅人が持つ地図なのだ(*1)。
たぶん視聴率がかせげるからだろう、旅番組はよく見かける。
旅に出て帰ってきた人の話には、だれもが興味シンシンだ。
が……
「旅」という卦は筆者にとっては、とにかくものさびしいイメージの卦なのである。
たぶん何かの本で読んだイメージだと思うが、上卦が離=火、下卦が艮=山で、日もとっくに暮れた漆黒の山道を、小さなたいまつまたは提灯を、かかげるか足下に下げるかしながら頼りなく登っていく旅人なのだ。
ここでテーマになっている易の「旅」は、旅は旅でも今みたいな気楽で安全なパックツアー、物見遊山ではない。
一度故郷を後にしたが最後、二度と後戻りはできないような、それこそ一回限りの命がけの旅だ。
旅については常々思っていることがある。
金をかけてどこかへいくことだけが旅ではないということだ。
この身体をA地点からB地点へと移動させることだけが旅ではない。
A地点から物理的には一歩も動かなかったとしても旅はさせられている。
時間の中を。
金も時間もなくてどこへも行けない者のひがみにも聞こえるかも知れないが、どこへ行って何をどれだけ見ようと旅人自身の中身がなにも変わっていなければ、じっとしていても同じことである。
時間の中をいく、一回限りの命がけの旅。
どこかで聞いたことはないだろうか。
口幅ったく響くが、それが人生という「旅」なのではなかろうか(わあ、口幅ったい!)。
この易タングルで等高線(オーラ)がとりかこんでいるパターンは四角や丸などの元型的な図形(*2)だ。
見え隠れするシンボルをたよりに、心細い旅は手探りですすんでいく。

【62:節】
旅といえば弁当だ。
命がけとか一回限りとか、カッコつけた事を並べ立てておきながら、話はまたお気楽な物見遊山レベルにもどる。
でも、食べなければ始まらない。
生きていけない。
どんなに大変な旅であっても、生きていく限り、量の多い少ない、質の善し悪しにかかわらず、どこかでなにかを食べなければならない。
それがつまり旅における大切な「節目」になる。
階段に踊り場があるように、旅にも節目がある。
その節目を易では「節」という卦で表現している。
どうしていきなり「弁当」だったのかといえば、「37:旅」では座標のようなものをあらわしていた破線で描かれた格子状のストリングをそのままに、「62:節」の易タングルを描いたらそれが各マスに行儀よくつめこまれたパターンの松花堂弁当のようになってしまったからである。
「節」は節度の節のことだが、節度もいきすぎると窮屈になりついには動きがとれなくなってしまう。
そうかといってあまりに節度がないと、のびきったパンツのゴム紐みたいに用をなさなくなってしまう。
しかし。
旅といえば駅弁。
豪華絢爛たる昨今の駅弁の中身を見るたびに、ちょっとお金さえ払えば、何不自由なく腹一杯食べられる時代が、いったいいつまで続くのだろうか……
と、少々不安になることもある。
(歳か。俺も)
安かろう悪かろうで、あまりに貧相な駅弁も困るけど。
もうすぐ夏休みです。
(俺には関係ない)
それではよい旅を。
(今年も俺には関係ない。たぶん)。
☆
*1)
国土地理院の紙地図は売り上げが激減しているそうだ。
スマホのGPS地図で見れば事足りるからだろう。
だけどスマホのGPS地図は地図じゃない。
スマホの地図は手触りのあるブツじゃない。
実体はただのビット列、デジタルデータだ。
おっと、このブログもただのビット列だったっけ。
*2)
アンジェラス・アライエン、「運命のサイン」より。
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。
86:師
18:同人
TP19:集うこと
☆
「師」とは、軍隊のこと。
「同人」は同人誌の「同人」。
同人という言葉は易からきている。
志を同じくする者どうしの集まりである。
このペアに共通なのは「群衆」というテーマ。
ツイストペアの意味も「集うこと」にした。
ゼンタングルで、小さな○が集まってできたパターンを「ティップル」という。

【ティップル(個人)】

【ティップル(集団)】
易タングルで中心に点のある小さな○は「個人」をあらわしている……とみたてているから、小さな○があつまってできたティップルのパターンはすなわち、群衆をあらわすことになる。

