37:旅
62:節
TP16:プロセス
☆
あるパターンをフチ取るように何重にもラインを描いていくパターンをゼンタングルでは「オーラ(Aura)」と呼ぶ。
ゼンタングルのパターンの愛称にしては、わりと意味のわかる名称である。

【37:旅】
この易タングルでは、オーラはパターンというより地形をあらわす等高線のようにもみえる。
格子状の破線も入って……
そう、これは旅人が持つ地図なのだ(*1)。
たぶん視聴率がかせげるからだろう、旅番組はよく見かける。
旅に出て帰ってきた人の話には、だれもが興味シンシンだ。
が……
「旅」という卦は筆者にとっては、とにかくものさびしいイメージの卦なのである。
たぶん何かの本で読んだイメージだと思うが、上卦が離=火、下卦が艮=山で、日もとっくに暮れた漆黒の山道を、小さなたいまつまたは提灯を、かかげるか足下に下げるかしながら頼りなく登っていく旅人なのだ。
ここでテーマになっている易の「旅」は、旅は旅でも今みたいな気楽で安全なパックツアー、物見遊山ではない。
一度故郷を後にしたが最後、二度と後戻りはできないような、それこそ一回限りの命がけの旅だ。
旅については常々思っていることがある。
金をかけてどこかへいくことだけが旅ではないということだ。
この身体をA地点からB地点へと移動させることだけが旅ではない。
A地点から物理的には一歩も動かなかったとしても旅はさせられている。
時間の中を。
金も時間もなくてどこへも行けない者のひがみにも聞こえるかも知れないが、どこへ行って何をどれだけ見ようと旅人自身の中身がなにも変わっていなければ、じっとしていても同じことである。
時間の中をいく、一回限りの命がけの旅。
どこかで聞いたことはないだろうか。
口幅ったく響くが、それが人生という「旅」なのではなかろうか(わあ、口幅ったい!)。
この易タングルで等高線(オーラ)がとりかこんでいるパターンは四角や丸などの元型的な図形(*2)だ。
見え隠れするシンボルをたよりに、心細い旅は手探りですすんでいく。

【62:節】
旅といえば弁当だ。
命がけとか一回限りとか、カッコつけた事を並べ立てておきながら、話はまたお気楽な物見遊山レベルにもどる。
でも、食べなければ始まらない。
生きていけない。
どんなに大変な旅であっても、生きていく限り、量の多い少ない、質の善し悪しにかかわらず、どこかでなにかを食べなければならない。
それがつまり旅における大切な「節目」になる。
階段に踊り場があるように、旅にも節目がある。
その節目を易では「節」という卦で表現している。
どうしていきなり「弁当」だったのかといえば、「37:旅」では座標のようなものをあらわしていた破線で描かれた格子状のストリングをそのままに、「62:節」の易タングルを描いたらそれが各マスに行儀よくつめこまれたパターンの松花堂弁当のようになってしまったからである。
「節」は節度の節のことだが、節度もいきすぎると窮屈になりついには動きがとれなくなってしまう。
そうかといってあまりに節度がないと、のびきったパンツのゴム紐みたいに用をなさなくなってしまう。
しかし。
旅といえば駅弁。
豪華絢爛たる昨今の駅弁の中身を見るたびに、ちょっとお金さえ払えば、何不自由なく腹一杯食べられる時代が、いったいいつまで続くのだろうか……
と、少々不安になることもある。
(歳か。俺も)
安かろう悪かろうで、あまりに貧相な駅弁も困るけど。
もうすぐ夏休みです。
(俺には関係ない)
それではよい旅を。
(今年も俺には関係ない。たぶん)。
☆
*1)
国土地理院の紙地図は売り上げが激減しているそうだ。
スマホのGPS地図で見れば事足りるからだろう。
だけどスマホのGPS地図は地図じゃない。
スマホの地図は手触りのあるブツじゃない。
実体はただのビット列、デジタルデータだ。
おっと、このブログもただのビット列だったっけ。
*2)
アンジェラス・アライエン、「運命のサイン」より。
「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。