【86:師】
「群衆」といってもさまざま。
ただなんとなく群れた「烏合の衆」もあれば、明確な目的を持って集まった集団もある。
「師」は「烏合の衆」の対極にある。
命令(律)によってきびしく統一された「師団(軍隊)」あるいはそれに類する組織のことである。
集団を率い、統一をとるシンボルとして連想したのは旗だった。
このゼンタングルのペアのストリングも旗のような形になっている。
「旗」は三層に分かれている。
一番上は市松模様で、真ん中の層にはティップルがあり、最下層には板塀(昨今の町ではとんと見かけなくなりましたが)のようなパターンがある。
群衆をあらわしているのは真ん中の層で、ティップルが描かれている。
真ん中の層の中央には太極図のようなものが描かれている。
これが軍隊を統べるリーダー。
この太極図にも中心にティップルがある。
この中心の単独ティップルは、リーダーもひとりの人間、生身の個人であることを意味している。
軍隊が持てる力を充分に発揮できるかどうかは、結局このリーダーにかかっている。
幸いなことに、このリーダーはバランスのとれた人格の持ち主のようだ。
だからその姿は太極図のようなもので描かれている。周囲のティップルたちは比較的整然と並んで、100パーセントではないにしろ、充分力を発揮できている。
ただそれは、ゼンタングル上の話。
現実にはそんなことはまれである。
個人レベルでは問題にならなくても、リーダーの人格のゆがみが集団に反映されると、そのゆがみはとんでもなく拡大されてしまう。
ゆがみのない人格を持つ人間など滅多にお目にかかれるものではない。いやひょっとしてそれは、「人間」ではないのかもしれない。
軍隊といえば戦争だ。
一番下の板塀もどきのパターンはオリジナルだが、矢とか盾とか、そんなものをイメージして描いた。
リーダーは、「師」の大成卦上では二爻の、たったひとつの陽爻にあたる。

【易卦の「師」とそのリーダー】
同じ旗のもとに集うといっても、同人は軍隊とはかなり異なる。
同人に絶対的な規律はないし、その必要もない。
あくまで自由意志で志をともにする者たちが自然に集まったのが「同人」だからだ。

【13:同人】
そこに自由を妨げるものがあってはならないので、ティップルの○のあつまりもこのゼンタングルではかなりゆるいものになっている。
通常のティップルのような○が密集したパターンではなくて、○の間にねじれたひし形というか三角というかそんなものがはさまった「ケイデント(Cadent)」と呼ばれるパターン(のアレンジ)になっている。

【ケイデント】
「ケイデント」は、易タングルにおいてはおおむね、「風」のイメージで使わせてもらっている。

【「ウインドキャラバン・新宮晋」(参考)】
「同人」では、「師」のように旗をふるものはいない。
おのおのの○の間にある波打つ三角がその「旗」だ。「旗」は多様でグループの数だけある。
一番下の層になっているティップルも、「師」ほど整然としていない「本来のティップル」になっている。多様性が生かされつつも、志を同じくするものどうしとして力をあわせているのである。
個人あっての集団か。
集団あっての個人か。
あるいはそもそも個人も集団もないのか。
この問いには決定的な回答はない。
いつもその時その時に、問い直されるべき問いなのだろう。
問いがおかれた文脈によって、その回答は時々刻々変わってくる。
そんな問いなのだが、すべての問いが多かれ少なかれ、そんな性質をはらんでいる。
絶対的な回答などおそらくどこにもない。
あってたまるか。
だからこの世はこんなにオモシロイ。
☆
「ゼンタングル(タングル)」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。
22:兌
77:艮
TP03:振動
☆
喜悦(兌)と静止(艮)。
これが組み合わさって繰り返されると周期を持った運動になる。
兌は喜びをあらわすので、その喜びを充分味わうためには山のように(艮)しっかりと大地に根を下ろしていなければならない……
という解釈も成り立つ。
易卦の解釈には、ルールがあるようでない。
わるくいえばいい加減。
よくいえば融通無碍。
そこらへんは(いい意味で)いい加減に読んでいく必要がある。
勘所はシステムを使い込んで覚えるしかない。
あるいはまた、身体感覚のような、微細ななにかに反応する媒体を意識して感じていくしかない。
それでも外すときは外す。
(えばっていうこっちゃない)
そんなときは相談者とイッパイやりながら、ずっこける(死語?)しかない。
勘定は外した占者持ちである。

【22:兌】
兌は、せせらぎのような、あるいは年若い女性がコロコロと笑う(死語?死語??)ような、軽やかな喜びをあらわすものととらえることもできる。
「字統」によれば、「兌」という字の「兄」の部分は、祈祷文を入れた箱を頭に乗せた人(神官)が神に祈りをささげる姿なのだそうである。
そこに「ハ」の字型のなにかがかぶさって「兌」の字になる。
なにがおりてきたのだろう。
神様からのおくりものだろうか。
それとも神様そのもの?
いずれにしても、祈りをささげた人間の手に負えるものではなかった。
キャパがまったく足りない。
あっという間にオーバーフロー。
このゼンタングルの構図(元来「絵」ではないので「構図」もなにもないんですが)は、下部中央にあるたったひとつのティップル(丸)から何かが放出されている様をあらわしたもの『ではない』。
描きたかったのは実はその逆で、上から手に負えないものが降り来たった状態だった。
神経系は完全にショートしてしまい、認識も判断もへったくれもない。
「軽やかな喜び」どころではなく、完全なる忘我状態、喜悦、表現のしようのないふらふら状態こそが兌の真意なのである。
よろこびという側面でとらえるなら、艮の「よろこび」は、兌とはまったく異質である。

【77:艮】
ここにあらわれているのは、深く静かな「よろこび」であり、それは中央の黒い三角形とその中に花開いた安定した理解だ。
背景……のように観えるブロックのようなマス目状のパターンはゼンタングルでデックス(Dex)と呼ばれるパターンで、最初に見たとき、どことなくロッカーというか、もっといえば納骨堂のような、どちらかといえばあまりいいイメージはなかった。

【デックス】
艮には墳墓(ハカ)や、寺院といった意味もあり、いずれもどっしりとしていて、静かな印象がある。
このデックスというパターンはどこかメモリーバンクを思わせる。
静かな記憶、アカシックのようなものととらえることもできるかもしれない。
もしアカシックから一気に情報がダウンロードされたとしたら、それはそれこそオーバーフローを起こしてしまい、兌のふらふら状態になってしまうだろう。
兌と艮は反対のようでもあり、共通のようでもある。
このペアが織りなす運動(変化)は軽やかなものでも(兌)静かなものでも(艮)なく……意外と、ダイナミックなものなのかもしれない。
☆
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。
みんな知ってる
青空を見たときの
うれしさ
みんな知ってる
川のせせらぎの
軽やかさ
みんな知ってる
焚き火をかこむ心の
正直さ
みんな知ってる
はりさける雷の
こわさ
みんな知ってる
夏の渓谷に吹く風の
清らかさ
みんな知ってる
流れる雨の
素直さ
みんな知ってる
日が暮れた山の
しずけさ
みんな忘れてる
母のようだった
大地のおおらかさ
バチ当たりを承知で般若心経を自分流に書き換えることなどを想っていた。
「空」と描かれているところを「流」にする。
すべてが流れならそうなるのではないかと。
色即是「流」
「流」即是色
だから(私に)起こることはすべて、起こりうる最善のことなのである。
これもまたよきかな。
すべてはよきかな。
日々是好日。
すべては流動で、流動という運動はやむことはなく、その流動は周期という基本構造をつくる。
無限の階層はそこからはじまる。時間も空間も物質もすべてそこから生じる。それはまた楽しいことなので、肝心なのは「流れ」に「ゆだねる」ことをおぼえることである。
これはスキルだ。単純に。
「心」も「神」もたぶん想定する必要はない。
じゃ「仏」ってなに?
「法」は?
「流れ」である。
大いなる流れのままに。
ザッツオールだ。
ほかにはなにも必要ない……
というか、「なにもない」のである。
それをいつも味わっていたい。
かみしめていたい。
すべてが「流れ」であることを。
意識の正体はふわあふわあと
流れて行く想念のつらなりではなかったか。
できごとは流れていく。
眠気も流れていく。
人生も流れていく。
「私」っていったいなんだ?という問いすら流れていく。
だから効率もなければ無駄もない。
目に見えるものすべては、目先の損得は、そして生き死には、ただの一時的な区分けである。
流れよ。すべて流れよ。
易はそのコンパクトなシンボルセットで「流れ」をあらわそうとしたものだ。
流れはどとまることはないので得られた易卦は常に一定「しない」。
これぞ「さいわい」なことなのである。
すべてが流れていくということが。
腕を組んでうつむき、深い呼吸をするとそのまま眠ってしまいそうになる。
流れはなんの外部動力もなくそれ自体で流れていく。
だからうつくしい。
だから安心して身をまかせてよいのだ。